二三.訪ね人
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません※※
珂糸が紅緒に出会ったのは、今から5年ほど前であった。
人事異動で新しい部署に配属されたばかりの珂糸は、上司に連れられ銀座の「クラブ セイリーン」を訪れた。
若い社員には若いホステスが良いだろうといって花のように美しい紅緒が自分の隣に座ったその瞬間、珂糸は体中に電気が走ったような衝撃を覚えた。人生において最初で最後であろうと思ったほどの一目惚れだった。
さらに紅緒の魅力はそれだけではなかった。上司に話を合わせ、酒を飲むふりをしていた珂糸のグラスに紅緒はそっとウーロン茶を注いでいた。珂糸が下戸であることを見抜き、人知れずさりげない気遣いを見せる紅緒に珂糸は心をわし掴みにされた。それ以来、珂糸の目には紅緒しか入らなくなった。
店に通いつめ、3度目のプロポーズをしたところで紅緒はようやく指輪を受け取ってくれた。ところが、施設育ちの紅緒は恩を返さねばならないからと言い、もう少し待って欲しいと指輪を返してきた。そしてそのまま、珂糸の前から姿を消した。
薩摩キリコとして二周目の人生を送っている紅緒を見つけ出せたことは、珂糸にとって偶然であり、必然でもあったと確信していた。
珂糸はケースの中で眩い光を放つダイヤモンドの指輪をしばらく眺めた後、蓋を閉じデスクの引き出しにしまった。
コンコン、と役員室のドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」というと「失礼します」と言ってクロエが入ってきた。
クロエは黒レースのフリルが付いたタンクトップに赤のレザーパンツ、黒のハイヒールを履いていた。
「それで、…」
クロエは勝手に部屋の奥へ進むとソファーへ座り、足を組んた。珂糸は黙ったままクロエを目で追った。
「いったい何の目的でここへいらしたの?”紅緒”を追っかけて、なんてつまらないこと言わないでね。」
「南武 珂糸さん、あなた公安警察の人よね。国家公務員が一般企業の取締役なんて、よっぽど権限がある人からの許可がないと、なれないはずなんだけど。」
「…昨日私を探していたのだって、単なる挨拶のためではなかったんでしょ?」
クロエがそう言うと、珂糸は上目遣いでクロエを見つめ「さすが、お察しが良いですね。」とやんわり答えた。
「人を、探しています。諸事情によりその人の個人情報を明かすことはできませんが、少し力をお貸しいただけないでしょうか。」
クロエは片眉をくいっと上げた。「情報もないのにどうやって探すのよ。」
「その人は2週間ほど前に知人と会うためとある場所まで行き、足取りが途絶えました。携帯もその場で廃棄したようで、そこから先のGPSの位置情報は残っていません。また、周辺のセキュリティカメラにも彼の姿は一切映っていませんでした。」
「…プロに誘拐されたってこと?」クロエは無表情で尋ねた。
「誘拐されたのか、あるいは自分から姿を消したのかは、はっきり分かっていません。」
「その知人とやらはどこの誰だか分かってるの?」クロエが訊ねると、珂糸が頷いた。
「その人物から当たってみようかと思っています。」
「私、尋問するのは得意じゃないんだけどぉ…」
クロエは塗りたての黒いマニキュアについたホコリを取り除きながらつぶやくように言った。
「質問は私が行います。天城CTOは、情報を整理するのにお力添えをいただけましたら助かります。」
「クロエでいいわ。…このこと、海豚は知ってるの?」
「はい、昨日そのように話を通しました。」
クロエはあっそう、とつぶやくと「車手配してくるわ」と言い立ち上がった。そして「あ、それから」といってドアの手前で立ち止まった。
「あなたの知ってる彼女は、もうここにはいないわよ。」
クロエはすこし頭を振り向かせながら、棚に飾られてあった紅緒と珂糸のツーショット写真を指さした。
「はい、分かっています。」
珂糸は笑顔で答えた。
―
珂糸とクロエは羽田空港にほど近い、古い町工場と新築戸建て住宅が混在するエリアまでやってきた。
車を降りて少し歩くと、トタンで覆われた2階建ての古い建物に到着した。
1階はもともと店舗だったのか、錆びれて茶色く変色したシャッターが下りていた。脇に2階へ上がる鉄骨の外階段がついており、階段を上がったところにスチール製の玄関ドアが見えた。
「ここの2階が、知人の住宅兼仕事場です。出かけることは稀で、ほぼ一日中家にこもっているタイプの人間のようです。」珂糸が指をさして言った。
「クロエさんは、警察を装って玄関から呼び鈴を押していただけますか。警察が来たと言うと、いかがわしい者は決まって裏口から逃げようとします。私は裏口で、待ち伏せしますので。」
建物の裏側には平屋の一軒家が隣接しており、2階の窓から一軒家の屋根をつたって下へ降りられそうな構造をしていた。
「ふーん、分かったわ。呼び鈴を押すだけでいいのね。」
「はい。警察だ、ドアを開けろ、と言っていただければ結構です」珂糸は頷いた。
クロエは極力ヒールの靴音がしないよう、つま先で階段を上った。
部屋の玄関ドアには、ブザータイプの呼び鈴が付いていた。クロエは呼び鈴を鳴らした。
「こんにちはー。警察ですー。」
ドアの内側からは、何も反応がなかった。続いてドアをノックした。
「警察でーす。開けてくださーい。」
すると、チェーンをかけた状態でドアが僅かに開き、薄暗い隙間から男が顔を出した。色白で目の下に深いクマがあり、脂ぎった髪に無精ひげを生やした、若い男だった。
(あら、出て来たわ。)とクロエは思った。
男はクロエを上から下まで舐め回すように見たあと、「何買いに来たの?」とぶっきらぼうに言った。
「何が、買えるの?」
クロエが聞き返すと、男は振り返って部屋を確認しながら「今作ってんのは…アッパー系。」と答えた。
男の肩越しに見えたリビングのテーブルの上には、三角フラスコやビーカー、ガスバーナーなどの実験用品が乗っていた。薬物の密造風景かと思われた。
「ああー、そう。」
とクロエは言うと、「モノを確認してから、買ってもいいかしら?」と続けた。男はいいよ、と言っていったんドアを閉めた。
チェーンを外す音がしている間、クロエは自分が履いているヒールのかかと部分を180度ねじり、ヒールごと引き抜いた。そして男が再びドアを開けると、すかさず「あなた、Tシャツ汚れてるわよ」と男に言った。
男が下を向いた瞬間、クロエは上からヒールの付け根部分を振り下ろし、男の首筋にぷすりと刺した。
そこには小さな麻酔針が付いていた。男は「うゎっ!」と叫んで身体をびくっと動かし、首に手を当て驚いた顔でクロエを見上げながら、その場に崩れ落ちた。針が首に刺さってから2秒ほどの出来事だった。
クロエは丁寧にヒールをかかとに戻し、「よいしょ」と言って気絶している男を跨ぐと靴を履いたまま部屋の奥まで歩いて行き、裏口の窓を開けた。
そして「入っていいわよー」と珂糸を呼んだ。
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