空白の警備、避けられなかった惨劇と避けられた最悪
2036年8月9日 午前9時37分
「どういうことだ? なぜ警備が出てこない」
混乱の極致に叩き落とされた国際企業フォーラム会場。タクシーで乗り付けた天乃は、爆発音や悲鳴が響き渡る中、もはや機能していないも同然の入り口を通り抜けながら目を疑った。国際的な重鎮が集うはずの場所で、制服を着た警備員の姿が全くと言っていいほど見当たらないのだ。
「どうやら、『殺し屋』の駒による事前の執拗な根回しの結果のようだ」
一足先に会場に到着し、騒乱の推移を冷徹に観察していた『仲介屋』が、背後から音もなく現れた。彼はまるで詰め所の中を直接見てきたかのような、確信に満ちた口調で答える。
「事前の根回しって――」
「既に警備員の詰め所は皆殺し状態だ」
御堂の言葉を遮るように、『仲介屋』は事も無げに、あまりにも凄惨な事実を告げた。
「ジェーンか……」
「あの殺人鬼、やっぱり狂ってるわね」
天乃の苦渋に満ちた呟きに、御堂が吐き捨てるような言葉を重ねる。それは、その場にいる全員の、言いようのない嫌悪感を代弁していた。
「やぁ、君たち。今到着かい?」
逃げ惑う関係者や招待客が逆流してくる会場入り口から、その流れに逆らうように優雅に歩み寄る影があった。漆黒のドレスに身を包んだ少女、《生き留まり》である。
「私はちょうどさっきまで、狗飼のお嬢さんを留めおいていたところだ。もう役割は済んだから、弟くんの戦いが終わるまでは避難させてもらうよ? 構わないかね、『仲介屋』?」
「あぁ、協力に感謝する」
「別に構わないさ。弟くんもなんだかんだ君と天乃くんには素直に従っている。だったら、私はそれに付き添うまでさ」
妖艶に微笑む《生き留まり》の内心を推し量ることは、誰にもできない。水無月や英莉と同様、年齢と外見が乖離している彼女だが、その中でも「見た目」と「中身」のギャップが最も底知れないのが彼女だった。
「そうそう。先にパーティーを始めたのはこちらだけど、弟くんには咎が行かないように調整しておいてくれよ?」
だが、その一言には、身内への絶対的な庇護欲が滲んでいた。少なくとも彼女は、《行き止まり》にとっては唯一無二の無条件の味方であった。
「それじゃあ、後程また会おう、諸君」
《生き留まり》は貴婦人のように優雅に一礼すると、硝煙の立ち込める会場を背に、ゆっくりとその場を立ち去っていった。
「あの人はあの人で、本当によくわからないんだよなぁ……」
天乃のこぼした素直な感想に、水無月と御堂が深く、無言で頷いた。
「だが、《生き留まり》の調整のおかげで、現状は最悪の事態――無関係な一般客の大量虐殺――には至っていない」
『仲介屋』が状況を整理するように声を鋭くする。
「現在、『殺し屋』と《行き止まり》が交戦を開始した。同時に、『殺し屋』の駒は『護り屋』の駒が抑えている。……つまり、今の狗飼朱音は野放しだ」
「私たちは朱音さんを止めればいいの?」
御堂の問いに、『仲介屋』は小さく首を横に振った。
「いや、従前と違い、狗飼朱音の目的は『殺し屋』の幇助ではない。ただ関連企業の株価を暴落させるために暴れる、という段階にまで落ちた。であれば、狗飼朱音が『殺し屋』を排除対象として動く可能性も十分に挙げられる。つまり、その場合のオマエ達の立ち位置は、狗飼朱音の『協力者』だ」
「アタシ達は朱音に協力して、『殺し屋』陣営を叩く。それでいいのね?」
水無月が確認するように問うと、『仲介屋』は短く頷いた。
「ただし、『金融屋』がゲームを降りたという情報は気になるところだ。殺し屋以外の陣営がこれを受けてどう動くか……オレはそれを探りに行く」
「残った対立陣営は、『技術屋』くらいか?」
「『宗教屋』もセミリタイアしている以上、『仕切屋』を除けば奴と『支配者』くらいだ」
「『支配者』――そういえば辰上理皇がいたか。アイツはどうして今までオレたちに干渉して来ないんだ?」
「さぁな、奴の考えなどオレに理解できるものか」
『仲介屋』は吐き捨てるように言い放った。その言葉には、『支配者』に対する理解の拒絶と、明確な嫌悪が混じっていた。
「珍しいな。オマエがそこまで嫌悪の感情を出すなんて」
「別に、大したことはない」
天乃の鋭い直観から逃げるように目線を逸らした『仲介屋』は、人々が雪崩を打って逃げ出してくる会場内へと顔を向ける。
「では、狗飼朱音と合流し、適宜最善を尽くせ。オレは一旦情報収集のため、上位世界へ行く」
「あぁ、行くぞ。彩芽、水無月」
「うん」
「わかった」
天乃の呼びかけに二人が応える。
一行は、銀色の神獣が吠え、死神が権能を振るう、フォーラム会場へと足を踏み入れた。




