矛盾の解消法、都合のいい記憶改竄
2036年6月7日午後4時44分
「《俯瞰地図》
《天空召喚――“狂魔狼形態”》ッ!!」
――《無貌》の男の声と共に、天乃の視界が歪む。
そこから瞬きの間の圧迫感と浮遊感を経て、視界の景色の歪みが解消されていく。
しかし、次に開けた視界に映ったそこは、先程の部屋とよく似ていたが、広さが違う。
個室と言っても差し支えないほどの狭さしかない。
完全に別の場所である。
(うッ、吐き気が。これはッ、空間転移ってやつか……確か、実在が確認されている魔術ではあるものの、使用者は片手で数えられるほどに稀少で、かつ果てしなく難易度が高いものだったはずだ。ッたく、文字通り、何でもありなのかよッ)
天乃が胸にこみ上げる不快感を振り払おうとしつつ、空間転移が可能な魔術に関して、書物で齧った知識を思い出す。
そのまま辺りを見回して確認してみると、一緒に移動したであろう《無貌》の男はおらず、代わりに別の先客がいたことに気付く。
天乃が見た限り、それは年齢が四十代後半から五十代前半くらいの私服姿の男性であったが、天乃が突如として現れたにもかかわらず、ちらりと一瞥しただけで、再び手元の書物に目を落とす。
そこから互いに無言の数秒が経つと、今度は書物に付箋を差して閉じた男性が顔を上げ、天乃に視線を合わせる。
「悪いね。ちょうどこの本の核となる難解な箇所だったから。
またわかるように切りのいいところから読み直すのは、時間の無駄ってものだろう?」
「いえ、気にしてません」
わかったようなわからないような言い訳をしつつ、柔らかな笑顔を浮かべた男性は、すぐに「僕の名前は三俣景史郎」と自ら名乗りを上げる。
「本職は研究者なんだけどね。昔取った杵柄ってやつで、最近では臨時講師として大学で教鞭をとったりもしている。君を《俯瞰地図》で飛ばした彼とは、まぁ古い顔馴染みだ。君が、天乃君ということでいいのかい?」
「はい、天乃慎です。早速で失礼ですが――」
天乃は、挨拶もそこそこに、本題へと入る。
おそらく、ここでの情報収集がないと『詰む』という“直観”に突き動かされながら。
「――ここは、どこで、あなたは何をしているのですか?」
それに対し、三俣は明朗な声で返答する。
「ここは、僕の研究室だよ。うーん。でも、ここで何を、と言われると何とも云い難いね。ただ、簡潔に言うとね、軟禁されているのさ。うん、かれこれ一週間くらいになるんだけどね」
2036年6月7日午後4時44分
「がッああぁぁぁああぁ――」
殺風景な地下室の何もない空間から突如として出現したその《無貌》の男は、そのまま膝から崩れ落ち、憚ることなく苦悶の声を上げると、盛大に吐血する。
そして、一頻りのた打ち回った後、全身の苦痛と倦怠感を噛み殺し、ふらつきつつもなんとか立ち上がる。
「おぉ、まだ立つのか? で、どうする? 今日はもう止めにしとくか? 時期が悪い、都合が悪い、体調が悪い。ついでに運まで悪いと来た。中止の言い訳だけはたんまりとあるぜ?」
《無貌》の男の出現とほとんど同時に室内に入ってきていた間森が、《無貌》の男に挑発的な声を掛ける。
「吐かせッ! 誰に、口を、利いている。無論、断じて続行だッ! そのために、俺はッ――」
「そう来なくっちゃあな。だと思って、こっちの段取りはもう済ませておいた。なあに、ちっとばかし苦戦したが、本来は狙撃よりこっちが専門でね。んで、あとは、慎だが――どうやら教授が掻っ攫っていったみたいだな」
「ハッ、仕方あるまい。あのままでは2人とも虚空に飲み込まれるところであったが故な」
珍しく自身の落ち度を認めた《無貌》の男は、教授こと三俣の独断を容認する。
「咄嗟に慣れないことをするからだな。いくら再現できるとはいえ、習熟しなければ使いこなせないんだろ?」
「ふん、この俺を貴様如き凡俗と同列に語るな。俺一人であれば、このとおり、転移ですらも造作もない」
「へいへい。それだけ減らず口を叩けるなら十分だな。ちょっと内臓の一部が持っていかれたのなんて、些末な問題、だろ?」
「――然り。強力な手札をこの終盤にきてしっかりと使い切れたのは、非常に大きい。また、状況次第では自傷が叶うという発見は好材料、いやむしろ僥倖ですらあったと云える。亡霊の行動制限にも付け入る隙があるという情報は値千金だとも。ハッ、突発的だったとはいえ、死にかけた甲斐はあったというものだ」
そういって、《無貌》の男は口腔内に残っていた血の塊を吐き捨て、口元を袖で拭う。
《無貌》の男の臓器を失ったことに対する感想は、完全に破綻者の思考回路から導き出されたそれであったが、間森がそれを気にする様子はない。
「だが、その学びを活かす機会がないことを願おうぜ。――これっきりにしたいだろ?」
「当然だ。失敗などできるものかッ!かの亡霊は、今日、必ず滅するッ!」
「ひゅう、カッコいいねえ。――やっぱ、アンタの方が、【覚醒者】の素質があるんじゃねえの?」
「くどいッ! 意志だけでは、――想いだけでは届かんのだ。俺に素質があろうとも下地がない。凡庸たる我が身では――」
「――ちょいストップ、ストップだッ! 悪かったよ、俺も軽口が過ぎた。それ以上は不味いって。落ち着けよ」
《無貌》の男の独白を、間森は焦った様子で強い言葉をもって制止する。
それを聞いた《無貌》の男の方も、一瞬何か思案したようだが、即座に調子を取り戻す。
「いや、そうか。確かに、ここに来て失敗するわけにはいかん。まあ、この俺の偉大なる計画に綻びなど存在しないがな」
「そうとも、史上最高峰の位置に座する人の王。諸人の頂に立つ偉大なる覇道者よ。雌伏の期間はとうに過ぎた。さあ、あの寝坊助を叩き起こしに行こうぜ。亡霊を地獄に叩き返すためにな」
「無論だ。ともあれ、まずは天乃慎の身柄の確保からだ、征くぞ」
間森の口から次々と出てくる立て板に水と形容するに相応しい鼓舞の言葉により、《無貌》の男は完全に調子を取り戻したようである。
ちなみに、こうした扇動は、間森の得手でもある。
そして、間森は自身を伴って行動しようとする《無貌》の男に対し、一瞬表情を硬直させると、突如として仕事を思い出したかのような素振りを見せる。
「あっ、でも俺はほら、あの鋼の肉体だけで全てを解決しちまいそうな脳筋の権化の足止めをしとかないと」
「なんのことだ?」
「おっと、そうきたかぁ」
心底心当たりがないといった《無貌》の男の言葉に、それだけで状況を察した間森は、言葉を選んで返答する。
「えっと、そうだな。つまり、仕上げは王様に譲るってことだよ。脇役は、これまでどおり、邪魔が入らないように、日陰にすっこんで待機してるって話さ」
「構わん、元よりこれは俺単独での達成目標だ。飛び入り参加の貴様に頼る必要はそこまでなかった」
「よく言うぜ、こっからが本番なのによ」
「ハッ、ではさらばだ、“土竜”よ。再び相見えることはあるまい」
「ははは、テメエこの野郎。言っとくけど、それ一応蔑称だからな」
「ハッ、知っている」
《無貌》の男はそう告げると、振り返ることなく部屋を出ていく。
(……さぁて、残るはあの化け物の足止めかよ。しかし、アレ級が直接出張ってきたってことは、存在強度の件は問題なさそうだな。今回のはこれまでの反動かもしれんが、慎の奴、悪運強過ぎだぜ)
残された間森は、天乃の引きの強さに内心でぼやきつつも、急いで手元の装備を確認する。
携帯性重視の自動拳銃が一丁、替えの弾倉込みで約三十発分。
サバイバルナイフが二本。
発煙弾が三回分。
そして――切り札たる自動拳銃用の魔弾が三発分。
ちなみに、狙撃銃は持ち運びに不便なため、先程の場所に放置している。
(非常に心許ないが、五分は保たせてやろうかね。ッたく、とんだ貧乏籤だぜ。なぁにが、楽な仕事だよ。絶対許さんからな、あの魔女。今度会ったら覚えとけよ)
こうして、全てを丸投げしてきた今回の依頼者に内心で文句を垂れつつ、間森は絶望的な戦場へと赴いていった。




