暴君の討伐、人の世を救うという戯言
2036年6月7日午後4時22分
「本題?」
《無貌》の男の言葉に、天乃が怪訝そうな声色で質問を返す。
《無貌》の男は、大仰に頷くと、室内の入ってすぐの場所にあった椅子を指さし、天乃に着席を促す。
なぜか働いた“直観”に従い、天乃は、素直に椅子に腰かけることを選択する。
「さて、席に着いたということは、対話の意志があるものとみなす。貴様が、血気盛んな狗ではなかったことは、俺にとっては僥倖だ」
「――……」
天空の態度を揶揄した当て擦りであったが、天乃はここでも“直観”に従い、沈黙することで《無貌》の男の出方を窺う。
それに対する《無貌》の男も、特段の反応を示すことなく、話を継続する。
「実のところ、俺は、今日一日、ここから貴様の様子を観察していたわけだが、どうやら記憶喪失との噂は真実のようだな」
「視線には気づいていたよ」
「ハッ、そうだろうな」
《無貌》の男は、そう言って机の上にあったグラスを手に取り、中身を飲み干す。
天乃は、その色と漂ってくる匂いから、グラスの中身がワインであることに気付く。
天乃の目線に気づいた《無貌》の男は、目線をグラスに落とすと、得心のいった様子でグラスを掲げ、仕草だけで「飲むか?」と申し向けてきた。
もちろん、未成年である天乃がそれに応じるわけもなく、首を横に振ることで、回答に代える。
「なぁ、オレに何のようがあるんだ? 知ってのとおり過去の記憶がないんでね。そういった意味では、アンタの期待には沿えないと思うんだが」
「記憶の有無は――まぁ、この際関係ない。俺は今の貴様の協力を欲している」
そう云って、中空を漂っていた《無貌》の男の目線が天乃をはっきりと捉える。
「むしろ、それで過去の遺恨を流せるのであれば、願ったり叶ったりだ。記憶が残っていたのならば、貴様が俺の《王の法》の内部に足を踏み入れるような真似は決してしなかっただろうよ。
そうだな。かつての貴様なら、俺と一切言葉を交わすことなく、俺を排除する方法を即座に選んだに違いない。
――それこそ、手段を選ばずにだがな」
「……」
「それは俺にとっても一部望むところではあったが――とはいえ、これは今の貴様にしても詮無き話か。無駄話をした、許せ」
黙り込む天乃に対し、《無貌》の男は意外にも謝意を告げてくる。
言葉遣いこそ尊大だが、やはり、英莉からの話からは考えられないほどの人格者である。
「さて、俺からの用向きを話す前に一つ質問だ。貴様には俺がどう見える?」
「――ずいぶんと漠然とした問いだな」
「思ったことを述べるがいい。この際だ。多少の不敬は寛大な心で不問に処すぞ?」
そう言って、《無貌》の男は空いたグラスに並々と注いだワインを一気に呷る。
天乃はその間に回答すべき内容を吟味し、《無貌》の男がグラスを机に置くと同時に、回答する。
「アンタはなんか変だな」
「ハッ、ハハハ、言うに事欠いて『変』ときたか。――善かろう。して、それはどういう意味だ?」
《無貌》の男から、言葉とは裏腹に、『返答次第では、わかっているな?』という無言の圧が発される。
天乃はこの圧を努めて無視しながら、平然を装いつつ、なんとか続く言葉を吐き出す。
「アンタは、聞いてた話より随分と理性的だ。まるで、別人格のようにな」
「ほぉ」
天乃の言葉に、《無貌》の男の表情がわずかに動く。
顔を認識できないという奇妙な現象により、注視しなければわからないほどではあったが。
「いや、そんな話を英莉から聞いたんだ。確か、『先祖返り』と言ってたかな」
ちなみに、英莉が『先祖返り』と呼称した現象は、解離性同一性障害――いわゆる多重人格と呼ばれる精神疾患とは完全に別のものである。
解離性同一性障害の原因は、ストレスや心的外傷が原因とされており、幼少期の虐待がその引き金となることが多い傾向にある。
一方、英莉が『先祖返り』と呼んだ現象は、正式名称を起源性人格変異障害と云い、解離性同一性障害と症状が非常に類似した起源性疾患の一つとされている。
この起源性疾患とは、各個人の衝動や渇望の源とされる“起源”に由来する疾患であり、その多くが厚生労働省が指定する難病扱いとされている。
起源性疾患は、優れた魔術師や強力な異能者に特有の疾患であることから、発症自体稀なことだが、発症後に完治したケースはほとんど報告されていない奇病でもある。
そもそも、“人間の起源”などという存在すらまともに観測されていない箇所が患部と目される疾患であることから、外科的な治療方法はなく、薬物を使用した対症療法でしか効果的な治療方法が確立されていない。
天乃は知る由もないことであるが、先程から《無貌》の男が定期的にアルコールを摂取している理由は、事情を知る者が見れば、症状の緩和を狙った習慣である可能性が高いものと推察するものなのである。
「辰上は、『支配』の“起源”を持つと聞いた。ならば、英莉が目撃したアンタは、その起源から来る『暴君』としての別人格が表に出て来ていたときの姿だったんじゃないか?」
「ハッ、相変わらず、放っておいても賢しらに吠える奴だ。だが、それでこそ、貴様を呼んだ甲斐があったというもの。加えて、最低限の“直観”が機能しているというのであれば、支障はない」
「さっきの質問はそれの確認のためか?」
「そうとも。成果は上々といったところだ。現時点でそこまで辿り着けているというのは、貴様が決して鈍くはないということの証明だ。
――が、かといって全知という訳でもない。
ハッ、俺からすると、それは実にいい塩梅なのだ」
確かに、天乃が現時点で把握できているのは、英莉の身に起こったと思われる出来事くらいであり、今回の一件の全貌を把握しているとは云い難い。
それというのも、今回の一件をジグソーパズルに例えるのであれば、ピースが足りないどころの話ではない。明らかに、どこにも当てはまらない『余ったピース』がいくつか存在しているのだ。
つまり、この絵図の全体像を構成するパズルの製作者は複数存在する。
複数のパズルが組み合わさって一つの画が完成するのである。
したがって、その全体像を俯瞰するためには、この《無貌》の男やかつての自分の思惑だけではなく、他の製作者の思惑をも同時に紐解いていく必要があるのだ。
そのことを前提とすると、《無貌》の男の計画すら構成しない余った事情は、他のパズルを構成するものなのであろうが、それらを一枚の画と見るためには、圧倒的にピースが足りていない。
それどころか、その画は一つとは限らない上、そもそも、目の前の《無貌》の男の思惑すらも、現状では未だに完成形が見えておらず、不透明なままなのである。
そういった意味で、《無貌》の男の狙いを聞き出すことは、『余ったピース』を明確化することに繋がるものと云え、それは今回の全体像を把握するためにはほとんど必須の作業と云える。
非常に感覚的な話ではあるが、これが、天乃の現状に対する認識である。
現状、唯一の戦力として同行してきた天空が排除されてしまった以上、英莉が提示していた『物理的に殴り倒す』という当初のプラン通りに事を進めることは事実上不可能となってしまっている。
無論、天乃がその身一つで殴り掛かるという選択肢が残されてはいるが、どのように甘く見積もっても、それが功を奏する未来は見えない。
だからこそ、現在の天乃は、自分の身を守るためにも、なるべく早急に事態を把握する必要に迫られているのである。
――それが相手に誘導されている悪手でもあると“直観”しているものであっても。
「それで、オレに何をしろって?」
「何、聞けば幼稚な戯言だ。――正気で云う奴の気が知れぬ。よもや、それを述べるのが自分になろうとは、終ぞ俺も考えなかった。これから述べるのは、そういった類のある種の世迷い事だ」
「随分と入念な前置きをするんだな」
「ハッ、むべなるかな。だが、よもや、人の世を救うなどという与太話を真面目にするともなれば、この程度の前置きは可愛いものだろう?」
「はい?」
「正確には、人の世を滅ぼす存在の討伐に関する話だがな。人の世が救われるのは、あくまで結果論に過ぎん」
「討伐……【討伐令】」
「そうとも。これらからするのは、かつて【討伐令】の対象とされ、今尚生き延びる『支配』欲の権化。
――通称『辰上の亡霊』。その討伐に関する話だ」




