第五章 交錯 4
長いです。
八月の半ば、日が落ちても気温が下がらない街の中を裕貴は自転車で走っていた。バイト先ではさらなる地獄が待っている。店の裏側に到着すると、裕貴は最後に外の空気を堪能してから店の中に入った。
裕貴は調理を担当しているわけではない。それでも、その熱気に触れることはよくある。侑希との時間がなくなってバイト時間を元に戻していたため、裕貴はそんな店内で缶詰となる必要があった。
裕貴は、一時に比べて冷静な感覚を取り戻している。侑希のことで焦って行動する時期は通り過ぎていたのである。とはいえ、考えることをやめたわけではない。何度も同じことを考えた末に、侑希が求めていた何かを考慮する方向に軌道修正したのだ。
新宿に行っても、桐生に行っても、侑希の望みを叶えることはできない。裕貴がするべきことは侑希と会うことではなかった。そのことに気付いたのである。
侑希と会わないようになって時間がかなり経っている。顔を忘れることはないが、侑希と会っていたときに当たり前だと思っていたことが、今ではそうではなくなった。そのことが裕貴に認識の変化をもたらしていた。
仕事の内容が変わることはない。しかし、その日の裕貴の仕事は激務以上と評価して良いはずだった。それほど、物理的な環境の変化が裕貴を痛めつける。気温と湿度は、全従業員の敵だった。
しかし、裕貴にはもう一つの懸念事項があった。それは、裕貴のことを常に意識している沙織の存在である。
裕貴は仕事をしている間、沙織の意味深な視線に晒され続けた。それ自体が何か悪いことを引き起こすわけではない。それでも、裕貴は言葉にできない不思議な気持ちになっていた。
それは他の授業員も気付いており、上山もその例外ではなかった。
「……何かあったのか?」
「分からない」
上山は裕貴のことを笑いに来た。しかし、裕貴は沙織のことで本当に困っていたため、上山にも何が原因なのか考察することを求める。上山はそんな裕貴の考えを汲み取った。
「そうだよな、最近話しているところも見なかったし」
上山は裕貴と同じように不思議な顔をする。そんな間にも、裕貴は何度か沙織と視線を合わせる。
「話してみれば良い。なんなら俺が話を付けてきてやろうか?」
「よせ。変なことになるだけだ」
裕貴は沙織との関係が進展することを望んでいない。上山の提案はありがた迷惑にもならなかった。
「そうは言っても、あの調子だと向こうから仕掛けてきそうだ」
上山は面白そうに予想する。裕貴は上山の話に同意することはなかったが、心の中ではそれもあり得ると考えた。何でもないときでも沙織は接触してきている。このような特異なときに話してこないわけがなかったのだ。
「まあ、俺は端で眺めとくから」
上山は最終的に、裕貴が求める役割を果たす素振りも見せないで去っていく。上山のそんな態度は特に不思議なことではなかったが、裕貴は自分の置かれた状況を考えてため息をつくしかなかった。
それから数時間が経った後、予想していた通り沙織はバイト終わりの裕貴に話しかけてきた。
「あの……」
声をかけてきた沙織は裕貴の行動をしっかりと把握していたようで、こっそりと帰宅しようとしていた裕貴の背中に声をかけた。裕貴はそれを無視するわけにもいかず、沙織に対してぎこちない笑みを浮かべる。
「どうしたの?」
裕貴は沙織の奇行に気付いていないふりをする。沙織は裕貴の真正面に立つと笑顔を返した。
「最近は遅い時間までいるんですね。……この前まではすぐに帰ってたときもあったのに」
「まあ、夏休みに入りましたから」
裕貴は、沙織がどんなことを念頭に話しかけてきているのかを察知する。そのため、とっさに考えたこじつけの理由で、そんな沙織の目論見を阻害しようとした。しかし、沙織はそんな裕貴の小さな抵抗を簡単に押し破った。
「前に言ってた女の子と、最近会っていないんですか?」
沙織は侑希のことを話題として取り上げてくる。沙織は、裕貴が深夜に女性と会っていたことを知っているのだ。そのことを尋ねてきていた。
「……なんのことですか?そんなことよりも、沙織さんは何か話すことがあって俺に声をかけたんですよね?」
裕貴は侑希の話に入らせないように釘を打つ。ほとんど沙織に対して警告しているに等しい行為である。それでも、沙織はそんな警告を無視した。
「気になっていたんです。最近の大村君のシフト、ほとんど深夜まで入るようになっていたから。……もしかしたら会わなくなったんじゃないかなって」
沙織は考えていることをはっきりと裕貴に告げてくる。裕貴は、そんな沙織に強い言葉を返すことができなかった。
「そうだとすると、沙織さんに何か関係があるんですか?」
沙織が引き際を弁えていないと判断すると、裕貴も少し踏み込んだ回答をする。その口調は無意識に冷たくなっていた。ただ、沙織はそんな生半可な考えで対応した裕貴よりもよく考えて発言していた。
「関係ないことはないです。約束しました。デートしてくれるって」
沙織は躊躇うことなく裕貴に指摘する。それを聞いた裕貴は、予想通りの展開に笑ってしまいそうになった。裕貴はこのことを警戒していたが、それを避けることができなかった。同時に、沙織のその場の判断に脱帽する。
「そのことですか……」
裕貴は仕方なく考え込むふりをする。しかし、この件について裕貴は了承してしまっている。後になってそれを覆すことはフェアではないため、裕貴はほとんど決まった未来に向かって進むしかなかった。
「もし大村君と会ってる人が迷惑するのなら、この話はなしにしてもいいです。ですけど、私はただ少しの間一緒に過ごしたいだけなんです。……ダメですか?」
こんなときになって、沙織は心配そうな表情を見せる。裕貴はそんな沙織をあざといと感じながらも、どのように返答するかはすでに決めていた。
「大丈夫です。約束したことですし」
裕貴はほとんど即答に近い形で回答する。沙織はそんな裕貴の言葉に頬を緩ませて喜んだ。
「ありがとう!詳しいことはまたすぐに連絡するから!」
沙織はそう言い残すと、足早に裕貴から離れていく。沙織はこのことだけを話すためだけに、裕貴に声をかけたようである。沙織の後ろ姿を見ながら、裕貴はこの後のことをゆっくりと考えた。
「なんだ、結局そうなるのか」
裕貴が次に沙織が行いそうなことを想像していると、上山が陰から顔を出す。裕貴は上山が近くにいることに気付いていたため、面倒臭いと感じていることを悟られないように簡単に返事した。
「約束していたものは仕方ない」
上山はその経緯を知らないはずである。裕貴はそれをいいことに、上山の分かっていない中で話が進んだことにした。そうしなければ、裕貴が沙織との交渉で敗北したことを知られてしまうのだ。
ただ、上山は違うことについて裕貴に質問した。
「それで?俺も気になっていたんだけど、例の女とは別れたのか?」
沙織だけでなく、上山も侑希のことを尋ねてくる。裕貴の安易なシフト変更がそんな結果を生み出していた。
「さあ、どうだか」
裕貴が本当のことを上山に教える必要はない。裕貴は上山を適当にあしらうと、そのまま店の裏口に向かった。上山はそんな裕貴の後ろで笑っていた。
沙織から連絡があったのは、それから数日が経った後だった。二人の都合がつくときを話し合って、八月下旬の日曜日が選ばれる。
裕貴はこの機会について、侑希との約束を守るためだという感覚しか持っていない。しかし、裕貴の前に現れた沙織は、全くといって良いほど違う想いを抱えてきているようだった。
「おまたせ。ごめんね、待ったかな?」
集合場所は、奇遇にも新宿だった。沙織が場所を決めて、裕貴はそれに関与していない。沙織が侑希のことを知っているのではないかと裕貴は気になったが、最後は普通に考えてあり得ないと結論づけた。
「時間前です」
裕貴は沙織のことを観察しながら、謝る必要がないことを告げる。集合時間は昼の一時で、いまはその五分前なのだ。沙織は裕貴の言葉に小さく頷く。そして、少しの沈黙が訪れた。
裕貴はたいして何かを考えることなく、いつも通りの服装で来ている。しかし、沙織の服装はバイト先でいつも見ているものとは少し違っていた。雑誌に載っていそうな、裕貴でも違いが分かる格好をしていたのである。
「……何かな?」
裕貴が沙織のことを見つめて何も話さなかったからか、沙織は恥ずかしそうにする。裕貴はそれを見て、何でもないことをジェスチャーで示した。しかし、沙織は満足しない。
「何か言いたいことがあったら言って。私も色々考えてきたんだから」
「いや、いつもの雰囲気とは違うと思って」
裕貴は率直な感想を述べる。特に何が変化しているのかは説明できないが、それでも漠然とした違和感があったのである。
「当たり前だよ。今日のためにこれ買ったんだから」
沙織はそう言って着ている薄手で袖のない服を示す。裕貴は少し驚きながら何度か頷いて理解したことを伝える。沙織はそんな裕貴の態度を見て不満そうな表情を見せた。しかし、それは一瞬だった。
「それじゃ行こっか」
沙織は話を切り替えて裕貴の手首を掴む。裕貴は、自分がどこに連れて行かれるのかまだ分かっていない。沙織はそんな裕貴に簡単な説明をした。
「今日は私のお願いで来てもらったから、私に任せて」
沙織はそうとだけ言って、裕貴の腕を引っ張って歩き出す。裕貴は沙織の行動を制止させることもできないで、そのまま連れて行かれる方向に従って歩いた。
裕貴は沙織の横顔を見ながら、自分がそんなに頼りなく見えるのかと感じた。侑希のときも、裕貴はほとんど侑希の提案を受け入れる形で過ごしてきていた。裕貴がそれをどうにかしようとしないことが悪かったのは間違いない。しかし、裕貴がそれを望んでいるわけでもない。
昼の新宿は、裕貴がいつも見ていた雰囲気と全く違っていた。夜と昼では歩いている人の種類が違う。沙織はそんな環境に慣れているのかもしれなかったが、裕貴は新しい感覚に少し戸惑う。ただそれは、裕貴が初めて夜の新宿に来たときもそうだった。
裕貴は周囲の様子を見渡して、通り過ぎる人の顔にまで視線を向ける。知った顔に出会ってしまうかもしれないということを危惧していたのだ。しかし、人が多すぎる中で裕貴が全ての顔を認識することは不可能だった。
そんなことをしている内に、裕貴は一つの大きな建物の中に連れていかれた。そこはショッピングを楽しむ裕貴とは全く縁のない場所だった。
「まず最初に……えーっと、何か思い出に残ることがしたい」
「思い出、ですか?」
「そう、思い出。もしかしたら大村君とこんなことができるのはこれで最後かもしれないし」
沙織は人の流れに逆らうことなく歩きながら、まっすぐ前を見ながらそんなことを口にする。裕貴は沙織が何を考えているのか、ある程度想像できた。
「それで俺は何をするんですか?」
裕貴は、自分が沙織の考えのために何かをしなければならないものだと考えて、沙織にそれがどんなことなのかを質問する。沙織は少し戸惑った後、裕貴に教えた。
「何か思い出になるものを買おっかなって。それで、それを大村君に決めてもらおうと思って」
「……なるほど。物々交換ですね?」
「まあ、そう考えてくれているならそれでもいいよ。私も大村君に似合いそうなもの、考えてきてるの」
裕貴が納得すると、沙織はたたみかけるように追加で説明をする。裕貴は広義でのプレゼント交換だと認識した。
「それで、何か欲しいものがあったりするんですか?」
裕貴は自分の役割をしっかりと理解した上で、沙織がどんなものを必要としているのかを尋ねる。しかし、そんな対応をとった裕貴に沙織は抗議の視線を向けた。
「それを想像して考えて欲しいんだけど」
「でも、必要のないものを貰っても意味ないんじゃ?」
「違うよ、貰ったものが必要なものになるの」
沙織は裕貴の意見に反対して、主張を退けようとしない。裕貴は沙織が言っていることが理解できず、そのためにどういった方向性で考えていけば良いのかが分からなくなった。
「……とにかく回ってみますか?」
沙織との考えの違いが露呈したところで、裕貴はとにかく沙織が了承してくれそうなことを提案する。すると、沙織は頷いてそれを受け入れた。
裕貴らがやって来たこの場所は、多くの店舗が入っているショッピングセンターのようなところである。各フロアで多種多様なものを取り扱っているため、二人はその全てに足を運んで時間を潰していった。沙織は行く場所で毎回足を止めて、裕貴に楽しそうに意見を求めてくる。裕貴はそんな沙織の細かな表情などを観察して、どのようなものが良いのかを考えていった。
しかし、裕貴が感じ取れたことは、沙織が何を欲しているのかということではなく、バイト先で見る沙織が普段の沙織ではないということだった。時間が経つに連れて、裕貴の沙織に対する評価は変わっていった。
二時間ほどをかけて、二人は主要な場所を回り終えた。まだ二人とも見ることを楽しんでいるだけである。しかし、裕貴は即断即決を心がけて、沙織に何をプレゼントしようか決めていた。
「……決まった?」
ベンチに座って休憩しているとき、沙織の方から質問してくる。裕貴は隠すことなく頷いて肯定した。
「本当?楽しみ」
「……どうします?その店まで一緒に行きますか?」
裕貴はどのようにしてその結果を発表するつもりなのかを尋ねる。沙織は少し考えた後に、何かを思いついて嬉しそうに話し始めた。
「じゃあ、二人でそれぞれ買いに行って、それでまたここに戻ってくるのはどうかな?」
「分かりました。それじゃそうしましょう」
裕貴はすぐに了承する。裕貴もその方法を考えていたのである。
「それじゃ、早速ね」
沙織は立ち上がって、裕貴に小さく手を振る。裕貴はそんな沙織が離れていってから動き始めた。
裕貴が考えていたのは、回っている途中で見つけた機能性の高いハンドタオルだった。吸水性が良く、色々な模様のものがあった。何か凝ったものを渡すことにはリスクがあると考えた裕貴は、結局そのような実用性のあるものを渡すことにしたのだ。
裕貴は、少し迷いながら目を付けていた店舗を見つける。背の高い商品棚に色々なハンドタオルが飾られている。しかし、裕貴は簡単に目を通してすぐに決めた。悩んだところでプレゼントできるのは一つだけなのだ。
裕貴が選んだのは、洗濯してもあまり色が出てこなそうな薄い水色の模様が入ったものだった。売れているのか、周囲の種類に比べて数が減っている。
値段もそこまで高いわけではなかったため、お互いに困るようなことにはならないはずである。裕貴はそんなことを考えながら、レジに向かった。少し迷ったことで沙織のことを待たせている可能性があったのだ。
しかし、そんな心配はなかった。
裕貴が見通しの悪い場所に設置されていたレジを見つけたとき、同時に見覚えのある顔を見つけてしまった。なぜか、沙織がそのレジに並んでいたのである。
「あっ……」
沙織も裕貴のことに気がついて小さく声を出す。裕貴は仕方がないと思って、そのまま沙織の後ろに並んだ。ちょうど、沙織の商品がプレゼント用に包装されているところだった。
二人はどんなことを話せば良いのか分からなくなって、黙ったまま店員の作業を見つめる。沙織が会計を済ませると、今度は同じようにして裕貴が店員に商品を包装するようにお願いをする。沙織はその間、店から少し離れた場所で待っていた。
「……おまたせ」
裕貴が沙織のもとに行くと、沙織は言葉では言い表せそうにない表情をしていた。裕貴はかける言葉に困った後、自分の持っているものを沙織に渡した。
「奇遇ですね」
なんとかして会話をしようとした裕貴の口から出てきたのは、そんなぎこちない言葉だった。沙織も複雑な表情のまま、裕貴に持っていたものを渡す。
「……追ってきたりした?」
沙織は疑っているのか、そんなことを裕貴に質問する。裕貴はそんな疑いを否定した。
「まさか。色々考えてこれにしたんです」
裕貴は嘘をつくことなく説明する。しかし、沙織はまだ疑っているようだった。少し鋭くなった視線が裕貴を貫く。
「……開けても良いですか?」
裕貴は恐る恐る尋ねる。沙織は言葉にすることなく頷いて認める。裕貴が綺麗に包装を開けていくと、裕貴が選んだものと全く同じ模様のハンドタオルが出てきた。裕貴は驚いて声が出ない。
「……感想が欲しい」
沙織は短く感想を求めてくる。裕貴はこれがプレゼント交換だったことを思い出して、急いで感想を述べた。
「嬉しいです。良い模様ですね。……それで、どうしてこれを選んだんですか」
裕貴は感想を口にした後、気になっていたことを質問してみることにした。沙織はプレゼントを何にするか考えてきたと言っていた。そのため裕貴は、沙織が自分では想像もできないものを選択していると考えていたのである。
しかし、沙織の質問に対する説明は、さらに裕貴のことを驚かせることになった。
「……最初はアクセサリーとか小物とかを考えていたんだけど、大村君はそんなの興味ないかもしれないと思って。大村君優しいから、貰ったときは嬉しそうにしてくれるかもしれないけど、その後困られたら私も嫌だから。だから、結局使って貰えそうなこれにしようと思って」
沙織は淡々と説明していく。しかし、裕貴には沙織の悩んでる様子が手に取るように分かった。また、自分と同じようなことを考えて決めていた沙織を興味深く感じた。
「確かに、今だから言えることですけど、アクセサリーとかを貰っても困るかもしれません。……それなら、どうしてこの模様にしようと思ったんですか?」
沙織は裕貴からのものを開けていないため、模様まで同じだということを知らない。そのことを伝えてしまう前に、裕貴はどうしてその模様を選んだのかを聞いておくことにした。
「これはまあ、派手なものは大村君気に入ってくれそうになかったから。後は、洗濯のときに色が他のものに移ったりしないようにとか」
「……そうなんですね。まあ、俺のものも開けてみてください」
裕貴は不思議な感覚に戸惑いながらも、沙織に包装を開けるように求める。裕貴に言われて、沙織はゆっくりと開けた。そして、驚いた様子で裕貴の顔を見つめた。
「わざとそうしたわけじゃないですよ。あくまでも偶然です。……でも、俺がそれを選んだ理由は、沙織さんと同じです」
「……どういうこと?」
沙織はまだ理解できていない様子で、裕貴に詳しい説明を求めてくる。裕貴は今更になって恥ずかしさを感じつつ、話を続けた。
「俺もいきなりこんなことになってたくさん考えたんです。沙織さんがどんなものを気に入るのか、俺には全く分かりませんでしたから。……で、結局実用性のありそうなものを」
裕貴は全くといって良いほど沙織と同じことを説明する。そんな言葉を聞いても、沙織は納得していない雰囲気を見せる。裕貴はどうすれば自分の疑惑が晴れるのかを考えて、とりあえず沙織に視線を送る。沙織は、そんな裕貴と目を合わせた瞬間に吹き出した。
「そういうことにしてあげる」
「ありがとうございます」
裕貴は純粋に感謝する。沙織に嫌われることは痛みを感じることではない。それでも、人の感情を損なわせたまま放っておくことは裕貴にとって良くないことだった。裕貴はそういうことを気にする人間である。
「案外、私たちって考えることが一緒なのかも」
沙織は少し嬉しそうにそんなことを言う。裕貴はそうかもしれないと考えると、なんとも言えない気持ちになった。少なくとも、裕貴は侑希とそんなことになったことはなかった。沙織とは、単純にバイト先で顔を合わせるだけの関係である。そんな希薄であるはずの関係に侑希との関係が負けたことは、裕貴にとって良い気分になれるものではなかった。
しかし、沙織の言うとおりこれが結果であって、同じ考え方をしていると認めなければならないのかもしれない。そのことは、裕貴の失敗の理由を語っているようだった。
「これ大切にするね。……それでこれからどうする?」
「あれ、何か考えていたんじゃないんですか?」
沙織が唐突にこれからの行動について意見を求めてきたため、裕貴は最初に聞いたことを思い出して質問した。沙織はそんな裕貴の指摘を聞いて苦笑いをする。
「本当はさっきの時間で色々考える予定だったんだけど、思ったより楽しくて考えるの忘れてたの」
「そんなに楽しかったですか?」
裕貴は二人で過ごした時間を思い返してみる。しかし、何かを忘れてしまうほど楽しいと思うことはなかった。それでも、沙織はそのように感じたのだという。
「だって、大村君がいつもとは違ったから。きっと大村君、今日も嫌々私のお願いを聞いてくれているんだと思ってた。もしかしたら本当に思ってるのかもしれないけど、それでも私は想像していたよりもずっと楽しかったよ。大村君、私に冷たくしないで気を遣ってくれていたみたいで」
沙織はにっこりと笑って裕貴に感謝する。裕貴は嫌々沙織のお願いを聞いていたわけではない。それでも、乗り気でこの時間を過ごしていたわけでもない。そのため、そんな評価をしている沙織に申し訳なくなった。
裕貴は、自分が沙織について全く理解できていなかったことをよく理解した。日頃から沙織のことを面倒だと思って無下にしていた。そのことを今更になって思い返すと、裕貴は悪いことをしてしまっていたと感じた。
「……じゃあどうしましょうか」
「それなら、どこかお店に入る?ずっと歩いていて少し疲れて」
「いいですね。……でも俺からは良い場所を提案できません。あんまりこういう所に来たことがないので」
裕貴は沙織と会うにあたって何かを調べたりすることをしていなかった。裕貴は今更になってそんなことを後悔した。
「心配しないで。それなら色々お店知ってるから」
沙織は胸を張ると、近くのエレベーターに向かって歩いていく。裕貴はそんな沙織の横に遅れないようについていった。
沙織が裕貴を連れてきたのは、同じ建物の中に入っている一つの店舗だった。裕貴は店の中が男女連れだらけな様子を見て、入店を無意識のうちに拒んでしまう。しかし、沙織はそんな裕貴に何か言葉をかけることなく、やや強引に店内へ連れ込んでいった。
「ここ、結構評判良いんだけど、お店の名前聞いたことない?ネットで少し有名なんだけど」
「すみません、俺そういうの全く知らなくて分からないです」
裕貴は自分が世間に取り残されていることを再確認する。しかし、沙織はそれを笑ったりはしなかった。
「……大村君って不思議な感じがする。自分でもそんなこと考えたことない?」
店員に注文を終えた後、唐突に沙織がそんなことを口にする。裕貴はその意味が分からなかったため、少し首を傾げて考えた。その間に、沙織は追加で説明する。
「バイトのとき、全然何かを考えたりしてる様子じゃないから、最初は天然なのかなって思った。だけど、そういうわけじゃないって思って」
「そうですか?案外、無心でいること多いですよ」
裕貴は自分の勤務態度を自己分析する。最近は侑希のことで考えることが多かったが、それでも単純作業をしているときに意識がどこかに行ってしまうことは良くあることだった。
「そうなんだ。……なんか今日はすごい嬉しいな」
「どうしてですか?」
裕貴は質問する。すると、沙織は笑みを見せて答えた。
「好きな人のことを知れるのは嬉しい。大村君も言ってた女の子のことを色々知ったとき、嬉しくなかった?」
沙織は突然侑希のことを話題に出す。唐突な話題変換を受けて、裕貴は沙織がどうしてこのような時間を設けたのかを理解した。しかし、その時にはすでに手遅れである。
「いきなり何の話ですか?」
「照れなくて良いよ。私だってこんなこと言ってるんだから」
沙織は裕貴に堂々とすることを指示する。しかし、そんな沙織の顔は赤くなっていた。
「……まあ、分からないとは言いません」
「そうだよね。きっとそうだと思った。嬉しくないはずないもん」
沙織は、裕貴が肯定したことで少し声を大きくする。それが沙織の照れ隠しであることを裕貴は瞬時に理解した。ただ、裕貴はそんな沙織の新しい一面を見つけても、もはやそれを楽しむことはできそうになかった。この話題になったことを考えれば、その後にどのような会話をしなければならないのか考えるまでもなかったのだ。
「……沙織さん、話したいことがあるんだったら言ってください」
沙織の調子に飲まれたままだと、いつ本題に入ることができるか分からない。そのため、裕貴は自分の方から本題に突き進んでいくことを覚悟した。
「気付いてた?……そりゃ気がつくよね。大村君の思っている通り、話したいことがあるの。いいかな?」
沙織の少し真剣な表情に裕貴は頷く。
「大村君、会ってたっていう女の子と最近会ってないよね?」
「……話さないとダメですか?」
「別に良いよ。私はそうだと思ってるから」
裕貴が答えることを渋っても、沙織は自分の考えを信じて話を進める。裕貴にそんな沙織を止めることはできない。
「大村君にとって気分が悪くなるようなことを言っちゃうかもしれない。それでも私、そのことに気がついたとき嬉しかった。……どうしてか分かるよね?」
沙織の問いかけに裕貴は小さく頷く。沙織の裕貴に対する好意を考えれば、誰でも分かることである。
「だから、今日一緒に過ごしてみることを考えたの。……もしかすると大村君の考えてることが分かるかもしれないと思ったから」
「それで、分かりましたか?」
裕貴は聞いてはいけないと考えつつも、好奇心に負けて尋ねてしまう。沙織はそれに対して首を横に振った。
「大村君がやっぱり優しいことはよく分かった。私の気持ちが強くなったことも感じた。……だけどね、大村君が今どんなことを考えてるのかだけは何も分からなかった。大村君が私のことをどういう風に見ているのかも、全くね」
沙織は小さく溜め息をつく。周囲の雑音でかき消されてしまいそうな声だったが、裕貴はなんとか聞き取る。そして沙織の気持ちを良く理解した。
「沙織さんは俺のことをよく分かってると思いました。……今日俺が一番思ったことは、自分のことを良く理解してくれる人は、自分では選べないってことです」
裕貴の視線は沙織に向けられている。沙織はどうしてかそんな裕貴の視線から逃げるように顔を逸らした。裕貴が沙織の次の言葉を待っていると、ようやく注文したものが運ばれてくる。お互いは緊張した空気の中で喉を潤した。
「……それって、私が大村君のことを分かろうとしても意味がないってこと?」
「そんなことは言っていないつもりです。でも、そう思われても仕方がないとも思います」
裕貴が自分のことを良く理解して欲しかった相手は侑希である。そして、裕貴が知りたいと常に思っていたのは侑希のことである。それが上手くいかないで、今では侑希のことよりも沙織のことの方を良く理解してしまっているかもしれない。そんな言葉にできない裕貴の思いが、沙織に答えた一言に入っていた。
「……私が大村君のことを好きでいることは、大村君にとって迷惑なこと?」
「いえ、人にそんなことを思って貰うことは光栄なことだと思います。この言葉に嘘はないです」
沙織がどんな過程を経て裕貴のことを好きになったのか、それは裕貴の知るところではない。しかし、そんなことを考慮しても、裕貴が沙織の気持ちを粗末に扱えるわけがなかった。
「じゃあ、私が付き合って欲しいって言ったら、大村君は困りますか?」
ついに、沙織は口走って裕貴のことを求める。裕貴はそんな可能性を考えていないわけではなかったが、いざ面と向かって言われると心臓が高鳴った。沙織の不安そうな表情が裕貴のことを攻め立てる。
しかし、裕貴の答えるべき言葉は一つだけだった。
「それは困ります。……言っているように、俺には好きな人がいますから」
裕貴ははっきりと沙織にそう告げる。沙織は裕貴の言葉を聞いて、最初は辛そうな顔をする。しかし、すぐにいつもの表情に戻った。
「やっぱりそうだよね。ごめんね、変なこと言って」
沙織に強引な雰囲気は見られない。すぐに引き下がった沙織にかける言葉はなかった。
それからの時間は、先程までとは正反対に沈黙が続いた。注文したものを飲み干した裕貴は、ぼんやりと沙織のことを眺めるしかない。周囲は裕貴らの空気の変化に気付くことなく、和気藹々と会話をしている。
その後、先に口を開いたのは沙織の方だった。
「出よっか」
沙織の表情や声はすでにいつも通りになっている。裕貴も立ち上がると、注文票を手にした。沙織がそんな裕貴に視線をよこしてきたが、裕貴がそのまま離さないでいると何かを言うことを諦めたようだった。
精算を済ませて外に出ると、うだるような暑さが襲ってきた。室内に居続けていたため、裕貴は快適な温度に慣れてしまっていたのだ。
沙織は裕貴と言葉を交わすことなく、ふらふらと歩いていこうとする。裕貴はこの後どうするのか分からなかったが、一応沙織の後についていく。沙織が言葉をかけたのは、信号で立ち止まったときだった。
「今日はありがとう、すごく楽しかったよ」
「そう思ってもらえると嬉しいです」
裕貴は注意深く沙織のことを観察する。しかし、沙織がどんなことを考えているのかは想像さえできない。
「あのタオル大切に使うね。……もしよければ大村君も使って」
「勿論です。大切に使います」
裕貴は即答する。すると、沙織は嬉しそうな顔を見せる。しかし、その後に沙織は俯いてしまって、会話は途切れた。
信号が青になると、裕貴らの周りで待っていた人が一斉に歩き始める。ただ、沙織は全くその場から動こうとしない。裕貴はそれを不思議に思って、同時に心配した。
裕貴は心配になって声をかけようとする。その瞬間、沙織は急に裕貴の方に顔を向けた。大量の涙が沙織の頬を伝っている。裕貴はそれを見てもどうすることもできない。
「泣くの我慢するって難しいね」
笑顔でそう言った沙織は、唐突に裕貴に背を向けて走り出す。裕貴はそんな沙織の表情に動揺してしまい、沙織の後を追うことが遅れた。それによって、都合悪く信号は再び赤になってしまった。沙織の姿は、あっという間に見えなくなってしまった。




