第4話 押しかけ弟子
マレーネを埋めて、二日が過ぎた。
三日目の朝、トビアスは屋根裏の荷物をまとめた。
三年ぶんのはずなのに、布に包むと膝に載るくらいしかない。着替えが二枚、歯の欠けた櫛、母の形見の木の匙。それだけだった。
下りると、台所にヨーゼフがいた。
今日、隣町へ戻るという。マレーネの家は村長に預け、仕立ての道具は針を持てる者に分けることになった。
「すまんな」
ヨーゼフは硬貨を何枚か、トビアスの手に押しつけた。
「うちは人を置ける家じゃない。隣町の製粉所なら、口を利いてやれる。……行くか」
行きます、と言えばよかった。
言わなかった理由を、トビアスは自分でもうまく説明できなかった。
*
黒衣の女は、まだ村にいた。
村はずれの空き家に三日泊まっていた。宿のない村ではそうするのだと、あとで知った。
その朝、イルゼが街道へ出ていくのを、トビアスは通りの角から見ていた。
鞄が一つ。来たときと同じだ。
今度は誰も道を空けなかった。空ける必要がないほど、誰も外に出ていない。
足が動いた。考えるより先だった。
「あの」
半町ほど行ったところで、ようやく追いついた。
イルゼが足を止めて振り返る。
「……お世話になりました」
それを言うために走ったのだと、口にしてから気づいた。
「こちらこそ」
イルゼは軽く頭を下げて、また歩き出した。
トビアスは動かなかった。
十歩ぶん離れてから、荷物を抱え直して、ついていった。
*
昼を過ぎても、イルゼは何も言わなかった。
振り返らない。歩調も変えない。追い払うでも、迎えるでもなかった。
街道の両側は、刈り入れの終わった麦畑だ。切り株だけの畑に、鴉が降りては飛ぶ。
風が出てくると、埃が道の上を低く走る。
布の包みは、抱えて歩くと角が脇腹に当たった。持ち替えるたびに、指の付け根のあかぎれが開く。
一度だけ、イルゼが足を止めたことがあった。
水を飲むのだと思った。違った。
彼女はトビアスの荷物を見て、それから、それを抱えている手を見た。
しばらく、そうしていた。
「……何か」
「いいえ」
それだけで、また歩き出す。
*
日が傾きはじめた頃、トビアスはとうとう聞いた。
「看取り屋って、何をする仕事なんですか」
返事まで、少し間があった。
「聞く仕事です」
「……何を」
「その人が、まだ言えていないことを」
イルゼは前を向いたままだった。
「死ぬと決まった人は、たいてい、一つか二つ、言い残しています。それを本人の口から出させて、行き先まで運びます」
「言えないことなんて、どうやって聞くんですか」
「言えないのではありません。言う相手がいないだけです」
トビアスは、その言い方を頭の中でもう一度なぞった。
「家族がいても、ですか」
「家族がいるから言えないことのほうが、多いです」
マレーネの顔が浮かんだ。
息子に死に支度を見せたくないと言った、あの声も。
「……マレーネさんも、そうだったんですか」
「ええ」
それきり、イルゼは黙った。
*
村に着いたのは、日が落ちる直前だった。
街道沿いの、マレーネの村より少し大きな村だ。畑の向こうに教会の鐘楼が見えて、その手前に家が二十軒ばかり固まっている。
村の入口に、女が一人立っていた。
四十くらいだろうか。前掛けをしたまま、ずいぶん長くそこにいたらしい。イルゼの姿を見ると駆け寄ってきて、何か言う前に頭を下げた。
「エーリヒの娘です。……来てくださって」
ここでも、通りの家の戸が閉まる音がした。
娘は気づかないふりをした。あるいは、本当に気づいていなかったのかもしれない。それどころではないという顔をしていた。
*
家は村のいちばん端にあった。
土間に入ると、煎じ薬の匂いがした。天井が低く、手を伸ばせば梁に届きそうだ。
壁の釘に、革の鞄が掛かっている。肩から下げる形の、大きな古い鞄だった。留め金のあたりが、握りの形にすり減っている。
「父は四十年、この辺りの郵便を配っていました」
娘が言った。
「辞めてもう三十年になるんですけど、あれだけは捨てさせてくれなくて」
一段上がった奥に、寝床が延べてあった。
エーリヒは痩せた老人だった。七十をいくつか越えていると娘は言った。
毛布から出ている腕が、枯れ枝のように細い。日に焼けた首の皮だけが、たるんで余っている。
雨の日も雪の日も歩き続けた人の身体には見えなかった。
「三日前から、起き上がれなくなりました」
娘が声を落とす。
「お医者さんには先月、回ってきたときに診てもらいました。年だと言われて、それきりです。
……村の婆さまが、もう長くないって」
イルゼは寝床の脇に膝をついた。
まず、胸の上がり方を見る。数えているらしかった。
それから手首に指をあてて、しばらく動かない。瞼を軽く持ち上げて目を見る。唇を見る。爪を見る。
手袋は、外さなかった。
「お食事は」
「おとといから、水だけです」
「お通じは」
「……四日、ありません」
トビアスは戸口に立ったまま、それを聞いていた。
聞いていて、気づいたことがある。イルゼは一度も「かわいそうに」と言わない。慰めを言わない。娘が泣きそうな顔をしても、待たない。
そのぶん、話が速かった。
やがてイルゼは顔を上げた。
「あと三日か、四日かと思います」
娘の肩が落ちた。
落ちたけれど、崩れはしなかった。たぶん、誰かにはっきり言ってほしかったのだと、トビアスは思った。
「……そばに、いてやってください」
「承知しました」
イルゼは鞄を下ろして、椅子を借りた。
「一つ伺います。この三日で、お父様が繰り返しおっしゃったことはありますか」
「繰り返した、こと」
「同じ言葉を、二度以上」
娘は少し考えて、首を振った。
「……あの人は、もともと無口で」
「思い出したら、いつでも」
*
その夜、トビアスは土間の隅で膝を抱えていた。
娘は隣の部屋で寝かせた。三日眠っていないというので、イルゼが寝るように言ったのだ。
自分は椅子から動かない人が、他人には寝ろと言う。
灯心を細くした燭台が、一つ。
エーリヒの息は浅く、時々、止まったように長くなる。そのたびにトビアスの心臓が跳ねて、また続くと、身体から力が抜けた。
こんな夜を、この人は何度過ごしてきたのだろう。
イルゼは背筋をまっすぐにしたまま、動かない。
真夜中を過ぎた頃、老人の唇が動いた。
最初は、息の音だと思った。
イルゼが身を乗り出す。
トビアスも、そろそろと近づいた。
「……い」
掠れて、ほとんど声になっていない。
「いっ、つう」
イルゼは耳を近づけた。手袋をした指を、老人の手の上に、触れない高さで添えている。
「……一通だけ」
エーリヒが言った。
「一通だけ、配れなかった」




