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第3話 最後の一針

 チェストは、作業場ではなく、マレーネの寝ている部屋にあった。


 背の低い、古いチェストだ。上に水差しと薬瓶が置いてあって、開けようとすれば必ず一度どかさなければならない。

 だからトビアスも、三年住んでいて一度も開けたことがなかった。


 イルゼは水差しを床に下ろして、いちばん下の引き出しを引いた。


 冬物の毛織りが詰まっていた。


 その下に、白い布があった。


 畳まれていたのではない。押し込まれていた。


 イルゼが両手で取り出して、裁ち台の上に広げる。


 白い、丈の長い衣だった。


 襟も、袖も、身頃も、縫い上がっていた。糸の始末まできれいに終わっている。


 裾だけが、途中で止まっていた。


 半分ほど縫われて、そこから先は縫い目がない。

 縫いかけの糸が、針をつけたまま布に刺さっている。


 トビアスは、それが何なのか、少し遅れて分かった。


 マレーネ自身の死装束だった。


  *


「……なんで」


 声が掠れた。


「なんで、隠してたんですか。ヨーゼフさんに言えば、誰かに頼めたのに。うちの村にだって、針を持てる人は他にもいます」

「ええ」


 イルゼは裾の縫い目に指をあてて、目を近づけていた。


「頼めば、誰かが縫ってくれます。頼まなかったということは、頼みたくなかったということです」

「……どうして」


 イルゼは答えなかった。


 その代わりに、寝台のほうを向いた。


「ご本人に伺います」


  *


 明け方近くに、マレーネの目が開いた。


 一度、ふっと意識が浮くことがあるのだと、イルゼは言っていた。

 長くはもたない。話せるのは、たぶん数えるほどだ、と。


 ヨーゼフはまだ台所で眠っていた。


 イルゼは起こさなかった。


 枕元に膝をついて、顔を近づける。


「マレーネさん。仕立てかけのものを、見つけました」


 マレーネの目が、ゆっくりイルゼに向いた。


「裾が、あと少しです」


 乾いた唇が、わずかに動いた。声にはならなかった。


「息子さんに、お見せしますか」


 トビアスは息を止めた。


 見せるに決まっている。そう思った。

 ヨーゼフは、母が何を思っているか分からないまま見送るのが嫌だと言った。これを見せれば、分かる。何を考えていたのか、何を怖がっていたのか。


 マレーネの目が、ゆっくりと横に動いた。


 戸口のほうへ。台所のほうへ。


 それから、瞼が閉じられた。


 開いたとき、目はイルゼに戻っていた。


「……見せないで、おくれ」


 はっきりした声だった。


「あの子に、自分の母親の、死に支度を見せたくない」


 トビアスは、思わず口を開いた。


「でも、それじゃ——」


 イルゼの手が、静かに上がった。


 止められた。


 黒い手袋の手が、それ以上言うなと、はっきり示していた。


「承知しました」


 イルゼはマレーネに向き直って、深く頷いた。


「お見せしません」


 マレーネの目が、ほんの少しだけ和らいだ。


 それから、唇がまた動いた。


「……仕上げたかった」


  *


 イルゼが立ち上がって、裁ち台から白い衣を運んできた。


 寝台の上に広げる。裾が、マレーネの右手のそばに来るように置いた。


 そして、右手の手袋を外した。


 トビアスは、その手を見た。


 白い手。血の色がない。爪の先まで、どこにも赤みがない。


 イルゼは寝台に腰掛けて、マレーネの背中をそっと起こし、自分の胸にもたせかけた。


 後ろから両腕を回す。


 左手で布を張り、右手でマレーネの右手を包んだ。


 包んだまま、針を持たせる。


 マレーネの肩が、ほんの少しだけ動いた。冷たかったのかもしれない。


「マレーネさん」


 耳元で言った。


「最後の一針だけ、ご自分でどうぞ」


 マレーネの指が、動いた。


 眠ったまま縫っていた、あの動きだった。


 針が布に入る。イルゼの手が、その分だけ一緒に動く。支えているのか、導かれているのか、どちらなのか分からなかった。


 針が出る。


 糸が引かれる。


 一目。


 それだけだった。


 それだけで、裾は縫い上がった。


 マレーネの手から力が抜けた。


 イルゼが針を受け取って、糸を切り、玉留めをする。指先の動きだけは、やはり迷いがなかった。


「仕上がりました」


 マレーネの唇が、ほどけるように緩んだ。


 それが、最後だった。


  *


 息が止まったのは、それから半刻ほどあとだった。


 トビアスが呼びに行って、ヨーゼフが飛び込んできた。


 間に合った。


 ヨーゼフは母の手を握って、声を上げて泣いた。何か言おうとして、言葉にならないまま、ただ手を握っている。

 荷役で鍛えた太い肩が、子どもみたいに震えていた。


 トビアスも泣いた。自分でも意外なほど、止まらなかった。


 イルゼだけが、泣かなかった。


 彼女は白い衣を持って、静かに寝台のそばへ来た。


 ヨーゼフが顔を上げる。


「……それは」

「お仕立てになった品です」


 イルゼは、それしか言わなかった。


「お母様が、ご自分で仕上げられました」


 ヨーゼフは、それ以上聞かなかった。聞ける状態ではなかった。


 イルゼは、マレーネに死装束を着せた。


 腕を通し、襟を整え、裾を伸ばす。


 顔色ひとつ変えずに、手だけが動く。泣いている二人のそばで、水が流れるように淡々と。


 トビアスは、涙でぼやけた目でそれを見ていた。


 冷たい人だと思った。昨日までなら、たしかにそう思った。


 でも今は、違うことを考えていた。


 この人は、いったい何度、これをしてきたのだろう。


  *


 日が高くなってから、家の前に人が来た。


 鞄を提げた男だった。三十かそこらだろう。


 背が高くて、肩幅がある。癖のある濃い茶色の髪が、汗で額に貼りついていた。

 ずいぶん急いで歩いてきたのだと分かった。


 日に焼けた顔立ちは、笑えば人好きのする類のものだと思う。


 けれど今は、笑っていなかった。


「巡回医のカイです。こちらにマレーネさんという方が」


 言いかけて、開いた戸の奥に見えたものを、彼は見た。


 言葉が止まる。


「……いつです」

「今朝です」


 イルゼが答えた。


 カイは鞄を下ろして、しばらく何も言わなかった。


 それから、寝台のほうへ二、三歩近づいて、マレーネの顔を見た。医者の目だった。


「……胸の水だ」


 小さく言った。


「抜けば、楽になった。あと十日は保った。手紙をもらったのが遅すぎた」


 顔を上げて、イルゼを見る。


「あんた、看取り屋だな」

「はい」

「呼ばれたのは、いつだ」

「三日前です」

「三日」


 カイの声に、はっきり棘が混じった。


「三日あって、医者を呼ばなかったのか」

「ご家族の依頼は、看取りでした」

「頼まれたことしかしないのか、あんたは」


 トビアスの喉が鳴った。


 何か言わなければと思った。この人は三日間、寝もせずに探していた。誰も気づかなかったものを見つけた。マレーネさんは最後に、笑ったのだ。


 でも、口が動かなかった。


 カイの言っていることも、間違ってはいなかったからだ。


 イルゼは何も言い返さなかった。


 カイは鞄を持ち上げて、戸口で一度振り返った。


「まだ手はあった」


 そして、言った。


「それは諦めだ」


  *


 医者が去って、ヨーゼフが村の者を呼びに行って、家には誰もいなくなった。


 トビアスは、作業場の入口に立っていた。


 イルゼは裁ち台の前にいる。糸巻きを棚に戻し、注文帳を閉じ、動かした物を一つずつ元の場所へ返していく。


 その手が、一度だけ止まった。


 襟元に留めた小さなブローチに、指先が触れた。


 触れただけで、すぐに離れた。


「……昔は、私も同じことを言っていた」


 イルゼが、誰にともなく呟いた。

 入口にトビアスが立っていることに、気づいていないらしかった。


 何のことなのか、トビアスには分からなかった。


 トビアスは口を開いた。


「あの」


 イルゼが振り返る。


 紫の目が、こちらを見ている。


 言いたいことはあった。あなたは何もしなかったわけじゃない、と言いたかった。さっきの医者は間違っている、と言いたかった。


 なのに、出てこなかった。


「……いえ」


 トビアスは、うつむいた。


「なんでもないです」


 黒衣の女は、少しだけそこに立っていた。


 それから、また片付けの続きを始めた。


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