《契約》という名の呪いの鎖
2036年8月9日 午前8時57分
狗飼邸の頭上に現れた、あの美しくも禍々しい銀色の神獣は、周囲に溢れ出していた臣獣たちを自らの胎内へと吸い込むようにして、静かにその輪郭を霧散させていった。
立ち込める濃密な魔気の霧が晴れた後に残されたのは、狗飼と天乃、そして天空の三人だけだった。
「朱音……」
水無月の震える声が、半壊した狗飼邸の庭園に寂しく響く。
こみ上げる感情のままに一歩踏み出そうとした水無月だったが、その行く手を遮るように『仲介屋』が強引に割り込み、彼女の肩を押し留めた。
「ちょっと、何よ!」
むっとした表情で鋭い目線を向ける水無月を完全に無視し、『仲介屋』は冷徹な眼差しで、立ち尽くす少女を見据えた。
「どうやら、まだ続けるつもりらしいな、狗飼朱音」
「ふぇ……?」
水無月の口から、間の抜けたような困惑の声が零れる。その疑問に応えるように、狗飼が凛とした、しかしどこか憑き物が落ちたような晴れやかな声で告げた。
「そうだね。わたくしの目的もまだ達成してないし、まだ諦めるわけにはいかないよね」
断固とした狗飼の声。それを聞いた瞬間、水無月の胸中で燻っていた怒りと心配は一気に臨界点を超えた。
「諦めるわけにはいかないですって!? ふざけるな! そんなことのためにアタシはここに来たんじゃない! 何考えてんのよ!」
「まぁまぁ、落ち着きなよ、ふぅちゃん」
狗飼は、激昂する水無月とは対照的に、不気味なほど落ち着き払っている。
奇妙なことに、あれほど彼女を止めようとしていた天乃も、最も近くで彼女を見守っていた天空も、今は何も言わずに沈黙を守っている。
「逆に、なんでそんなにアンタは落ち着いてんのよ! 天乃! 天空! アンタらも何か言ったらどうなの!?」
必死の訴えに、まず天空が静かに膝をつき、水無月へ一礼した。
「水無月様、申し訳ございません。誠に勝手ながら、この天空、これよりお嬢様の爪牙へと復帰いたします」
「すまん、水無月。そういうことになった」
天乃もまた、どこか遠くを見つめるような目で、だがその瞳に確固たる意志を込めて頷く。
「なっ、んで、そうなるのよ……」
それは、水無月にとってあまりにも理解不能な、そして裏切りにも似た絶望的な返答であった。
「オレが説明しておく。狗飼さんは先に」
「そう? 悪いね、あーくん。ふぅちゃんのこと任せたよ」
「ちょっと! まだ話は終わってない!」
足早にその場を立ち去ろうとする狗飼と天空に対し、水無月が食って掛かろうとするが、天乃がその肩を優しく、しかし抗えぬ力で制した。
「水無月、説明する。だから、落ち着いてくれ」
「天乃……ちゃんと納得できる説明はあるんでしょうね?」
怒りに瞳を潤ませながら睨みつける水無月に、天乃は静かに頷く。狗飼と天空は、その背中に全幅の信頼を預けるようにして、一度も振り返ることなく狗飼邸を去っていった。
「結論から言うと、狗飼さんは『金融屋』の駒として、企業フォーラムへの襲撃を決行することになった」
「は?」
水無月の思考が、そのあまりにも矛盾した言葉を前にして、完全に停止した。
「どういうこと、慎? 私達、それを止めに来たんじゃないの?」
御堂もまた、信じられないものを見るような困惑の声を出す。
「状況が変わった。『金融屋』は目的達成を不可能と判断し、このゲームを降りた」
「『金融屋』がゲームを降りた? なるほど、だからか」
『仲介屋』の呟きに、水無月と御堂の理解が追い付かない。
「どういうこと? 『金融屋』がゲームを降りたのに、どうして朱音が企業フォーラムの襲撃を決行するの?」
「『金融屋』との契約を履行するためだ」
天乃の言葉に、水無月はさらなる疑問符を頭に浮かべる。
「え? 『金融屋』はゲームを降りたのよね?」
「そうだ。そして、その際に爆弾を置いていった。それこそ、《魔術師間協働契約》による縛りだ」
《魔術師間協働契約》――それは互いの行動を自らの魔力をもって縛りあうという絶対的な魔術である。契約内容の不履行は、循環する自らの魔力が暴走し、術者自身を内側から破壊することとなる。
「要は、狗飼朱音は『金融屋』に道連れにされたんだろう」
『仲介屋』の言葉に、天乃は重々しく頷く。
「『金融屋』は自身の総資産の三割という法外な報酬を要求した狗飼さんに、《契約》の履行――つまり、フォーラムの襲撃を迫った」
「『金融屋』は特殊な奴でな。駒との間に《契約》を用いる。その《契約》に基づき、駒に金銭という対価をもとに労働という役務を提供させる。つまり、『金融屋』が対価を支払う以上、狗飼朱音は役務の提供を避けられない。これを拒んだ場合、駒は死亡する」
「何よ、それ。ゲームを降りたのに仕事だけはさせるって。ただの嫌がらせじゃない!」
「そうだ。これで狗飼さんは社会的立場を失う。ゲームを降りる『金融屋』にできるのは、最後に指せる、そういう最悪な嫌がらせだけだったんだろう」
「ちょっと! まさかとは思うけど、これで終わらせるつもりじゃないわよね!?」
水無月が縋るように天乃の胸ぐらを掴む。天乃はその手を優しく握り返し、前を見据えた。
「一応、《行き止まり》と《生き留まり》には現場で待機してもらっている。オレ達もこれから向かえば、狗飼さんの襲撃までには間に合うだろう」
天乃が状況を再確認するように補足する。
「もちろん、やるよな、『仲介屋』」
「――乗り掛かった舟だ。どのみち、やることは変わらん。狗飼朱音を止めるという方針に変更はなしだ」
今度こそ、狗飼を縛る呪いそのものを止めるために。




