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第一章 神宮侑希 2

 裕貴が住むマンションは最寄り駅から徒歩十分の距離にある。裕貴の視線が慣れた風景に向けられることはない。


 この辺りは住宅街であり、七時前は静かな雰囲気に支配されている。ただ、幹線道路まで歩けばそこは都心に様変わりし、駅の周辺は人で溢れ返る。


 電車の本数は多いが、車両はいつものように満員となる。毎日そこへ潜り込んでいる裕貴であったが、これだけはいつになっても慣れることができない苦行だった。


 電車内は大量の人間が発する熱によって五月とは思えない熱気を帯びている。電車の環境は乗る度に異なり、裕貴が満員電車に適応できない理由となっていた。


 学校の最寄り駅は利用客が比較的少ない。電車を降りた瞬間に裕貴は広い空間に放り出された。


 時間が早いこともあって、学校までの道のりも人は多くない。その道のりは五分程度で踏破される。


 朝練に励む学生を横目に、裕貴は自分が在籍するクラスへと向かう。案の定、クラスにはまだ誰もいなかった。


 裕貴が登校時間を遅らせる理由はさらに酷い通勤通学ラッシュを避けるためである。ただでさえ人の多い環境が苦手な裕貴が耐えられるわけがないのだ。


 それに、裕貴は自宅を好んでいない。家族関係はとうの昔に形骸化しており、そんな空間は家とは呼べないのだ。


 裕貴はたった一人でクラスを占領し、暇な時間は読書で費す。その日も先日に図書館から借りてきた谷崎潤一郎の『細雪』を読んでいた。


 しばらくして学生が徐々に集まり始める。ただ、裕貴に声をかける人はいない。友達が極めて少ないため、当たり前のことである。


 しかし、そんな裕貴に挨拶をする者が一人だけいた。クラスで唯一の友人と呼べる小森だった。


 小森は高身長でバスケットボール部に所属している。黒の短髪が爽やかさを引き立たせていて、外見も裕貴よりはるかに優れている。学力差こそほとんどないが、人間として全く敵う相手ではなかった。


 「おはよう。今日も本を読んでいるのか」


 小森が気さくに話しかけてくる。裕貴はその声を待っていただけにやや力強く頷いた。


 「毎日の習慣は変えられそうにないから。……小森も読んでみれば?」


 裕貴は小森の返答を分かっていながらそんなことを言ってみる。案の定、小森はそれに対して首を横に振った。


 「本なんて俺とは一生無縁の存在だよ。それに、今は朝練の後で疲れてる」


 小森はそう笑って自分の手で肩をもみ始める。裕貴がその様子をただ見つめていると、唐突に小森が裕貴に質問した。


 「そういえば、今日提出の課題って何かあったか?」


 小森のこの質問は毎度のことである。裕貴はそれを聞いて即座に返答した。


 「今日はない。……それに今聞いたって間に合わないだろ?」


 裕貴は正論を小森に伝える。数分で終わるような課題などないのだ。しかし、小森はそれに対して首を横に振った。


 「そうとも限らない。一時間目の宿題ならもうどうしようもないけど、それ以降の宿題なら全然間に合う」


 「それは人の力を借りる前提の話だろ?」


 「今日はないんだから良いだろ?……もっと女子と仲が良ければ、こんなことで苦しんだりしないんだけどな」


 教室の片隅に視線を向けた小森がクラスの状況を悲観する。そこでは女子だけが集まって何か話をしている。裕貴は苦笑いとともにそうだねと頷いた。


 このクラスの女子は男子より賢い。男子は出来ない人間が集まってしまっていて、裕貴が男子の中では上位に入るほどである。しかしクラス全体では半分より下である。


 もし女子と簡単に会話ができれば、分からない者同士で考える必要がなくなる。その方が男子にとって効率的で多くのメリットがあるはずだった。しかし、実際はそう上手くいっていない。


 「……このクラスは良くない。この一年は長くなりそうだ」


 小森は最後にそう言い捨てて自分の座席に向かっていく。裕貴はそれに同意した。


 裕貴が一員となったこのクラスは、始まってまだ間もないにもかかわらず多くの問題を抱えている。高校生が多感な時期であることを考慮しても、このクラスの状況は異常だった。


 男女の関係も些細ながらその一つに加えられる。しかし、もっと大きな事案がその後ろに控えている。


 このクラスでは一人の学生が爪弾きに遭っていた。


 始まりは新年度すぐだったらしいが、気がついたときには始まっていた。裕貴の感覚としてはこれが最も近い。


 暴力行為や誹謗中傷があるわけではない。ただ、一人の学生がまるで存在していないかのように扱われる。単純に見えて非常に悪質な攻撃だった。


 裕貴の日常もそれに近い点がある。友人が極度に少なければクラス内での存在感は必然的に薄まっていくからだ。しかし、二人が置かれている状況はまるで違う。だからこそ、裕貴は問題だと認識していた。


 爪弾きでは事務的な会話も全てなくなる。委員関係で話が必要なときも会話がまるで発生しない。発生させてはいけない空気がクラスを包むのである。


 これは目に見える形で問題が露呈してこない。異常な環境がクラスの学生だけで共有される仕組みだった。


 首謀者は数人の男子生徒である。彼らは一年の頃から有名で、その頃は暴力行為をしばしば起こしていた。


 しかし、学年が上がったことで彼らは違う形の攻撃方法を考えついた。それが爪弾きだった。彼らはクラスの空気を握り締めている。裕貴が在籍するクラスはその上で成立しているのだ。


 裕貴以外にもこの状況の異常さを認識している者は多い。しかし、多数がそう考えていたところで環境はそう簡単に変わらない。メリットなしに人が重たい腰を上げることはない。リスクを負ってまで他人のために行動しようとする者はいなかったのである。


 それは裕貴も同じだった。友人が少なく失う物もない裕貴だが、傍観し続ければ今の立場を破壊されないで済むのだ。


 傍観は加害者に荷担していることと同義である。そんなことを何度聞かされたところで心を動かされる人間は少ない。自分が多数に含まれている限り、罪悪感が芽生えることはないのだ。


 爪弾きに遭っている学生は今日も変わらず登校している。裕貴はその姿を確認してから授業の準備を始めた。数分後、クラスは静かな雰囲気の中で授業が始まった。

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