第2話 縫う指
翌朝、イルゼは夜明け前から起きていた。
トビアスが台所に降りたときには、もう作業場の灯りがついていた。
仕立ての作業場は、家のいちばん日当たりのいい部屋だ。南向きの窓の下に長い裁ち台があって、壁際に布の巻きが立てかけてある。
三十年ぶんの糸くずが床板の隙間に入り込んで、もう取れない。
イルゼは裁ち台の前に立って、注文帳をめくっていた。
「……何か、見つかりましたか」
「いいえ」
顔も上げずに答えが返ってきた。
「この三か月ぶんの注文は、すべて納めてあります。帳面の日付と、納品の覚え書きが合っています」
「じゃあ、途中の仕事はないってことですか」
「帳面の上では」
イルゼは注文帳を閉じて、次の帳面を取った。
「ただ、帳面に書かない仕事もあります」
*
その日は、ずっとそれの繰り返しだった。
布の巻きを一本ずつ倒して、裁ち落とした形跡を確かめる。残り布の袋をひっくり返して、同じ布で作りかけの物がないか見る。
糸巻きの減り具合を見る。チェストの引き出しを上から順に開けて、中の物を出しては、元通りに戻していく。
トビアスも手伝った。というより、勝手に手伝った。
半分は、このままでは気が済まなかったからだ。もう半分は——こんな探し方で何が出てくるのか、見てやろうという気持ちだった。
布の巻きは見た目より重い。抱えて運ぶと、あかぎれだらけの指に麻の繊維が食い込んだ。
この三年で、手だけはすっかり使用人のものになった。水仕事と薪割りで、指の付け根が固い。
結局、何も出てこなかった。
途中で一度、イルゼが床にしゃがみ込んだ。
手袋をしたままの指先で、床板の隙間から糸くずをつまみ出す。窓の光にかざして、しばらくそうしていた。
朝から一日そばにいて、この人が手袋を外すところを、トビアスは一度も見ていない。
「……何してるんですか」
「糸の色を見ています」
「糸くずの色、ですか」
「使った糸の色が分かれば、作りかけの物の色が分かります」
イルゼは糸くずを指先で転がした。
「紺、生成り、薄茶。ここ一年で使った色です。どれも注文の品と合っています」
そう言って、糸くずを紙にのせて、元の場所へ戻した。
昨日までは、ただ怖い人だった。
今日は、それより先に、変な人だと思った。
*
昼前に、村の寄り合い所へ行った。マレーネに仕立てを頼んだままになっている者はいないかと聞いて回るためだ。
イルゼが戸口に立つと、話し声がやんだ。
昨日と同じだった。
それでも彼女は、同じ調子で同じことを聞いた。返事が短くても、目を合わせてもらえなくても、礼を言って次の家へ行く。
六軒目で、ようやく一人だけ、椅子を勧めてくれた者がいた。桶屋の女房だ。四十くらいの、腕の太い人だった。
「頼んだきりの物はないねえ。……あの人はね、そういうのを溜めない人だから」
女房は湯を出しながら言った。
「うちの娘の産着も、頼んだ次の日には持ってきてくれたよ。早すぎて、こっちが驚いたくらいさ。
『あとに回すと、あとがなくなるからね』ってさ」
トビアスの手の中で、カップが少し揺れた。
あとがなくなるから。
マレーネが、いつも言っていた言葉だった。
帰り道、イルゼは何も言わなかった。
トビアスのほうが、黙っていられなかった。
「……なんで、そんなに平気なんですか」
「何がでしょう」
「みんな、あなたのこと怖がってます。避けてます。なのに、普通に喋ってる」
「怖がられても、仕事は進みますから」
イルゼは足を止めない。
「嫌われて困るのは、話を聞けなくなるときだけです。まだ聞けています」
トビアスは返す言葉がなかった。
この人は、傷ついていないのではない。傷つくかどうかを、はじめから計算に入れていないのだ。
そう思ったとき、怖さとは別の何かが、胸の奥で小さく動いた。
*
夕方になって、マレーネの容態が落ちた。
朝は返事ができていたのに、今は名前を呼んでも瞼が動くだけだ。
唇が乾いて、白く粉を吹いている。頬の色が、朝とは違っていた。
ヨーゼフが医者を呼びに走ろうとして、戸口で立ち止まった。
呼んでどうなるのかを、自分で先に思い出してしまったという顔だった。
そのまま、寝台の脇にしゃがみ込む。
「……何も、聞けてない」
誰に言うでもなくヨーゼフが言った。
「まだ、何も聞けてないんだ」
イルゼは椅子に戻って、また座った。
水を含ませた布で、マレーネの唇を湿らせる。上掛けの位置を直す。手首に軽く指をあてて、しばらくそのままでいる。
それだけを、何度も繰り返す。
「……あの」
トビアスは戸口から声をかけた。
「もう、探すのはやめるんですか」
「いいえ」
「でも、もう喋れません。聞けないじゃないですか」
イルゼはマレーネの顔を見たまま答えた。
「喋れなくなってからのほうが、よく出ます」
「何が」
「その人が、ほんとうに気にしていたことが」
*
その夜、トビアスは部屋の隅で膝を抱えて座っていた。
眠るつもりはなかった。ヨーゼフは台所の椅子で、腕を組んだまま寝落ちしている。
三日まともに寝ていないのだから、仕方がなかった。
燭台の灯りが小さく揺れている。
イルゼは、椅子に座って動かない。
夜通し起きているのに、背筋がまっすぐだ。姿勢が一度も崩れない。
あくびもしない。瞬きの回数まで、昼間と変わらない気がした。
真夜中を過ぎた頃だったと思う。
イルゼが、ふいに顔を上げた。
トビアスも釣られて、寝台を見た。
マレーネの右手が、上掛けの上に出ている。
その指が、動いていた。
親指と人差し指が、何かをつまんでいる。つまんだまま、ゆっくり持ち上げて、下ろす。また持ち上げて、下ろす。
一定の間隔だった。
最初は、苦しがっているのだと思った。
けれど違った。もっと静かで、もっと正確な動きだ。
トビアスは、その動きを知っていた。三年、毎日この家で見てきた動きだ。
「……縫って、ます」
声が震えた。
「針を、持ってます。マレーネさん、眠ったまま縫ってる」
イルゼは答えなかった。
立ち上がりもしなかった。
ただ、身を乗り出して、その手を見ていた。
食い入るように。
燭台の灯りが、彼女の横顔を照らしている。銀の髪が、その光を拾って揺れた。
そのとき初めて、トビアスはこの人の表情らしいものを見た気がした。
何と呼べばいいのか分からない顔だった。喜んでいるでも、悲しんでいるでもない。ただ、見逃すまいとしている。
やがてイルゼは、自分の右手の人差し指と親指を、目の前にそっと掲げた。
マレーネの指の幅と、見比べるように。
そのまま、指の間隔を保って、腕をゆっくり横へ動かす。
縫い目の幅から、布の大きさを測っている。
トビアスにはそう見えた。
「……トビアスさん」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「はい」
「この家に、まだ開けていないチェストはありますか」




