乱立する小世界に呑まれる会場
2036年8月9日 午前9時35分
時の牢獄から解放された狗飼は、突如として五感を襲った周囲の喧騒に、激しい困惑を隠せずにいた。彼女の主観では、漆黒のドレスの少女に裾を掴まれた瞬間から、わずか一瞬で世界が激変していたのだ。
「混乱したかい? ちょうど今、私の自慢の弟くんが『殺し屋』相手にこの喧騒を引き起こしたところだよ」
狗飼の耳に、鈴を転がすような涼やかな少女の声が響く。
「君は今こそ、存分にその怪物性を発揮してくれ給え。その名目は、『殺し屋』を発端とした喧噪を止めるため……だってことにでもしてしまえ。そうすれば、社会的に死ぬこともない。むしろ、原型術師の立場からすると、称賛されるのではないかな?」
そう言って、悪戯っぽく可憐なウインクを飛ばす《生き留まり》に、狗飼はさらに目を白黒させる。
「えっと、あなたは……誰?」
「親切なお姉さんということにでもしておいてくれ給え」
それだけを言い残し、《生き留まり》は漆黒のドレスを夜の帳のように優雅にたなびかせ、混乱の極致にある会場を悠然と後にした。
「天空」
「お嬢様、チャンスは今しかありません。《契約》の履行を」
忠実な従者の言葉に、狗飼は深く頷く。一フロア離れたところでは、《行き止まり》たちが重力さえ歪めるような大立ち回りの大乱闘を繰り広げている。
「わたくしたちは会場で暴れる。可能であれば相場操縦を行う。……だったら、今が暴れ時。そうだね?」
「はい」
白くて細い天空の手を、壊れ物を扱うように、しかし固く握りしめた狗飼は、魔力の奔流と共に詠唱を開始する。
「“――世界を統べる十三人の豪傑よ”」
「“我が声を聞き届け給え――”」
「“我は無限の魔獣を従える者”」
「“我は捧げられる者”」
「“我は諦観を知らぬ者”」
「“我は『金融』の遣いなり”」
「“ならば、その溢れる財を以て超克せよ”」
「“完全没入改――《充溢臣獣魔界》”」
詠唱の完了と共に、狗飼は天空をその身に取り込み、白銀に輝く狼型の神獣の姿へと昇華した。その巨躯の足元からは、あらゆる命の源流たる「原初の海」が急速に広がっていく。
その蒼白の海面からは、怪異をベースとした異形の臣獣たちが次々と産み落とされ、主の命を待たずして一斉に戦場へと駆け出した。すべては、母たる主の目的を果たすために。
2036年8月9日 午前9時35分
会場の中央では『殺し屋』と《行き止まり》が激突していた。
「チィィ、概念を壊したり殺したり……プレイヤーっつうのは、どいつもこいつもこんな奴らばっかりかよ!」
「君こそ、私のような者との戦闘経験があるのか。上手く殺しきれないのは、実に遺憾だよ」
互いに致命的な決定打を相殺し合い、死の線上を渡り歩くその光景は、かつての対『壊し屋』戦を彷彿とさせた。だが、決定的に違うのは《行き止まり》側の立ち回りである。
彼は『壊し屋』との死闘を経て、「自身の停止を無効化してくる理不尽」との戦い方を骨の髄まで学習していた。停止が効かないことを前提とし、その上で出鱈目な出力を誇る魔力の放出と、肉体の限界を超えた身体強化でねじ伏せる戦術。それが、あの『殺し屋』相手に戦況をわずかに優位へと運んでいた。
「っつっても、これじゃあ埒が明かねぇな」
「互いにな」
二人が言葉を交わした瞬間、会場の空気が一変した。
禍々しくも神聖な気配が会場を包み込み、原初の海から創生された臣獣の軍勢が侵攻を開始したのだ。
「なんだ、ありゃあ」
「初見かね? 神話における創生神を具現化したような、狗飼朱音の魔術だよ」
「っつうことは姉貴の仕業か! 面倒なタイミングで余計なギミック発生させやがって!」
《行き止まり》の脳内には、今ごろ安全圏で愉しげに笑っているであろう姉の姿が容易に再生された。
「とはいえ、今更嘆いても仕方ねェよなァ。――“原初に抱いた我が情景は、世の理を侵す思想――”」
《行き止まり》の口から、重厚な詠唱が紡ぎ出される。
「“汝らよ、どうか我が眼前を駆け抜けて欲しい”」
本来ならば、界構築の詠唱中に妨害を仕掛けるのは戦闘のセオリーだ。
「“汝らの疾走を阻むことこそが我が唯一の渇望であるが故に”」
しかし、『殺し屋』は妨害する素振りすら見せない。
「“停止した世界こそ最も穏やかで安らげる居場所となるのだから”」
むしろ、彼は詠唱が完成するのを、慈しむように待っている。
「“終焉の幕はもう下りない”」
その態度に得体の知れない不気味さを覚えつつも、《行き止まり》がここで踏みとどまる理由はない。
「“此処が終点”」
『殺し屋』の目が、嗜虐的な光を帯びて細められる。
「“嵌合成立――《終点静止世界》”」
「――《殺戮深紅世界》」
《行き止まり》の詠唱完了と同時に、『殺し屋』もまた、自らの内面世界を解放した。二つの界が衝突し、互いを侵食し合う現象【呑界融蝕】が会場を飲み込む。
「人の詠唱が完成するまで突っ立ってるたァ、余裕だな」
「あぁ、正直、悩んでいた」
「悩む?」
「相手が界構築する以上、私もそれに倣うしかない。だが、私の世界は凶悪でな。私自身、制御できているとは言い難い。故に、どうすべきかとな」
「制御できてないだと?」
《行き止まり》はその言葉を笑い飛ばすことができなかった。
界構築とは、術者の精神世界の具現化。それを「制御できていない」ということは、すなわち、理性の檻でかろうじて繋ぎ止めている「獣」が内側にいるということだ。
『殺し屋』は極めて禁欲的な殺人鬼だと『仲介屋』から聞いている。もし、その禁欲の反動がこの内部世界に凝縮されているのだとすれば、今の言葉は戦慄すべき警告となる。
「とはいえ、相手が界構築した以上、仕方ない。あぁ、これは……『仕方がないこと』なんだ」
『殺し屋』の声には、隠しきれない愉悦が潜んでいた。
(こいつ、内心では早くこれを解放したがってたってことかよッ!)
だからこそ、彼は妨害しなかった。相手が先に界を広げてくれれば、「対抗するために自分も出さざるを得ない」という絶好の言い訳が成立するからだ。
(何が禁欲的だ。欲望丸出しじゃねェか!)
《行き止まり》は内心で毒づく。
「では、久々に殺戮を開始するとしようか」
『殺し屋』はそう述べると、愛用のナイフを無造作に懐へ仕舞った。そして、何もない虚空から、一振りの長剣を引き抜く。
「まずは小手調べだ。頼むから、まだ死んでくれるなよ?」
死神の口元が、狂気を感じさせるほど鮮やかな弧を描いた。




