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Replica ― Amphitheatrum Ideale ―  作者: 根岸重玄
登校騒乱編

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玉座に座す者と大神を喰らう魔狼

 2036年6月7日午後3時56分


「こちらのようですね。では、降ろします」


 天空(てんくう)小脇(こわき)に抱えられていた状態の天乃(あまの)は、順調に研究棟の内部へと侵入を果たしていた。

 天乃(あまの)が見ていた限り、天空(てんくう)は十分ほど前に何かの接近を感知した。

 そこからは天空(てんくう)の指示に従い、迫る何かから遠ざかるような軌道を描いて進んでいたようであるが、五分ほど前に再び雷が落ちたのを確認した途端、天空(てんくう)は突如として蛇行(だこう)を止め、急いだ様子で天乃(あまの)の身体を持ち上げると、跳ぶようにまっすぐ建物内を目指し始めたのである。

 そして、そのまま建物(たてもの)接近(せっきん)すると二階の窓に向かって跳躍(ちょうやく)し、それを蹴破(けやぶ)ることで中に侵入し、現在に至るというわけである。


「こちらです。急ぎましょう」

「お、おう」


 建物内(たてものない)で解放された天乃(あまの)は、天空(てんくう)の迷いのない動きに(したが)って後ろをついて行く。

 おそらく、天空(てんくう)は何かに気付(きづ)き、それを()えて(だま)っているようであるが、天乃(あまの)はそれを聞き出す意味は(うす)いとの“直観(ちょっかん)”に(したが)い、ここでは(たず)ねないこととしたのである。

 その後、侵入(しんにゅう)してすぐ傍にあった階段を上がったことから、ここは建物(たてもの)の三階のはずである。

 建物(たてもの)三階は、周囲に人気(ひとけ)は一切なかったが、階段(かいだん)(のぼ)った(さき)()き当たりに見える部屋にだけは()かりが灯されている。

 天空(てんくう)は、天乃(あまの)に止まるように身振りで指示(しじ)を出すと、単身で()かりの()いている部屋へと近づく。

 しばらくして、階段付近(かいだんふきん)待機(たいき)していた天乃(あまの)のもとに戻ってきた天空(てんくう)によると、(とびら)に鍵はかかっておらず、ブービートラップの類いも仕掛(しか)けられていないとのことである。

 そして、中からは人の気配がするとのことであった。


「いかがいたしましょう。《天眼(てんげん)》の反応のある五階を目指すべきなのでしょうが、如何(いかん)せん不審すぎるかと」

「それには同意見(どういけん)だが、ここは五階を優先しよう」


 詳細(しょうさい)理由(りゆう)天乃(あまの)にも説明(せつめい)できないが、ここは上階(じょうかい)優先(ゆうせん)すべきという“直観(ちょっかん)”に(したが)って、天空(てんくう)(さき)(うなが)す。


「んで、そっちのお嬢様を見つけたら、隙を見て連れ出して、とっとと脱出だ。想定外の事態が起こってるわけだし、英莉(えり)も残して来てるわけだしな」

「よろしいのですか? 一発お見舞いするとかなんとかは」

「……さっきは英莉(えり)の手前ああいったが、そういった個人的な遺恨(いこん)はこの際、無視だ」


 揶揄(からか)うような口調で尋ねる天空(てんくう)に、天乃(あまの)はぶっきらぼうに返答する。


「了承しました」


 そのような天乃(あまの)の態度に、微笑みを()かべて返事をした天空(てんくう)は、思い(なお)したかのようにすぐに表情(ひょうじょう)()す。

 そこから天乃(あまの)を先導するように、近くにあったエレベーターを無視して、階段で五階を目指し(はじ)める。

 天空(てんくう)がエレベーターを避けたのは、遠隔操作で中に閉じ()められる危険性を考慮(こうりょ)したためである。

 しかし、その後も特段の妨害も支障もなかったため、あっさりと五階にまで辿り着けてしまう。

 すると、正面(しょうめん)には他の階のいくつもの部屋(へや)(かべ)をぶち()いて一つに繋げたかのような広さの部屋(へや)が目に入る。

 そこにも明かりは灯されており、中からは人の気配がする。

 天空(てんくう)の《天眼(てんげん)》の反応もここからしているようで、天空(てんくう)には今にも電子錠の(とびら)を物理的に破って部屋に飛び込みそうな勢いである。

 それを(うで)をつかむことで()めた天乃(あまの)は、(とびら)天空(てんくう)の間に身体(からだ)を割り込ませることで道を塞ぐ。

 そして、少し憮然(ぶぜん)とした表情(ひょうじょう)を浮かべた天空(てんくう)に声を掛ける。


「最終確認だ。《天眼(てんげん)》で映像は見れないままか?」

「……はい、この天空(てんくう)に把握できるのは位置情報だけです」

「なあ、天空(てんくう)さん」

「はい、なんでしょうか」

「オレに何かを期待しているんじゃないのか?」


 天乃(あまの)の言葉に、天空(てんくう)は一瞬口を噤むと、少し考える素振(そぶ)りをして、おそらく初めから決まっていたであろう回答を口にする。


「――()()。同行さえしていただけるのであれば、その後はこの天空(てんくう)が何とか致します。()いて言うなら、この天空(てんくう)の身に何かあった場合には、お嬢様を救っていただきたいとは思っておりますが。それも、期待まではしておりませんよ」

「……そのときは、できる範囲で善処するさ」


 天空(てんくう)から『だって、()が重いでしょう?』との言外(げんがい)指摘(してき)を受け、天乃(あまの)は気まずそうに玉虫色(たまむしいろ)の回答を返すことしかできなかった。


「それは――気休めにしては、上出来ですね。安請(やすう)け合いをしないというのは美点(びてん)です。では、参りましょうか」


 そうあっさりと云って、天空(てんくう)天乃(あまの)を避けて前に進み、(とびら)に手を掛けようとする。

 すると、電子錠は(はじ)めから掛かっていなかったのか、(とびら)はそのまま自動で開いた。


「ずいぶんと、遅い到着だったではないか? まぁ、大方、例の“土竜(もぐら)”の仕業だろうがな」


 (とびら)の先から男の声が聞こえてくる。

 その声の方を向くと、部屋(へや)に乱雑に積まれた様々な計器や機器に(かこ)まれた男が椅子に(こし)かけている様子が目に入る。

 天乃(あまの)は、その男の顔に見覚えがなかった。

 しかし、その顔に対し、そもそもこれは顔なのだろうか、という漠然とした疑問(ぎもん)が浮かんだ。

 天乃(あまの)は、男の目や鼻や口などのそれぞれの部位をはっきりと目視できている。

 だが、これを一つの『顔』という()で捉えようとしたとき、突如として実体がつかめなくなる感覚に陥るのだ。

 顔を覆う模様(もよう)あるいは仮面(かめん)を見ている感覚(かんかく)に近い。

 なまじ本当の顔が見えているから、それが仮面(かめん)だと気付(きづ)けないかのようでもある。

 違和感(いわかん)困惑(こんわく)する天乃(あまの)は知る(よし)もないが、これは《無貌(むぼう)》と呼ばれる認識阻害効果(にんしきそがいこうか)のある固有魔導(こゆうまどう)によるものである。


「さて、招かれざる客もいるようだが、一応、述べておくか。ようこそ、俺の(しろ)に。ま、(しろ)というには少々現代風(げんだいふう)過ぎるが」


挿絵(By みてみん)


辰上(たつかみ)家の方とお見受けします」


 違和感の正体を掴めずに硬直する天乃(あまの)に対し、《無貌(むぼう)》の男の顔に特段の違和感も覚えなかった天空(てんくう)は、物怖じすることなく、単刀直入に用件(ようけん)を切り出す。


「当方、狗飼(いぬかい)家にて使用人を勤めております、天空(てんくう)と申します。

 此度は、こちらに当家(とうけ)朱音(あかね)お嬢様がお邪魔していると伺い、迎えにあがった次第。お嬢様は何処(いずこ)におられるでしょうか?」

「ほぉ、俺の(しろ)に無礼にも二階から窓を割って土足(どそく)で侵入した(ぞく)の言い草とは到底思えんな。礼節は守られるべきだとは思うが、やはり時と場合があるのではないか?」


 《無貌(むぼう)》の男は、若干愉快気な声を上げて天空(てんくう)に言葉を返す。

 その言葉はあまりに理路整然としており、反論(はんろん)の余地はない。

 そこからは、英莉(えり)の評する人物像とはかけ離れた知性を感じるほどである。


「確かに、未成年者略取犯(りゃくしゅはん)を前に、これは少々迂遠(うえん)なアプローチでしたね。本来は礼節を尽くすべき相手ではなかったのですから、それも当然ですか。とはいえ、この態度は職業病のようなものですので、(ひら)にご容赦(ようしゃ)を」


 慇懃(いんぎん)に返す天空(てんくう)の言葉には、強烈な皮肉が込められている。

 《無貌(むぼう)》の男の顔は、未だにはっきりとはしないが、眉の部位が不快感を示すように動いたのを天乃(あまの)は確認する。


「ハッ、“略取(りゃくしゅ)”とは()なことを。自らの意思で積極的に付いてきた者をこの俺が略取(りゃくしゅ)したと!? 侮辱(ぶじょく)(はなは)だしい言い掛かりだぞ、(いぬ)

 そも、この俺が他者より何かを奪う必要などあるものかよ。必要なものは、その時までに自然(しぜん)手元(てもと)にあってこそ“(おう)”の度量(どりょう)よ。わかるか? 必要なものを必要な時に(もと)めているようでは二流以下(にりゅういか)なのだ。前提を履き違えるなよ?

 ここでは、俺が“(おう)”であり、そして《(ほう)》だ」


 そのようなピントのずれた反論(はんろん)(とも)睥睨(へいげい)する《無貌(むぼう)》の男に対し、天空(てんくう)無言(むごん)で会話中に並行して準備(じゅんび)を進めていた魔術(まじゅつ)を無警告で放出する。

 その名も《氷天(ひょうてん)》。

 大気中に漂う魔力の元を氷塊(ひょうかい)(てん)じて射出する魔術(まじゅつ)である。

 その最高初速は音速すら()えるが、天空(てんくう)は精密射撃を苦手としており、有効射程は精々(せいぜい)十メートルほどである。

 とはいえ、室内という狭い空間であれば、まず外さない。

 相手が椅子に(すわ)っているなら尚更である。

 天空(てんくう)はこれによる氷塊(ひょうかい)飛礫(つぶて)を《無貌(むぼう)》の男に向けて全部で四発同時に打ち込んでいた。

 まさしくそれは致命(ちめい)の一撃――となるはずであった。


「なッ!!?」


 だが、次の瞬間、驚きの声を上げたのは、苦悶(くもん)の表情を浮かべ、崩れるように地面に膝をついた天空(てんくう)であった。

 なんと、《無貌(むぼう)》の男に向かっていった天空(てんくう)の《氷天(ひょうてん)》は、《無貌(むぼう)》の男が射出した《氷天(ひょうてん)》を空中でぶつけられたことによって軌道を変え、明後日の方角に弾き飛ばされたのである。


「まったく、下賤(げせん)(いぬ)だな。(しつけ)がなっておらん。同じ言葉を発するからと言って、会話ができるとは限らないということか。(たわむ)れに(きょう)じてみた(わけ)だが、実に下らん幕引(まくひ)きだったな」

「今のはッ――」

「ハッ、()()()()()()()。ただの見様見真似(みようみまね)という奴だ。そも、そこの(いぬ)(ごと)きにできることが、なぜ俺にできぬと断じたのだ?

 ――俺は、万人(ばんにん)の上に君臨(くんりん)する“(おう)”だぞ。“(おう)”である以上、下賤(げせん)(やから)ですらできることが()()()()()()()()()


 天乃(あまの)の驚きの声に対し、《無貌(むぼう)》の男はごく当たり前のことのように説明する。

 ――そうあらねば“(おう)”にあらず。

 ――万人(ばんにん)ができることを当たり前のようにできてこそ、万人(ばんにん)(いただ)かれる“(おう)”たり得るのだと。

 考えるまでもなく荒唐無稽(こうとうむけい)な理屈であったが、《無貌(むぼう)》の男の言葉には確信が()ちていた。

 それと同時に、天乃(あまの)英莉(えり)の言葉の意味を確信する。

 英莉(えり)は、『物理的に殴り倒すのはワケない』と()べていた。

 しかし、これは、魔術(まじゅつ)戦では、この術式再現とでも云うべき異能のせいで勝負にならないということの裏返しだったのだ。

 英莉(えり)の話によると、この術式再現は固有魔導(こゆうまどう)――《(おう)(ほう)》の副次的な機能であり、特定の条件下でのみ使用可能で、かつ回数制限もあるとのことである。

 しかし、現状において、これらの条件を特定している余裕はない。

 ただ、どのような魔術(まじゅつ)であっても再現可能というのは、まさしく先程の《無貌(むぼう)》の男の言葉どおりの理屈が、少なくともこの《(おう)(ほう)》の(もと)では機能していることの証左に他ならない。

 そうであるならば、条件の一つは、おそらく術者(じゅつしゃ)が《(おう)(ほう)》の内部にいること、またはいたことであると推測できる。

 そして、それこそが《(おう)(ほう)》という固有魔導(こゆうまどう)の真髄であるとすれば――次の瞬間にも未知の多種多様な魔術(まじゅつ)が降り注ぐ可能性が否定できないのである。


「だが、迷いなくこの俺に魔術(まじゅつ)を放った胆力(たんりょく)感嘆(かんたん)(あたい)する。その激痛は俺なりの褒美と思え。人ならぬ身とはいえ、貴様は(れっき)とした狗飼(いぬかい)家の召喚体(しょうかんたい)だ。()()()()痛みも感じるのであろう?

 ハッ、不敬(ふけい)ではあったが、貴様には貴様の通すべき筋があったということだ。(いぬ)(いぬ)でも忠犬(ちゅうけん)(たぐ)いであったか」

「くッぅぅぅ」


 だが、《無貌(むぼう)》の男は椅子に座ったまま膝をつく天空(てんくう)を見据え、追撃を行わない。

 対する天空(てんくう)も苦痛に顔を歪めるのみであり、次の行動に移れない。

 このことから、《無貌(むぼう)》の男が追撃の必要性を認めていないようでもある。


(戦力差が圧倒的すぎるッ……)


 内心でそう思う天乃(あまの)の《魔眼(まがん)》には、天空(てんくう)が《無貌(むぼう)》の男との会話中から《氷天(ひょうてん)》の準備をしている様子が確認できていた。

 そして、それとほぼ同時に、天空(てんくう)を対象とする魔術(まじゅつ)の発動を感知していた。

 それは天空(てんくう)の《氷天(ひょうてん)》の発動と同時に、()()()()の発動をしたのである。

 これも、事前に英莉(えり)から聞いていた現象――『(ほう)』に違えたことに対する『(ばつ)』であると推測される。

 おそらく、前者が特定の行動を封じる《自由刑(じゆうけい)》であり、後者が苦痛を与える《身体刑(しんたいけい)》なのであろう。

 攻撃の意志を向けたことに対する《自由刑(じゆうけい)》によって、攻撃行動を封じられ、攻撃の実行に対する《身体刑(しんたいけい)》によって苦痛を(あた)えられる。

 実際のところ、天空(てんくう)が《無貌(むぼう)》の男を攻撃できたように、《自由刑(じゆうけい)》による行動(ふう)じは完全なものではないらしい。

 この《無貌(むぼう)》の男(いわ)く、胆力(たんりょく)や信念があれば乗り越えられる問題らしいのだ。

 一方で、それを乗り越えて実際に攻撃をしたことに対する罰則は、天空(てんくう)をして身動きが取れないほどの苦痛を与えるものなのであり、明らかに質が上である。

 (あたか)も、罪状に応じて刑罰が重くなっているようでさえある。

 とはいえ、これは英莉(えり)からの情報ではありえないはずの現象である。

 英莉(えり)の話では、『法』で(しば)れるのは人間のみであり、()()()()()()()()()

 つまり、召喚体(しょうかんたい)たる天空(てんくう)に『罰』が下る道理がない。

 《無貌(むぼう)》の男は、天空(てんくう)のことを『人ならぬ身』『召喚体(しょうかんたい)』と呼称した。

 そのように見ているのであれば、道理に合わないことが起こっているのである。


天乃(あまの)、様、お()がりください」


 膝をついた天空(てんくう)が、手で天乃(あまの)()がるように促す。


「幕引き、と言ったはずだがな、(いぬ)。俺は、既に貴様の健闘を認め、そして(たた)えた。それ以上の足掻きは、これまでの貴様の行いを(けが)すことになるぞ」

「構いませんよ。この天空(てんくう)には、(いくさ)(ほまれ)など不要です。欲しいのはいつだって、実利だけですので」

「ハッ、()く云った」


 《無貌(むぼう)》の男は軽い笑い声を上げると、小さく片手を挙げる。

 それに呼応するかのように、《無貌(むぼう)》の男の周りに氷塊が四つ出現する。

 先程と同じ、《氷天(ひょうてん)》である。


「では、精々(せいぜい)、役に立たぬその実利とやらを後生大事に抱えたまま、浮上(かな)わず溺死(できし)しろ。もっとも、あの世に常世(とこよ)の利など持っては行けぬがな」

天乃(あまの)様、後は、任せました」


 そう告げた天空(てんくう)身体(からだ)に、天乃(あまの)の《魔眼(まがん)》でなければ捉えることのできない(ほころ)びが生じ始める。

 同時に《(おう)(ほう)》による《身体刑(しんたいけい)》が外れようとしてる。


「この姿を人前にさらすのは屈辱(くつじょく)(きわ)みですが、その(むく)いはあの男に受けてもらうとしましょう。天乃(あまの)様、事前に謝っておきますが、巻き込んでしまったら、申し訳ありません。なにぶん、制御が効かないものでして」

「……どういう――」

「“――我が身は人に有らず”」


 天空に魔力が収束していく。


「“(くる)()け――()大神(たいしん)()らう魔狼(まろう)なれば”」

「む、これは、不完全ながら……詠唱かッ!? 貴様ッ、何のつもりだ!」


 《無貌(むぼう)》の男は、そのときになって天空(てんくう)が《(おう)(ほう)》の適用対象から外れたことにようやく気付く。

 しかし、次の瞬間には《氷天(ひょうてん)》を天空(てんくう)に撃ち込んでいた。

 だが、音速(おんそく)で飛来した氷塊(ひょうかい)は、そこにいた獣の毛皮に突き刺さることなく弾かれる。

 そこにいたのは、メイド姿の女性ではなく、1匹の銀色の毛並みを持つ体長三メートルほどの大狼(たいろう)であった。

 大狼(たいろう)は、グルルルルル、と低く唸りながら、目の前の《無貌(むぼう)》の男を睥睨(へいげい)する。


「ハッ、なるほど。()()()不完全体を選んだわけか。確かに、人の身形(みなり)を捨て、理性を捨て、本性を現し、ただの魔性(ましょう)と化せば、《(おう)(ほう)》のもとに『刑』を科すことはできん。

 貴様の()()()()()()()、今の貴様は『人』の範疇にはないだろうさ」


 《無貌(むぼう)》の男は、得心が言ったとばかりに頷くと、あろうことか、既に大狼(たいろう)には興味を(うしな)ったとばかりに目線を逸らし、今度は天乃(あまの)を見据える。

 だが、その瞬間を大狼(たいろう)が見逃すはずはなく、その巨躯(きょく)見合(みあ)わぬ俊敏な動きで、《無貌(むぼう)》の男に牙を突き立てんと飛び掛かる。

 《無貌(むぼう)》の男は、それに対し、一言(ひとこと)、「《()()()()》」と告げる。すると、大狼(たいろう)の姿がその場から掻き消える。

 《天空召喚(てんくうしょうかん)》とは、召喚体である天空(てんくう)を呼び出し、退()()()()()狗飼(いぬかい)朱音(あかね)の魔術である。

 ただし、そのオーナーである狗飼(いぬかい)がこの《(おう)(ほう)》内で捕らわれている以上、先程天乃(あまの)が予測した条件からして、《無貌(むぼう)》の男がその魔術を再現できないと考えるのは、楽観が過ぎたのだろう。

 《無貌(むぼう)》の男は、相対する瞬間より前に、天空(てんくう)に対する絶対的優位性を確保して臨んでいたのである。

 天乃(あまの)が《無貌(むぼう)》の男に対する警戒レベルを最大限にまで引き上げると、大狼(たいろう)の姿が消滅したことで静寂(せいじゃく)が訪れた室内に《無貌(むぼう)》の男の声が響く。


「まぁ、前座の余興としては楽しめた方か。それでは、本題に入ろうか、天乃(あまの)(しん)

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