絡めとる泥濘、執念の反撃
2036年8月9日 午前9時39分
「いいぞ、まだだ。もう少し私を楽しませてくれ」
赤黒い霧が立ち込める《殺戮深紅世界》の中心で、『殺し屋』は愉悦に濁った声を響かせる。彼が虚空の歪みから異形の武器を引き抜いた回数は、既に十回を超えていた。
「うるせェぞ。黙って殺し合い出来ねェのか、テメェは!」
吐き捨てるように叫ぶ《行き止まり》の肌には、いくつかの鋭い擦過傷が刻まれている。かつて最強の破壊権能を持つ『壊し屋』との死闘においてすら、傷一つつかなかった彼の無敵の肌にだ。そこから滴り落ちる少量の鮮血は、現在の戦況がどれほど異常であるかを雄弁に物語っていた。
有体に言って、《行き止まり》は『殺し屋』に遊ばれていた。
「次は、そうだ。あれがいい」
無機質な選定。次に『殺し屋』が虚空から引き抜いたのは、巨大なハルバードだった。振れば斧、突けば槍、引けば鉤爪として機能する、多機能ゆえに扱いが困難な超重量級の武器だ。それを『殺し屋』は羽毛を扱うかのように片手で軽々と振り回すと、勢いよく《行き止まり》に向かって投擲した。
槍の穂先を備えてはいるが、重心が複雑なハルバードの形状は、お世辞にも投擲に適しているとは言い難い。
「ちッ」
《行き止まり》が鋭く舌打ちをする。
先ほどから『殺し屋』は、武器の特性を根底から無視した出鱈目な攻撃を繰り返しているのだ。最初の長剣は、鋭い刃を一切使わず打撃武器として腹の部分で殴り掛かってきた。次の槍は、本来のリーチをかなぐり捨てるように穂先の間近を掴んで短剣のように振るった。
近接武器の利点をあえて全てドブに捨てるような、歪な戦闘スタイル。それでもなお、《行き止まり》は防戦一方に追い込まれていた。自慢の減速領域と停止領域の機能が、純粋な殺意という概念によって「殺され」、無防備な肌を傷つけられるに至っているのである。
「曲芸師かよ!」
猛回転しながら空気を切り裂いて飛んでくるハルバードを、紙一重の跳躍で躱しながら《行き止まり》が毒を吐く。着地と同時に、死神が滑るような滑らかな移動で間合いを詰めてきた。その手には新たな長物が握られている。
振り下ろされたそれを、《行き止まり》は掌に停止領域を集中させ、片手で受け止めた。だが、その瞬間に彼の目が見開かれる。
「はァ!?」
受け止めた獲物をよく見れば、それは矢を番えていない、ただの「弓」だった。
「おっと、間違えた」
『殺し屋』が淡々と告げた直後、その弓に込められた純度の高い殺意が、沸騰するように爆発した。弦すら張られていない木材の塊が、《行き止まり》の停止の防護を貫いて肉を削る。
「く、そがァァ!!」
掌を焼くような激痛。流れる血を庇うようにして、《行き止まり》はその弓を強引に弾き飛ばした。
周囲を包む《殺戮深紅世界》は、『殺し屋』の深淵にある殺意と悪意が結晶化した領域だ。そこでは、世界そのものが相手を血の色――深紅に染め上げようと牙を剥く。
「おや?」
『殺し屋』の意識が、一瞬だけ【吞界融蝕】の境界の外側へと向いた。
そこには、銀色の神獣の咆哮に呼応した多数の臣獣が闊歩しており、この赤い絶望の領域に向かって直進してくるのが見えた。
「狗飼朱音か。彼女の精神領域内では、この世界を展開できなかったからな。果たして、私の殺意は獣を殺戮できるかな?」
先頭の臣獣が境界を跨いだ瞬間だった。
悲鳴を上げる間もなく、臣獣は文字通り「血だるま」となって絶命した。単なる死ではない。肉片の一つに至るまで完全に解体されたその死には、再生も再誕も許されない。
「悪趣味だな」
「ここでは、自分の世界を持たぬ者はああなる」
《行き止まり》の指摘に、『殺し屋』は冷徹に返す。だが、その言葉は同時に、彼自身の抱える致命的な弱点を露呈させていた。
「っつうことはテメェ、この世界を自在に解放できねェんだな? そんなことしたらせっかくの殺意が底尽きちまうからなァ」
『殺し屋』の言葉が真実ならば、彼はこの領域を戦略的に維持することはできない。範囲内の命を瞬時に、かつ徹底的に殺し尽くしてしまうこの世界は、彼の権能のデメリットである「殺意の減退」を加速させる諸刃の剣だからだ。
「あぁ。だから、少し燥いでしまっている。終わらせるのが惜しいと思うほどにね」
「はッ、精々負けたときの言い訳にすんじゃねェぞ! この猟奇殺人鬼がァァ!!」
《行き止まり》が魔力を爆発させ、弾丸のごとき速度で『殺し屋』に肉薄する。
「無駄なことを。君の拳では、私は殺せない」
「零か百かでしか語れねェのか! 異常者がァ!」
《行き止まり》が「停止」の概念を凝縮した拳を繰り出す。通常であれば、これに触れた物質は分子運動すら停止し、生物であれば心停止、血流停止、呼吸不全を引き起こして即座に絶命する。
しかし、『殺し屋』はその停止による結果そのものを、発生の瞬間に殺害するという超常の理で相殺する。停止という概念の殺害。それこそが、彼の刃が《行き止まり》に届き、そして《行き止まり》の拳が彼を捉えきれない唯一の理由であった。
だが、死神の計算に、微かな狂いが生じる。
「何?」
『殺し屋』は、自分でも気づかぬうちに、足元を「何かに」取られていた。
それは、形を変貌させた減速領域だった。《行き止まり》は全域への停止を諦め、そのリソースの全てを『殺し屋』の足元の空間だけに絞り、極限まで時間を引き延ばしていたのだ。
「喰らいやがれッ!」
《行き止まり》が、大きく拳を振りかぶる。
本来であれば、死神によって絶対に回避されるはずの一撃。だが今、この瞬間だけは、脚の自由を奪われた『殺し屋』の肉体に、その拳は届き得る。
インパクトの瞬間、《行き止まり》の肘から魔力がロケットのように噴出された。
それにより、さらに異常な加速を得た一撃が、『殺し屋』の腹部へと深々と突き刺さった。
「ぐぅぅぅうう……っ!」
それでも、『殺し屋』は吹き飛ぶことすら許されない。足元の減速領域が、彼の慣性すらも引き留め、その場に釘付けにする「自然のサンドバッグ」へと変貌させていた。
「もう、一丁ォォ!」
拳を振り抜いた勢いを殺さず、《行き止まり》は地面を蹴った脚を魔力の爆発で強引に上昇させる。
下から突き上げるような、魂を揺さぶる膝蹴りが、『殺し屋』の顎を完璧に捉えた。
それは、上位存在であるプレイヤーの余裕を、人間の泥臭い執念が粉砕した、劇的なる反逆の瞬間であった。




