第一章 神宮侑希 4
マンションを飛び出した裕貴は考えを纏められないまま家から離れていく。足は自然と駅に向かっていた。
時間は十一時を回っていて、裕貴は肌寒さに襲われる。しかし、頬はまだ熱を持っていて、冷やすために歩調を緩めることはしない。見かける人々は裕貴とは反対に住宅街の方向へと歩いている。すれ違う度に裕貴の足は重くなった。
駅に到着するなりICカードを使って改札を通過する。適当なプラットホームへ上がるとそのまま止まっていた電車に乗り込んだ。
車内には複数人の乗客がいるものの、それぞれが一人の時間を過ごしている。裕貴も溶け込むように座席に腰をかけた。その瞬間、電車は扉を閉めて動き始める。街明かりで輝く窓の外を眺めながら、裕貴はこれからのことを考えた。
母親の行動は理解しがたいものだった。もともと二人の関係に干渉するつもりはなかった。それでも男の行為は看過できるものではない。常識さえあれば簡単に共有できる一般的な認識のはずだった。
裕貴は一人で自分を育ててくれた母親に感謝している。その結果、これまで母親の意向に背くことはしないようにしていた。だからこそ裕貴は困り、言葉にできない気持ちを必死に伝えようとした。
しかし、酔った母親にどれだけ伝わったかは未知数である。もう元に戻れないかもしれない。裕貴は唇を強く噛んだ。
電車に乗って十数分、景色が変わったことを確認した裕貴は座席から立ち上がった。次の停車駅は新宿だった。
東京に引っ越して以来、裕貴は新宿に来たことがなかった。東京という大都市も、今まで住んできた土地の一つという感覚でしかないのだ。
ただ、感じたことのない雰囲気に裕貴は緊張した。周囲をひっきりなしに見渡して自分の位置を常に確認し続ける。様々な方向に人の流れがあり、いずれも裕貴を引きずり込もうとしていた。
駅構内から飛び出したのはそれから数分が経った後だった。外は想像以上に喧噪な空間が広がっている。裕貴は流れに沿ってゆっくりと歩き始めた。
向かったのは歌舞伎町の方向だった。周囲の人がどんな目的を持って歩いているのかは分からない。しかし、周囲も裕貴の目的を理解できていないに違いない。そう考えると心地良いもののように錯覚する。
ただ、心が軽くなっても次第に足が疲弊を訴える。街灯の少ない路地裏に入った裕貴は自動販売機を見つけてミネラルウォーターを購入し、近くの縁石に腰を下ろした。
道を外れたといっても人が全くいないわけではない。多種多様な人間が目の前を通り過ぎていて、裕貴はそれを観察して時間を潰す。もうすぐ日付が変わる。かなり心は落ち着いてきている。終電までに最寄り駅に戻ることを予定しながら、冷たい水を口の中で転がした。
普段は見かけない強面の男集団でさえ興味深いもののように感じる。裕貴とは関係のない世界が広がっている。裕貴の知的好奇心はくすぐられた。
時間の猶予がなくなると、ほとんど空のペットボトルをゴミ箱に捨てて体を大きく伸ばす。裕貴の意識は駅に向かっている。母親への意思表示もこれまでだった。
しかしそんなとき、裕貴の耳に女性の小さな声が届いた。
「離してください!」
さらに小道に入った三階建てのビルの入り口から聞こえてくる。そこには人影がいくつか見えた。
「そんなこと言わないで遊びに行こうよ」
一人の男が優しい口調で話しかけている。ホストのような格好をしており、髪はまるで栗のようにとげとげとしている。対する女性は壁を背中に囲まれている。いわゆるナンパの現場だった。
裕貴はそんな光景にほんの少し感動した。初めてその現場を見て実在することを知ったからである。裕貴以外にも目撃者はいる。しかし、女性を助けようとする人は誰もおらず、裕貴のように興味を示す人間さえいない。
裕貴も女性を助けるつもりは全くなかった。面倒事を率先して行う人間はいない。裕貴にとって目の前の光景は見世物でしかなかった。
「いいから来てよ」
別の男が女性の腕を引っ張っている。女性は必死に抵抗しているものの敵いそうにはない。結局、女性は壁から引きはがされて完全に囲まれてしまった。
その様子を見た裕貴はさすがに不安を感じた。これ以上は何かしらの事件に発展する恐れがある。そうなった場合、自分の立場が怪しくなると思ったのだ。
しかし、周囲はまるで見えていないかのように振る舞っている。終電を考えると裕貴にもできることは何もない。見ず知らずの人を助ける代わりに数時間かけて徒歩で家に帰るほどお人好しではない。踏ん切りがついたのはそのすぐ後のことで、裕貴はその場を立ち去ることにした。
ただその矢先、裕貴は女性と目を合わせてしまった。女性は裕貴を視界に捉えた瞬間、懇願するような表情で助けを求めてくる。裕貴は慌てて視線をそらす。
見なかったことにして一度は遠ざかろうとする。しかし、傍観者でなくなった以上、裕貴に無視はできなかった。
「あの……」
裕貴は集団に近づいて声を出す。それは弱々しく擦れた音だった。
「何か用?」
一人の男がフラフラと寄ってくる。その威圧感に冷や汗が吹き出た裕貴は何とかして頭の中で言葉を紡いだ。
「揉めていたようだったので警察に連絡しておきました。乱暴はやめて警察の到着を待ちませんか?」
裕貴は敵意を見せないように語り掛ける。男らは警察という言葉に敏感に反応した。
「勝手に何してくれてんの?」
男は怒った様子でさらに裕貴に詰め寄る。一方で、裕貴は計画が上手くいったことを喜んだ。しかし、そんな安堵も束の間、突然腹部に強い衝撃を受けて膝をついた。
「しらけた。行こうぜ」
裕貴を殴って折り合いがついたのか、男たちは悪態をつきながら去っていく。裕貴は足音が聞こえなくなるまでうずくまって時間を過ごした。
「大丈夫ですか?」
男が立ち去ると女性が駆け寄ってくる。無用な心配をさせないため、裕貴は痛みを我慢して立ち上がった。
「ダメですよ。警察が来るまで待っていましょう?」
女性がその場に座るよう促す。しかし、助けが来ないことを知っている裕貴はゆっくりと歩き始めた。
「もうなんともないです。それに、警察に連絡したと言ったのは嘘です」
裕貴が事実を打ち明けると女性は首を傾げて固まる。警察を呼ばなかったのは面倒を避けるためである。事情を説明していれば終電を逃してしまうだけでなく、夜間徘徊の説明を求められると分かっていたのだ。
しかし、その役割は女性が担うことになった。
「待ってください。お礼もなしに帰らせてしまうわけには」
「気にしないでください。あなたも早く帰らないとまた絡まれてしまいますよ」
裕貴は諭すように女性に伝える。女性の綺麗な顔立ちを確認してナンパの理由が分かった。
「私はまだ家に戻れないんです。……もしよければ私のお礼に付き合ってもらえませんか?」
裕貴が女性の外見に感嘆していた最中、唐突にそんな提案がなされる。女性は綺麗であるが、裕貴にとっては迷惑極まりない話である。携帯電話で時間を確認した後、気付かれないように小さくため息をついた。
「……早く済むのであれば」
決して女性の容姿で判断したわけではないと自分に言い聞かせる。結局、終電に間に合いそうになく、女性の厚意に甘えることにしたのである。
「ありがとうございます」
女性が笑顔で礼を述べる。母親からは何一つ連絡がない。今日くらいは問題ないと考えることにした。




