第五章 交錯 3
本格的な夏を迎えた中、裕貴は日中に暇な時間を持てあましていた。学校は夏期休業の期間に入った。学校という一つの時間を潰すための場所がなくなったいま、裕貴はバイトまでの時間を苦痛に感じていた。
すでに八月に入っていて、学校で出された課題は全て終わらせてしまっている。また、侑希のことを考えようとしても、その試みはすぐに途切れてしまう。母親は案の定家にいないため、面白くないテレビを見て時間を潰すことが多くなっていた。
侑希と会わないようになってから一ヶ月ほどが経った。しかし、裕貴は和紙以上の進展を得られていなかった。
どんなことを考えても、裕貴は侑希が抱えていた問題の真相にたどり着くことができない。最終的に、侑希のことを考えて堂々巡りになるのではなく、侑希が裕貴に無理難題を突きつけていることを信じるようになっていた。
侑希のことを信頼している。それでも、そんなことを考えなければ思考は続きそうになかったのである。
裕貴はまだ、和紙のことが分かってから桐生には行っていない。それは、桐生で本当に侑希が待っていた場合、侑希にかける言葉がなかったからである。
裕貴はまだ、侑希に言われたことを成し遂げていない。そんな中で侑希と会ってしまうことは、決して良いことではないと考えたのである。しかし、そんな格好をつけていても、それに見合った何かを得られるわけではない。
裕貴は決断ができないでいた。
桐生に行くことくらいしか、侑希のことを進展させる方法が残っていないことは理解している。侑希と話した内容を思い出しても、侑希が自分のことをあまり話してくれなかったため、その中に手がかりがあるとも考えられない。テレビを見ながら、いつもそんなことを考えていた。
この日も、裕貴は冷房を付けないでリビングに座って、意味もなくドラマを見ていた。内容はほとんど入ってこないが、音がしているだけで孤独感は幾分か薄らいでくる。勿論、裕貴の心にそれが埋まっていくことはない。
ここのところ、裕貴はバイトとそれに付随して新宿に行くときくらいしか家を出ていない。家にはほとんど生活をする上で必要となるものがない状況であるため、バイトがないときには起床してから母親が帰ってくる夜遅くまで水道水のみで生活するときもあった。
母親とはほとんど接触しないことが普通だったが、最近の裕貴の様子が変であることは母親も感じ取っていたようで、裕貴のために何か食料を買ってくることが多くなっていた。
そんな些細な変化があったとはいえ、裕貴の周りでは基本的に空気が止まってしまったかのように動きがなくなっている。そんな状況に慣れつつあった裕貴は、次第に変化を求めない方向に思考が傾き始めていた。
テレビを見て過ごしていた裕貴は、今日をどのようにして過ごしていくかを考える。朝はゆっくりと寝る計画を立てていた裕貴だったが、結局はいつも通りの時間に起きてしまった。バイトが入っていない日で、時間は余るほどある。
テレビでは旅番組が流れている。場所は偶然にも群馬県のどこかである。桐生ではなかったものの、裕貴はたいしたことのない番組を見るときよりも真剣に視聴した。しかし、裕貴が求めているような新しい情報を得ることはできなかった。
裕貴は次の番組に変わったテレビをつけっぱなしにして、リビングに横になる。朝方であるためか、そんなに暑いわけではない。フローリングが裕貴の体温を奪っていくため、比較的快適な環境である。
裕貴は侑希の顔を思い出して、今侑希が何をしているのかを想像する。自分のことをいつも気にかけてくれているかもしれない。もしかすると、裕貴のことを忘れて生活を楽しんでいるかもしれない。
どちらにしても、裕貴は侑希に会いたいと感じた。
侑希は裕貴と別れる直前、自分の気持ちについて話してくれた。侑希から受け取った好意が裕貴を嬉しくさせたことは間違いなく、それを聞いたあの時よりも今の方がよっぽど胸にこみ上げてくるものがある。裕貴は純粋に嬉しかったのである。
しかし、侑希は裕貴が好意を伝えようとするとそれを止めた。侑希は、裕貴が何を話そうとしていたか気がついていたはずである。それでも聞かなかった侑希がどんなことを思っていたのか、それは本人に聞いてみないと分からないことだった。
一ヶ月が経って、裕貴は侑希と約束したことがどこまで重要なのかを考えた。その結果、侑希が抱えている問題を理解することがどうして必要なのか分からなくなった。裕貴は侑希に会えればそれでいいと考えている。侑希はそう考えていないかもしれないが、それでも裕貴は侑希のことを求めた。
寝転がっていた場所が自分の体温で暖かくなってくると、裕貴はゆっくりと体を持ち上げる。そして壁に掛けられている時計の針を確認した。早起きをしたことで幸い時間はある。バイトもないため、今日という日を最大限に活用することができる。
裕貴の考えは固まりつつある。それは裕貴が決断する上で必要不可欠なものだった。
裕貴はふらふらと立ち上がると、そのまま洗面所に向かっておもむろに身支度を始める。まだその時は今からどうしようかということは考えていない。しかし、服を着替えて外に出る準備を終えて、裕貴は自分が何をしようとしているのかをはっきりと心の中で確認した。
今まで裕貴がしてこなかった、桐生に行ってみることを裕貴は計画した。その結果、どのようなことが起きるのかということは考えていない。侑希と会えたとしても会えなかったとしても、裕貴はどちらでも良いと考えた。
それでも、自分が侑希のことで足を滞らせている状態を嫌い、そんな甘い考えに固執しようとしていた自分と決別するために行動することにしたのである。その結果として侑希と再会したときには、嘘をつくことなく本心を伝えれば良いだけの話である。
裕貴が自宅を飛び出したのは、決断してから十分と経たない内のことだった。
最寄り駅から桐生駅までの交通方法を確認した裕貴は、与えられた情報に従って移動を開始する。後は目的地に着いてから考えるだけだった。
移動時間は二時間半程度で、昼過ぎに桐生に着く計算である。裕貴は侑希のことを追って桐生に向かったときのことを思い出しながら電車に揺られた。
桐生に到着したのはほとんど予定通りの時間だった。人の数は決して多いとは言えない。裕貴は少数の人と一緒に構内から外に出る。一度しか来たことがないもにもかかわらず、裕貴は懐かしい風景に息を吐いた。ここのどこかに侑希がいるかもしれない。そんなことを考えると、多少の元気が湧いてきた。
裕貴は初めに、依然侑希を見失ったあたりに向かってみることにした。そこに侑希がいるとは思っていない。それでも、何か理由をつけて行動しないと不安になってしまう。道はしっかりと覚えていた。
侑希を見失った場所までやってくると、どうして自分が侑希のことをそこで見失ったのかを考えてみた。ただそれは一度考えたことのある内容だったため、裕貴はすぐに違うことに意識を向ける。
その内容とは、侑希が裕貴の追跡に気がついて、それに困った侑希がとっさに逃げたという考え方である。どこで侑希が気がついたのかは分からないものの、それでもいないはずの場所に裕貴がいたとなると多少の恐怖感があってもおかしくはなかった。
裕貴は次に自分が何をするべきかを考えてみる。最終的な目標は侑希のことをしっかりと理解することであるが、最悪侑希がどこにいるのかを把握できればそれで問題はない。つまりは、桐生に侑希がいないということであったとしても、それが真実なのであれば知りたいと考えていた。
裕貴は少し考えた後に、自分が立っている場所から北の方角に向かうことを決める。そちらの方向には大学が存在している。裕貴はそこに向かって足を動かしていた。
侑希がどのような人間であったのか、裕貴はそのわずかなことでさえ知らない。裕貴は勝手に侑希を自分よりも年上の社会人と認識していたが、それが正しいという証拠はどこにもない。裕貴は、侑希が大学生である可能性について考えていた。
侑希の見た目からはその年齢を正確に把握することはできなかった。高校生と言われればそれで納得してしまうだろうし、大学生といわれても社会人と言われても、裕貴はきっと何の疑いを持つことなく納得してしまうはずである。侑希の外見はそんな雰囲気の綺麗な人だった。
この土地に侑希が向かったことから、侑希の生活にこの土地の何かが関係していることは間違いない。侑希の家を見つけることができないのであれば、別の方法でアプローチをかけるしかなかったのである。
大学まで歩いた裕貴は、その敷地内に入って徘徊をした。周囲は大学生がほとんどのようで、裕貴はその場所に合っていないようだった。少しの好奇心と大きな羞恥心を感じながら、分からない道を知っているかのように振る舞って歩いていく。
裕貴は、そこにいるかも分からない人を探すために歩いている。時間をかけて一人一人の顔を確認しながら、大学内のある程度の道を把握するまで歩き続けた。
しかし、そんな裕貴の行動が報われることはなかった。
昼過ぎに桐生に到着して、それから裕貴が行ったことはたいしたことではない。それでも気がついたときにはかなり時間が進んでいて、裕貴は空腹を感じていた。裕貴にはまだ、この土地でしておきたいことがある。しかし、時間はそれを許してくれそうになかった。
最悪強引に行動すれば問題がないわけではない。しかし、そんなことをすればまた母親から小言が飛んでくることを裕貴は予想していた。今の時間は午後六時を回ろうとしている。すぐに東京に戻れば問題はないかもしれない。
しかし、ここを離れてしまうと次にここに来られるのがいつになるのかは分からない。裕貴は迷ったあげく、携帯を取り出して電話をかけた。
「……もしもし」
母親はたったワンコールで電話に出た。しかし、まだ仕事をしていることは承知済みである。
「急にごめん。忙しかった?」
「何でもないわ。それでなに?何か買って帰って欲しいの?」
母親は裕貴が家で腹を空かしていると考えているようである。裕貴は、そんな体験したことのない母親の言葉に少し声を詰まらせた。しかし、時間を取らせるわけにもいかないと思い、単刀直入に伝えたいことを告げた。
「今日は家に帰れそうにない……ってことを言っておこうと思って」
裕貴はそう言って母親の反応を待つ。今までの傾向であれば、その理由を聞いてきて早急に帰宅することを指示してくる。裕貴はそう考えて、それに対抗するための言葉を用意した。どんなに母親が反対したところで、決定権は裕貴にあるのである。
しかし、この日の母親はいつもとは違っていた。
「……そう。変なことはしないでよ」
「あ……分かってる」
母親は怒ることなく口早に話す。裕貴はそれに肯定することしかできなかった。
「それじゃ忙しいからもう切るわ」
「分かった」
母親の少し冷たい声を聞いて、裕貴はすぐに耳から携帯を離そうとする。こんな対応を予想できていなかったわけではない。それでも、一人になることを裕貴は寂しいと感じた。ただ、そうして電話を切ろうとした裕貴の耳に再び声が届いてくる。
「明日には帰ってきなさいよ」
そう言って母親の方から電話を切る。裕貴も携帯をしまうと、何度か前髪を触った後に歩き出した。
裕貴はゆっくりとした足取りで駅の方向に歩いていく。すでにこの日に何かをすることは考えていない。お金は十分に持ってきていたことから、駅近くのホテルに一泊することを考えていた。裕貴は駅までの道で目星のホテルを見つけ出し、電話をして空室があるかを尋ねる。一件目のホテルで空室を見つけた裕貴はそこを予約した。
ホテルに入ったのは、近くの飲食店で夕食を済ませて次の日のための適当な服を買った後だった。時間は八時を回ったところで、ようやく足を休められる喜びとともにベッドに飛び込んだ。ここまでのことを考えていなかった裕貴は、携帯電話の充電器までは用意していなかった。フロントに要求するとそれくらいは準備してくれるはずであったが、それも面倒と思った裕貴はすぐに体を休めることにした。
一日中歩いた汗を流し、その間に自分が調べておかないといけないことをリストアップしておく。シャワーから出て効率良く携帯で調べたいことを検索した後、就寝の準備にかかる。よほど疲れていたのか、今日のニュースをテレビで見ることもせずに裕貴は深い眠りについた。
次の日、早くから起床していた裕貴は、時間をゆっくりと使って頭を使わない時間を過ごした。朝食はどこかで調達しなければない。空腹感もそれなりにある。しかし、裕貴は動く気になれなかった。
昨日、裕貴は侑希と会うことを目的として桐生にやって来た。侑希がこの土地にいるという根拠は全くなかったものの、裕貴は何か小さなことくらいは知ることができるものだと考えていた。しかし、結果として侑希のことを見つけられないだけでなく、桐生に来た意味がほとんどないと言ってもいいお粗末な状況に陥っていた。
裕貴はこの日が最後の日になると考えている。今日は夜にバイトがあるため、東京に戻らなければならない。次にいつここに来られるのか分からず、再びこの土地に来ることがあるのかさえ分かっていない。裕貴は今日行動をして、侑希のことを一つも理解できなかったときのことを考えると体が動かなくなってしまったのである。
桐生で何も得られなかった場合、裕貴は完全に解決のための道筋を閉ざされることになる。裕貴はそれを恐れていた。
しかし、そんな弱気なことを考えてしまったところで、動かなければ何も始まらないことは言うまでもない。チェックアウトの時間ぎりぎりにホテルを飛び出した裕貴は、予定していた通りに駅前に向かって歩き出した。
この日裕貴が計画していたことは、桐生和紙を製造している場所に向かってみることだった。侑希が何かしらの理由で和紙を渡してきたのであれば、和紙の製造場所が関係している可能性がある。受け取った和紙に描かれていた酒升のようなものの意味は把握できないままであったが、和紙と桐生という土地が結びついた中では、その場所に行かないわけにはいかない。
製造場への行き方は、駅前から出ているバスに乗れば良いことを予習済みである。裕貴は迷うことなくそのバス停に到着し、特に問題なくバスに乗り込んだ。同じバスに乗っている人は、片手で数える程度である。
バスに揺られること二十分ほど、裕貴は目的の場所でバスを降りた。そこからは歩いて移動をしなければならない。昼が近づいてきていて、気温はかなり上昇している。裕貴は熱気に包まれながら、ほとんど自分の勘を頼りにして歩いた。
和紙を作っている場所に着いたのはそれからすぐのことだった。周囲は木々で囲まれていて、裕貴は久しぶりに自然がある場所に来たと感じる。東京に引っ越してきてからは、コンクリートの中で生活してきたのだ。
時間を無駄に使うことはできないと考えて、裕貴は早速その周囲を散策する。その時間は小一時間におよんだ。その間、少ない人数ではあったものの、裕貴は出会った人に侑希のことについて尋ねた。直接的なことを聞くことはしなかったが、酒升について関連がありそうな場所がないかということや、侑希のような人が頻繁に訪ねてきていないかなどである。
侑希が裕貴をこの場所に誘導したのだとすれば、何かしらの痕跡を残していてもおかしくはない。裕貴はそれを見つけるために動き回った。ここが裕貴にとって最後の場所になる。そんな感覚が裕貴を本気にさせた。
しかし、侑希のことについて得られたことは何一つなかった。
裕貴は自分ができそうなことを全て終えて、バスの中で一人考えにふけっていた。考えることは、侑希がどこにいるのかということではない。自分がこれからどうすれば良いのかということだった。
裕貴は侑希に約束をした。それを反故にするつもりは全くなく、裕貴は今でも侑希のことを想っている。しかし、ここまで何も分からないとなると、裕貴はどのような心境でこれから取り組んでいけば良いのか分からなかった。そもそも、侑希が抱えている問題を理解しなければならない。しかし、裕貴はその真相の断片さえ理解していない状況にある。
駅前まで向かうはずだったが、裕貴は途中のバス停で降りてそこから歩いて駅に向かうことを選択した。バスに乗っていては考える時間が少なすぎたのである。
ただ、そのような理由で降車した裕貴だったが、歩いている間は周囲の風景に目が向かってしまった。どこかの陰から侑希が現れるかもしれない。そんなことを心のどこかで考えてしまっていたのである。
そうして歩いていると、裕貴は見覚えのある場所に出た。そこは前回裕貴が桐生に来たときに見つけた、神社が多く混在している所だった。こういう場所が珍しいわけではないことは知っていたものの、裕貴の目にはどうしてか不自然なように映ってしまう。無意識の内に、裕貴はそこで足を止めてしまっていた。
感覚でしか捉えることができないものの、裕貴は自分が立っている場所が重要な場所のように感じる。侑希とこの場所を結びつけることはできないが、それでも言葉にできない不思議な感覚が裕貴のことを包む。裕貴はあえて考えるようなことはしないで時間を過ごした。
しばらくその場所に滞在した裕貴は、時間が迫っていることを思い出した。結局、何か感覚的なものを掴んだまま、裕貴は再び駅の方向に向かって足を動かした。
裕貴は来た道を辿るようにして東京に戻った。
母親は裕貴の帰宅時、珍しく自宅で過ごしていた。ただ、裕貴が帰ってきても話しかけてくる様子はない。結局、裕貴はそんな母親と一言も交わすことなくバイトに向かった。




