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第1話 看取りの魔女イルゼ

その朝、村の通りから音が消えた。


 トビアスは井戸端で、たらいに水を張っていた手を止めた。荷車の軋む音も、鶏の声も、女たちの立ち話も、一度に止んだわけではない。

 一つずつ、順番に静かになっていく。街道の向こうから何かが近づいてきているのだと、それで分かった。


 桶を置いて、通りに出る。


 黒い服の女が歩いてくる。


 喪服のようなワンピース。腰まである銀色の髪。黒い手袋に、黒いブーツ。荷物は肩から下げた古い鞄が一つきりだ。


 髪の色から、はじめは年寄りだと思った。

 近づいてくると、違った。二十代の半ばくらいにしか見えない。目尻にも、首筋にも、歳を思わせるものが何ひとつない。


 村の者たちが、通りの両側に寄っていく。追い払うでも、迎えるでもなかった。立っていてはいけない場所から退くように、みんなが一歩ずつ下がっていく。


 粉屋のばあさんが、胸の前で小さく印を切った。「看取り屋の魔女だよ」と、口の中で言うのが聞こえた。

 向かいの家では、母親が子どもの肩をつかんで家の中へ引き戻した。戸が閉まる音だけがやけに響く。


 誰も、挨拶をしなかった。


 誰も、目を合わせようとしなかった。


 畏れているのに、追い出さない。そういう半端な静かさだった。


 女はまっすぐ歩いてきて、トビアスの立っている家の前で足を止めた。


 仕立て屋マレーネの家だった。トビアスが三年、住み込みで働いている家だ。


 女がこちらを見た。


 薄い紫の目。透き通っていて、色は明るいのに、なぜか光っていない。


「マレーネさんのお宅は、こちらで」


 声にも温度がなかった。


 答える前に、戸が内側から開いた。


「来てくださったか」


 ヨーゼフだった。マレーネの息子で、隣町で荷馬車を引いている。四十に手が届くかどうかという年で、荷役で肩も腕も太い。

 三日前から泊まり込んでいる。無精髭が伸びて、目の下が黒く落ちくぼんでいた。


「息子のヨーゼフです。……その、噂は聞いています。あなたは」

「イルゼと申します」


 女はそれだけ言った。


 ヨーゼフは一度口を開いて、閉じた。それから、言いにくいことをまとめて吐き出すように言った。


「治してくれとは言わない」


 トビアスは自分の耳を疑った。


「最期まで、そばにいてやってほしい。……それだけ頼みたくて、呼んだ」

「承知しました」


 イルゼは頷いた。ほんの少しも表情が動かなかった。


「では、お邪魔します」


 そうして黒衣の女は、トビアスの働く家に入っていった。


  *


 村に看取り屋という商売があることは、トビアスも知っていた。


 医者の手が届かない土地はいくらでもある。そういう場所で、もう助からないと分かった人の枕元に座り、最期まで付き添う仕事をする者がいる。金を取る。ちゃんとした商売として成り立っている。


 けれど、頼むところを見たのは初めてだった。


 医者を呼ぶ金がなくて、代わりに呼ぶのだと思っていた。ヨーゼフは荷馬車で稼ぎがある。医者を呼べないわけがない。


 なのに「治してくれとは言わない」と、先に言った。


 それが、トビアスにはどうしても呑み込めなかった。


 台所に戻ると、ヨーゼフが銭函を開けて、硬貨を数えていた。


「ヨーゼフさん」

「……なんだ」

「町のお医者を、呼んだらどうですか」


 ヨーゼフの手が止まった。


 それから、数え終えた硬貨を布に包んで、ゆっくり結んだ。


「呼んださ。先月な」


 布の結び目を、必要以上に固く締めながら言った。


「もう手はないと言われた。楽にしてやることしかできんと」


 トビアスは黙った。


「うちの母さんはな、痛がりもしないし、弱音も吐かん。だから余計に、俺には分からんのだ。あの人が今、何を思ってるのか」


 布包みを棚に置いて、ヨーゼフは顔を上げた。


「……分からんまま、見送りたくない」


  *


 マレーネの寝ている部屋は、家の奥にある。


 三十年、仕立て屋としてこの村で針を持ってきた人だ。婚礼の晴れ着も、子どもの産着も、この村のものはたいていマレーネの手で作られている。

 トビアスが今着ている上着も、去年の冬にこの人が丈を直してくれたものだった。十六になって背が伸びて、袖が足りなくなったときだ。元は誰のものだったかも分からない、継ぎの当たった古着だった。


 その人が、ふた月ほど前から起き上がれなくなった。


 マレーネは今年で六十五になる。

 白いものの多くなった髪を、後ろで一つに束ねている。頬がこけて、寝間着の襟から覗く首が細い。


 上掛けの上に出た手だけが、記憶のままだった。指の節が太くて、右手の中指の腹に、長年の針だこが固く残っている。


 イルゼは部屋に入ると、まず窓を見た。


 それから、寝台の位置と戸口の位置を見比べて、枕元の椅子をほんの少しだけ動かした。ヨーゼフが夜通し座っていた椅子だ。座ったときに、マレーネが首を回さずに顔を見られる角度になった。


 窓を指二本ぶんだけ開けて、空気の通り道を作る。


 枕元の燭台を、光が直接目に入らない位置へずらす。


 寝台の足元に畳んであった膝掛けを広げて、足だけを覆う。


 どれも、ほんの数秒ずつの手つきだった。迷いがなかった。何百回も同じことをしてきた人の手だ、とトビアスは思った。


「失礼します」


 そう言って、マレーネの顔のそばに腰を下ろす。


 手袋をしたままの手で、薄い上掛けの端を直した。


「マレーネさん。イルゼと申します。最期までご一緒するように、息子さんから頼まれてまいりました」


 トビアスは戸口で息を呑んだ。


 最期まで。そう言ったのだ。本人に。目の前で。


 マレーネの瞼が、ゆっくり持ち上がった。


 それから、かすれた声が出た。


「……そう。もう、そんな頃合いかい」

「はい」


 イルゼは否定しなかった。


 嘘をつかない人だ、とトビアスは思った。そう思ってから、ぞっとした。


  *


 その日、イルゼは何もしなかった。


 薬も煎じない。呪文も唱えない。マレーネの手を握って励ますこともしない。


 ただ、椅子に座っていた。


 マレーネが眠れば、黙って座っている。目を覚ませば、水を飲ませる。それだけだ。


 昼を過ぎて、トビアスはとうとう堪えきれなくなった。


 水差しを取りに来たイルゼを、台所で捕まえた。


「あの、」

「はい」

「何もしないんですか」


 声が思ったより大きく出た。


 イルゼのほうが、頭半分ぶん背が高い。見上げる形になった。


「マレーネさんは、まだ話せます。まだ食べられます。それなのに、あなたはただ座ってるだけじゃないですか」


 イルゼは水差しを置いて、トビアスを見た。


 怒りもしないし、言い訳もしない。まっすぐ見ているだけだった。それが、かえってこたえた。


「私の仕事は、命を延ばすことではありません」


 落ち着いた声だった。


「あの方が言えずにいることを探して、まだ間に合ううちに、届けることです」

「言えずにいること」

「はい」

「そんなの、聞けばいいじゃないですか。心残りはありますかって」

「聞いて答えが返るなら、それでいいのです」


 イルゼは水差しを手に取った。


「返らないから、探します」


 そうして部屋へ戻っていった。


 トビアスは台所に突っ立ったまま、何も言い返せなかった。


 言い返せなかったのが、悔しかった。


 母が死んだとき、自分は何を聞けただろうと、少しだけ考えた。考えて、すぐにやめた。


  *


 日が傾いてから、ヨーゼフが村の寄り合いに呼ばれて出ていった。


 部屋には、マレーネとイルゼと、戸口のトビアスだけが残った。


 イルゼは、その日初めて、自分から口を開いた。


「マレーネさん」

「……なんだい」

「気がかりなことは、ありますか」


 マレーネの目が、天井をさまよった。


 長い間があった。トビアスは息を止めていた。


 それから、乾いた唇が動いた。


「……まだ、仕上がっていないんだよ」


 イルゼの顔が、わずかに動いた。


「何が、でしょう」

「……仕上がっていない」


 マレーネはもう一度、同じことを言った。


 それきり、目を閉じた。


 寝息が戻ってくるまで、誰も動かなかった。


 やがてイルゼが立ち上がり、静かに戸口へ来た。


 トビアスは道を空けながら、思わず聞いていた。


「注文の品のことでしょうか。誰かに頼まれてた仕立てが、まだ途中だとか」

「かもしれません」

「だったら、注文帳を見れば」

「見ます。明日から、この家のものを全部」


 黒衣の女は、廊下の暗がりへ歩いていく。


「それでも見つからないときのほうが、多いのですが」


 足音は、やはり聞こえなかった。


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