再編される残滓、其は憎悪を集める鋼の躯体
2036年8月9日 午前9時38分
「拙い、拙い、拙いッ!」
ジェーンは、背後で『殺し屋』が解き放った【呑界融蝕】の余波から逃れるように、全速力でその場を離脱する。
間森が短機関銃で正確な追撃を加えるが、今のジェーンにとって背後から迫る銃弾の雨など、背後で世界を侵食し続ける《殺戮深紅世界》の恐怖に比べれば、微々たる脅威に過ぎなかった。先ほどまで浮かべていた不敵な余裕は霧散し、その横顔にあるのは生存への本能的な執着と必死の逃走のみである。
「《機械操作》。あまり奴を自由にさせるな」
「わかってるっすけどー、あいつ金属を切断するんっすよねー」
藤咲夏南は、会場の警備用に配備されていた重量級パワードスーツ数体を《機械操作》で強引に「拝借」し、ジェーンに向けて怒涛の波状攻撃を仕掛けていた。
しかし、ジェーンの立ち回りは極めて厄介だった。遠距離からの射撃に対しては、肉眼で弾道を捉えているかのような独特の歩法で偏差射撃を紙一重で躱し、パワードスーツが肉薄すれば、その分厚い装甲を嘲笑うかのようにナイフを一閃させる。装甲板ではなく、関節の隙間や動力パイプ、駆動系だけを精密に断ち切るその手法により、鋼鉄の巨体は次々と物言わぬ残骸へと変えられていった。
「しかも今はこっちを完全に無視して逃走し始めましたしー」
「仕方がない。詠唱に入れ。俺が奴の動きを止める」
「あいあいさー」
藤咲が不敵な笑みを浮かべ、魔力を練り上げながら詠唱を開始する。
「“それは我が記憶に眠りしかつての栄光の軌跡”」
その気配を鋭敏に察知したジェーンもまた、逃走の速度を緩めることなく、対抗手段としての詠唱を紡ぎ出した。
――「“私は誰でもないから、私以外の何物にでもなれる”」
間森は短機関銃を掃射し、弾幕でジェーンの進路を限定しながら距離を詰める。
「“記憶から呼び覚まされるのは、数多の軍勢束ねる一つの指標”」
――「“それが黙して語らぬ亡者であれど”」
混迷を極める戦場に、二つの異質な言霊が重なり合い、空間が歪み始める。
「“其は戦場にありて憎悪を集める機構となる”」
――「“我が武器に宿る亡者の経験すら、我が糧となる”」
間森は執拗な射撃で牽制を続け、ついに先行するジェーンの背中を射程内に捉えた。
「“其は一体の鋼の躯体”」
――「“我は一振りの刃”」
肉薄した間森の至近距離からの銃撃の嵐。ジェーンはそれを身をよじるようにして躱し、ナイフの腹で弾丸をいなす。その表情から余裕は消え失せていたが、同時に獲物を引き裂こうとする獣のような剣呑な笑みが浮かんでいた。
「“没入開始――《偽案山子》”」
――「“没入開始(Dive In)――《刃刃一対》”」
二つの没入魔術が、ほぼ同時に完成を見た。
その瞬間、ジェーンの手にあったナイフが消失し、代わりに彼女の全身を完全に覆い隠すほどの巨大な盾が握られていた。間森が叩き込んだ銃弾の雨は、その重厚な盾に弾き飛ばされ、ジェーンの肌に届くことはない。
「《機械操作》!」
「わかってるんで怒鳴らないでくださいよー」
間森の怒号に、藤咲の気の抜けたような声が応答する。
《案山子》――それはかつて藤咲夏南が、その身に宿していた忌まわしき魔術である。特定の条件下で対象の記憶を操作し、自身と対象の魔術を一時的に交換する凶悪な魔術であった。そのオリジナルの術式は、折木撥天の死と共に失われたはずだったが、藤咲の内部世界には、その情報の残滓が深く刻まれていたのである。
それが具現化した再調整版こそが、この《偽案山子》である。
「間森さん、とりあえず、ちょっとだけ機能不全にできましたー」
「よし、そのまま術式を強奪しろ」
「無茶言わないでくださいー。今は《機械操作》だけで手一杯ですよー」
藤咲の悲鳴に近い抗議が飛ぶ。事実、彼女は、《機械操作》の本来の術者からその魔術を《偽案山子》で奪っていたのである。
一方、ジェーンは拭いきれない違和感に苛まれていた。
《刃刃一対》は、ジェーンがこれまでに触れたことのある「武器」と、その使い手の「武技」を完璧に再現する術式である。しかし、先ほどから肝心なところで再現が覚束ない。
いつもなら確実に仕留められているはずの一撃が、微妙なテンポのズレによって間森に躱される。武器の換装も、まるで砂を噛んでいるかのように重く、切り替えのラグが致命的な隙を生んでいた。
それはコンマ数秒の違いに過ぎない。しかし、自らの才覚ではなく、他者の「完成された技能」を借りることで強さを担保してきたジェーンにとって、その微細なズレは致命傷に等しかった。
ジェーンは、師である『殺し屋』のような武技の天才ではない。ただ殺人の願望だけが異常に肥大化した、凡庸な殺人鬼に過ぎない。だからこそ、彼女はその欠落を他人の武器と武技で埋めてきたのだ。その渇望の果てに得た《刃刃一対》が機能不全に陥ることは、彼女の「強さ」そのものが崩壊することを意味していた。
間森は、明らかに動きの鈍ったジェーンの懐に飛び込むと、大盾を構える彼女の腕を掴み、柔術の要領で地面に叩きつけようと投げを打つ。
ジェーンは咄嗟に大盾を霧散させ、ナイフを生成して間森の腕から滑り出すように逃れると、上空へ跳躍することで投げを完全に回避した。
そこで彼女が呼び出したのは、『殺し屋』のナイフだった。
そのナイフを手にした瞬間、ジェーンの動きから一切の機能不全が消える。師の動きをなぞるその一閃は、《偽案山子》の影響など微塵も感じさせないほどの鋭さを保っていた。
着地し、再び対峙する間森とジェーン。
「《機械操作》。今日は例のパワードスーツはないのか?」
「もー。あれは間森さんに言われて爆破したんでしょー?」
「あれから一月は経過しているはずだが?」
「いやー、装備品はケチるもんじゃないっすねー」
「つまり、ないんだな?」
「はい、ありません!」
「よろしい、後で説教だ」
間森が短機関銃を構え直す。ジェーンは再び大盾を展開し、空いた手にはナイフを逆手に握る。『殺し屋』の武技を再現し、いつでも間森を細切れにする準備は整っていた。
「あ、でもほら、爆撃ドローンならあーりまーすよー」
藤咲がそう告げた瞬間、いつの間にかジェーンの直上に展開していたドローンから、複数の黒い塊が投下された。
ジェーンの意識が、一瞬だけ上空の脅威へと逸れる。
その刹那、間森は懐から手榴弾を取り出すと、ピンを抜き、ジェーンの足元へ叩きつけるように投げつけた。
カンッ、という硬質な衝突音が鳴り、直後に爆発が吹き荒れる。
ジェーンは咄嗟に盾の裏に身を隠し、爆風と破片を凌ぐ防御態勢を取った。だが、その頭上から降り注ぐドローンの「荷物」までは対応しきれない。
ドローンから落とされた荷物が盾のすぐ側で地面に激突し、凄まじい衝撃と共に爆発した。爆風と鋭利な生成破片が、盾の死角から無防備なジェーンへと殺到する。
しかし。
ナイフの煌めきが空を切り裂くような一閃を描くと、迫りくる爆風は物理的に「切断」され、破片はまるでジェーンを避けるように四方へと飛び散った。『殺し屋』の武技を再現したジェーンは無傷である。
「なぁ、《機械操作》。どうにもあのナイフだけは、機能不全に陥っていないようだが?」
「どーなんでしょ。もしかしたら機能不全状態で『あの性能』なのかもしれませんよー」
「ぞっとする話だ」
間森と藤咲が軽口を叩き合う中、ガタンという音を立ててジェーンの構えていた大盾が限界を迎え、霧散して消える。
盾を失い、煤けた顔を上げた殺人鬼の瞳には、依然として二人の「獲物」が冷酷に映り続けていた。




