第一章 神宮侑希 3
授業が全て終わると、学生はそれぞれ活動を始める。これから部活動という学生が最も多い。この学校はスポーツ強豪校として知られている。
また、少数ながら委員に携わる学生もいる。生徒会を筆頭に近々行われる催しの準備が行われているのだ。その他にも図書委員や美化委員が放課後の学校で活動していた。
バスケットボール部に所属する小森は、裕貴に一言声をかけて部室へ走っていく。試合が迫っているようで、レギュラーの小森にとって重要な時期のようだった。
対する裕貴はいかなる活動にも関与していない珍しい人間である。小森が去ってしまえば親しい学生はいなくなる。裕貴は誰とも話をせずに淡々と帰り支度を済ませた。
この日はバイトも入っていない。掃除をする数人の女子生徒を横目に裕貴はクラスを後にした。
駅までの帰り道に人はほとんどいない。学生のほとんどが学校に残っていて、裕貴と同じ人間は数人しかいなかった。
裕貴がどこか寄り道をすることはほとんどない。自宅を好んでいない裕貴であるが、意味なく街中を歩く方がよっぽど面倒くさいのだ。そのため、引っ越してきてからも東京の有名な観光地に足を向けたことは一度もなかった。
自宅の最寄駅は朝よりも閑散としている。裕貴はそんな静かな構内のコンビニに入店し、軽快な音楽を聞く。目的は今日の食事を用意することである。
昨日は惣菜だけの食事だったことを思い出しながら、今日はおにぎりと緑茶を手に取る。レジには見慣れた店員が立っていた。
買い物を済ませて帰路につくと、小雨が降り始めていた。折り畳み傘を出すことを面倒に思った裕貴は走って逃げる。エントランスに到着した頃には雨脚は強くなっていた。
蒸し暑いエレベーターから飛び出して玄関の前までくると、裕貴は家の鍵を取り出す。母親は今日も遅いはずである。暇な時間は部屋の掃除に費やすことを考えながら鍵を差し込もうとした。
そうしていつもと異なる状況に気が付いた。
鍵穴の向きがいつもと違っている。つまり玄関が施錠されていなかったのである。しかし、裕貴には登校時に施錠した記憶が残っている。
その場で立ち尽くしている訳にもいかない。扉をゆっくりと引っ張ると、玄関は小さく音を立てて開いた。
裕貴は人が通れる隙間を作ってその隙間から恐る恐る中を覗く。玄関には二足の靴が脱ぎ捨てられていた。
一足は母親のハイヒールだった。ただ、この時間にそれがあることは珍しい。もう一足は男物のスニーカーだった。新品同然のハイヒールとは違い、ところどころが破れかけている。
意を決して玄関に入ると、リビングから話し声が聞こえてきた。ただ、話の内容を把握することはできない。玄関でわざと音を立ててみても、話し声が止まる様子はない。大きく深呼吸した裕貴はリビングに進んだ。
リビングでは母親と知らない男が缶ビールを傾けていた。親密な関係なのか、男は母親のすぐ隣に座り込んでいる。母親はスーツ姿であるが、男は黒のシャツにジーパン姿で無精髭を生やしている。職場関係の人間ではなさそうだった。
「……あれは?」
男の視線が裕貴に向けられる。あれ呼ばわりされたことに気分を害したが無視して自室に向かう。
「息子よ」
母親が簡単に裕貴の紹介する。裕貴はそれを横目に自室に入り、後ろ手で扉をしっかりと閉めた。荷物を置くなりベッドに横になる。
リビングからは途切れることなく会話が聞こえてくるが、裕貴は聞かないように意識する。お互いが生活に干渉しないことで家庭はどうにか成立している。裕貴は計画を白紙に戻して睡魔に身を任せた。
次に気付いた時、周囲は真っ暗になっていた。リビングに繋がる扉の隙間からは明かりが漏れているが、会話は聞こえてこない。これ以上家に居たくない。そう思った裕貴は今更になって外食を決めて静かに適当な服に着替え始める。男がまだいるのかは分からない。
時間はすでに十時を回っている。必要最低限の準備を終えると裕貴はリビングに繋がる扉を開ける。全く音が聞こえてこなかったため、二人ともどこかに行ったのかもしれないと考えていた。
しかし、扉の先の光景を目の当たりにして裕貴は絶句した。
母親は部屋の隅で仰向けになっている。寝ているのかどうかは分からない。ただ、裕貴を驚かせたのは来客の男だった。
男は裸の紙幣を握りながらテレビ台の収納棚を物色している。異質な状況に裕貴がその場で立ち尽くしていると、男も裕貴に気が付く。
二人は互いに目を合わせて固まったが、最初に動き出したのは男だった。裕貴を意識しながら玄関へ走り出したのである。
「待て!」
裕貴はとっさにその男を追おうとする。しかし、母親の心配をして立ち止まった。疎遠であるとはいえ唯一の家族なのだ。ただ、母親は寝ていただけのようで裕貴の声に反応して寝返りを打った。裕貴はそれを見て再び男を追い始めた。
裕貴がやや遅れて玄関を出ると、男はすでにエレベーターホールに走り込んでいた。このマンションには一基しかエレベーターがない。裕貴は自分の力を全て出し切って足を動かした。
しかし、そんな努力も虚しく、男はエレベーターに乗り込んで逃走を成功させた。裕貴は降りていくエレベーターに悪態をつく。
自宅に戻った裕貴は携帯を手に母親のそばに向かった。男の行為は犯罪であり、警察に連絡しなければならない。まずは母親に状況を説明することにした。
「起きろ!」
裕貴は興奮気味に大声を出す。すると、母親は怪訝そうな表情で目を覚ました。
裕貴は目撃したことをそのまま報告する。男の正体は分からないが、母親がそれを容認するとは思えなかったのだ。
しかし、話を聞いた母親は全く反応を示さなかった。仕方なく、裕貴は一人で対処することにした。
「とにかく警察に通報するから」
裕貴はそう一言かけて電話をかけようとする。ただその瞬間、母親は裕貴の携帯電話に掴みかかった。そんな行動を予期していなかった裕貴は簡単に携帯を取られてしまう。その後、乾いた音が部屋に鳴り響いた。
「勝手に私の生活に入ってこないで!」
裕貴の頬を平手打ちした母親が怒鳴り声を上げる。鬼の形相とはこのことで、裕貴は何かが壊れる音を聞いた。
裕貴が呆然としていると、母親が再び手を振り上げる。今度は母親の腕を掴んで阻止した裕貴は、ゆっくりと立ち上がってその腕を投げ捨てた。
「……もういい。勝手にしろよ」
裕貴は必死に頭を動かしたが、最終的に解決を放棄する。母親は家族である裕貴よりもあの男を優先した。もはやかける言葉は見当たらない。
母親から携帯電話をひったくるなり足音を踏みならして玄関へ向かう。そうして裕貴は何も考えることなく家から飛び出した。




