暴君の気まぐれ、蛮勇を示した者への慈悲
2036年6月7日午後1時25分
緋澄の目が、魔力放出を回避していた天乃を捉える。その双眸には、獲物を追い詰めた愉悦と、それ以上に深い、言葉にできない複雑な色が混ざり合っていた。
「……なぁんだ。記憶が消えてすっかり腑抜けたのかと思ったけど。
いいじゃない。
その眼は、まだ健在のようね。
よかった。私の嫌いな天乃慎がまだ残っていてくれたみたいで、少し安心したわ」
緋澄は少し冷静になったような口調で述べ、天乃を見据える。
「でも、意外ね。安心、……安心とか。
我がことながら噴飯ものね。
あれだけ『死ねばいい』『消えてればいい』『いなくなればいい』って。
『思って』『想って』
『考えて』『叶えようとして』
『願って』『希って』
『諦めて』『諦めきれなくて』
――ここまできたはずなのに」
緋澄は自嘲気味な笑みを浮かべ、脱力したかのように肩を竦める。その言葉は天乃に向けられたものであると同時に、自分自身の割り切れない感情を整理するための独白のようでもあった。
「ホント、ままならないわね。
……まぁ、でも、うん、いいや。
これで、心置きなく――」
「慎ちゃん、逃げて!!」
(不味い、主殿ッ!!)
「――――――さよなら」
咄嗟に我に返った遊上の悲鳴のような警告と、英莉が不穏な気配を感じて硬直を脱しようとしたのと、緋澄の腕が動いたのは、ほぼ同時であった。
英莉は、数秒間続く原因不明の硬直から脱するため、全身に力を込めて無理やり地面を蹴ろうとするが、脚が地面に縫い付けられているかのようで、まったく持ち上がる気配がない。
(この現象ッ!
仕組みは凡そわかったが、『枷』がある状態では振り切るための膂力が足らんかッッ!!)
通常、魔力放出は、せいぜいが空気に動きを生じさせ、風を巻き起こすという現象を引き起こす程度のものである。
ただし、瞬間的に放出した魔力量が多ければ、その放出の勢いを利用することで、人体を空中に浮かせたり、高速で移動したり、素手や武器での打撃や投擲の威力を増したり、地面に押さえ付けることで身体の動きを一瞬固定したりといったことが可能となる。
勿論、それ自体を攻撃の手段に転用することすら可能であり、その技術は一部で魔弾などと呼ばれている。
しかしながら、この魔力放出によって発生した空気の流れに触れたとしても、それが人体に何か影響を及ぼすといったことは、特にないのである。
つまり、単なる魔力放出であれば、英莉や天空の身体を瞬間的に固定するならまだしも、数秒にわたって固定し続けるなどということは、本来的には不可能なはずなのである。
しかし、緋澄は、魔力放出ととある技法を併用することで、これを可能としていた。
それは、『遠隔魔力操作』や『操魔法』などと呼ばれる特殊な技法で、天空が魔力競技『送球』の際に使っていた体外に放出した魔力を操作するというものである。
緋澄は、これを見ただけで模倣して再現してみせた水無月から、その後にこっそりとコツを聞き出しており、自分なりにアレンジして使用してみせたのである。
その結果、放出された魔力が、植物のように相手に絡みつき、その動きを封じるという現象が生じたのである。
もっとも、水無月は予め魔弾と呼ばれる技術を知っており、体外に放出した魔力に属性を付与することができるということを知っていたが、緋澄は魔弾の存在すら知らずに、ほとんどぶっつけ本番でここにまで至っているのであるから、才能という面では水無月に引けを取らないものであろう。
そして、これにより、特に、英莉の脚は念入りに地面と接着するような形で拘束されている。
これは、英莉本人が考えていた通り、その拘束を振り切るためには、これそのものを引きちぎったり、地中に潜り込んで植物のように根を張った状態の魔力の塊を地面ごと引き抜いたりするほどの膂力が必要となる。
ただ、如何に植物の操作に特化した魔術を扱う緋澄の魔力とはいえ、所詮は形も質量も存在しない植物であるという方向性を与えられただけの力にすぎないことから、もって数秒という短い間の拘束しか本来的に為し得ない。
なぜなら、数秒後に魔力は、自身が植物ではなかったことを思い出し、その機能を失ってしまうからある。
このことから、英莉には拘束を振り切るだけの膂力はなかったが、あとほんの1、2秒で拘束は自然に解ける状態にはあった。
だが、逆を言えば、英莉は、あと1、2秒は確実に動くことができない状態にあるということでもある。
その間隙を突くように、緋澄は、天乃に向けて、魔力競技『遠投』の要領で再び魔力を放出しようと掌を掲げる。
(――来るッ!)
緋澄の腕が上がる直前、緋澄の魔力の流れから、魔力放出の予兆を検知した天乃は、どうすべきかを考えていた。
緋澄の魔力の流れから、次に来る魔力放出が、先ほどとは異なり、周囲を巻き込むようなものではなく、一直線に天乃に迫ってくるものであることが予測された。
天乃は、先ほどの緋澄による魔力放出を回避した際、もともと天乃が立っていたあたりで魔力の形状が蔦のような植物に変化したのを目撃しており、これが現在英莉たちを拘束しているということも理解していた。
だからこそ、魔力放出の軌道を避けるべく、左右どちらかに移動するのが最も容易にこれを回避できる方法であると判断した。
だが――
(わからない)
天乃には緋澄が攻撃してきた理由がわからない。
そもそも天乃には記憶がなく、緋澄との過去の関係性は――
(知らない)
だが、先ほどの会話を聞く限り、緋澄が天乃に対して並々ならぬ敵意を抱いていることは――
(知っている)
ならば、この攻撃の目的は――
緋澄が激怒していた理由は――
それらを踏まえて自分がとるべき行動は――
天乃は、緋澄が魔力を放出するまでの一瞬のうちに、思いつく限りの可能性を検討し、思案し、最善手を模索していたが、こちらに掌を向ける緋澄の表情が視界に入った瞬間、それらをすべて放り投げた。
(――なんで、そっちがそんな顔してんだよ!)
天乃が、緋澄の表情から読み取れた感情は怒りではなく――憐憫と悲哀、そして諦念だった。
もっとも、次の瞬間にはその表情は消えさっており、ほとんど感情を読み取れない無表情となっていた。
そして、直後に緋澄の掌から放出された魔力が、天乃の視界を埋めていく。
(見間違え、ってわけじゃないんだよな。
ああ、くそっ、もう知ったことかっ!)
天乃は、左に避けようとしていた足を踏みとどまり、緋澄のいる方向である正面へと踏み切る。
そして、姿勢を低くして緋澄に向かって疾走し、魔力放出によって生じた風が吹き荒れる空気の断層に向かって自ら突っ込んでいく。
(主殿!? なんでそうなるんじゃッッ!?)
天乃の思考を読み取ることができる英莉は、その思考を読み取った上で、天乃の行動を理解することができなかった。
思えば、天乃は以前から割と突拍子もない行動をすることがあったが、記憶喪失以後はそのような傾向が減少していたために、完全に油断していたのだ。
それは、この場にいた遊上も天空も、そして、緋澄も同様であった。
そして、天乃のこの予想外の行動が、結果的に功を奏すことになる。
天乃は、正面から吹き付ける魔力放出によって生じた風をもろに浴びる。
しかし、緋澄の魔力が天乃に絡みつくという現象は生じず、そのまま緋澄に向かって前進する天乃の足は止まる気配がない。
これは、天乃が予め意図していたことではないが、『操魔法』の仕様によるものである。
『操魔法』は、魔力を放出する前に放出後の挙動を入力しておく必要があり、放出後に魔力の挙動を変更することができないという性質がある。
緋澄は、天乃が通常では目視できないはずの魔力の動きを見ることができる特殊な魔眼を持っていることを知っていたことから、直線的に最速で魔力を放出すれば、天乃はこれを躱そうとして左右のどちらかに逃げると予測した。
だから、天乃が現在立っている地点まで魔力を直進させ、その場で魔力を左右に広げてから魔力の性質を変化させることで、天乃を拘束しようと考え、その通りに実行したのである。
特に、今回は英莉がいるため、天乃自身が攻撃に転じなくともよい状況にあったことから、まずは回避に徹して時間を稼ぎ、英莉が戦線に復帰するのを待つというのが、天乃の最善手であると緋澄は考えていた。
だからこそ、天乃が正面から向かってくるなどという可能性は、まったく慮外のものだったのである。
(――――こいつ、なんでッ!!? まっすぐこっちに!!)
そして、緋澄は、驚愕によって停止していた思考を再開し、どのように対処するかを検討する。
だが、これによって生じた空白時間は、天乃が緋澄のもとに辿り着くには十分すぎる時間であった。
「うおおぉぉ、りゃあ!」
天乃はそのままの勢いで緋澄に向かって体重を乗せたタックルを決行し、緋澄を仰向けに押し倒しながら、もろともに地面に転び込む。
そして、そのまま素早く緋澄の両手首をつかんで地面に押し付け、馬乗りの体勢になる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「………………」
天乃が乱れた呼吸を整えていると、下敷きにされていた緋澄が口を開く。
「……天乃、慎。あなた――」
「ダメ、お姉ちゃん! ダメだよっ!!」
緋澄が何かを言いかけるが、それを遮るように遊上が天乃に駆け寄り、天乃に抱き着くように密着する。
「あのっ、遊上さん!?
なんだ、これっ!?
その、思いっきり当たってるんですけどっ!」
何がとは言わないが、思わず敬語になってしまった天乃に対し、遊上がそれに気づいた様子はない。
ただ、真剣に緋澄に語り掛けるのみである。
「ダメだからね、お姉ちゃん。
これ以上は、もう――」
「大丈夫よ。わかってる。
これは、全面的に私が悪かったわ。
っていうか、公衆の面前でそういうのは、はしたないからやめなさい。
あと、重いから。退いて」
「「えっ、あ、はい」」
まるで何事もなかったかのような緋澄の冷めた態度に気圧され、天乃と遊上は口を揃えて返事をしてから、緋澄の上から立ち上がり、その場をいそいそと退く。
緋澄がむくりと起き上がると、緋澄の後頭部があった場所の下から、緋澄がとっさにクッションにしたであろう蔦の束が現れる。
緋澄がそれに触れると、蔦は急速に枯れていき、朽ちて跡形もなく消え去る。
そのときの緋澄の横顔を眺めていた遊上は、ふと思ったことが口から出てしまう。
「あ、あの、お姉ちゃん?
なんか、あれ?
もしかしてだけど、機嫌……いい?」
これに対し、緋澄は呆れたような表情でため息を吐き、物わかりが悪い幼い子を諭すように、自分の妹に向かって滔々と語り掛ける。
「そんなわけないでしょ。
気分は最悪よ、最悪。
天乃慎如きに力任せに荒々しく組み敷かれた上に、為す術もなく乙女の柔肌を無遠慮に撫で回されたのよ?
私が初心な少女だったら、卒倒モノだったと思うわ」
「確かに、初心だとか少女だとかは関係なく、下手したら頭打って卒倒ものだったかもしれないから、それは謝るけど!
そんな色気が欠片もあるもんじゃなかったからな!
その表現には断固として抗議したい!」
「あら? 何か事実と違うところでもあった?」
「事実語れば何言ってもいいってわけじゃないって話だが?」
「…………そう、いう話、じゃあ、なかったんだけどなぁ」
天乃と緋澄が言い合う中、遊上はこっそりと肩を落としてぼやく。
その声を耳聡く聞きつけた緋澄は、天乃との言い合いを一方的に打ち切り、遊上の耳元に顔を近づけて、その肩に手を置き、こっそりと耳打ちする。
「(私が今の段階で、天乃慎を殺すわけがないでしょ。
ついイラっとしてカっとなっちゃったから、適度にビビらして憂さを晴らしてやろうと思っただけ。
ちょっとくらい反撃されたからって、そんなことはいちいち気にしてないわ。
もう頭も冷えたから、心配しなくても大丈夫よ)」
早口にそれだけ告げると、緋澄は再び天乃の方に向き直る。
その様子は普段の緋澄と遜色ないように見えるが、双子の妹である遊上からみると、少し印象が異なるようで――
(……やっぱ、お姉ちゃん、ちょっと機嫌いいんじゃん)
気まぐれな姉を半目で見つめつつ、遊上は人知れずため息を吐く。
「さて、それじゃあ、天乃慎。
さっきの適任云々の話の続きを聞かせなさい?」
「なんだコイツ、暴君か?」
緋澄がここ数分間に何事もなかったかのように天乃に話の続きを促し、天乃が若干引き気味に呟いている横で、英莉と天空は、
「のぉ、ひょっとして、わっちらは、巻き込まれ損か?」
「どうやら、本日は厄日のようですね」
「互いにの」
と、知らぬ間に災害が去っていたことを確認し、顔を見合わせて肩を落とすのであった。




