「感情」という名の不合理な負債
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「逃がしたか」
天乃が冷静に呟く。死神が去った後の精神世界には、嵐の後のような静寂が戻っていた。天乃は視線を、隣に立つ少女へと向ける。
「それで? これからどうするんだ? 狗飼さん」
「どうしよっかなぁ」
天乃の言葉に、狗飼が笑顔を浮かべながら返答する。その表情からは真意が読み取れない。身の危険こそ感じないものの、だからといってこの騒動が丸く収まるのかは、未知数と言わざるを得なかった。
「なぁんちゃって。――『殺し屋』さんとの関係が切れた以上、これ以上暴れる理由がないんだよねぇ」
狗飼が肩を竦めてそう述べた、その瞬間。彼女の内面世界に、低く冷徹な声が響き渡った。
「それは困る」
それは、彼女の「指し手」である『金融屋』の声だった。
「企業フォーラムにおける『殺し屋』の標的に関連する会社株を、私は既に空売りしている。株価が暴落してくれんと、困ったことになる」
「それってある種インサイダーだよね」
「プレイヤーには下界の法など関係ない」
「でも、『殺し屋』さんには同盟解消を言い渡されたよ?」
「だからといって、このまま放置すればフォーラムの成功と共に株価は上昇し、私に多大な損害が出る」
「じゃあ、このまま予定どおり?」
「せっかく覚醒したんだ。標的はフォーラム会場全体と行こうではないか」
上位世界からの身勝手な指示。狗飼は呆れたように息を吐き、隣の天乃に視線を送った。
「はぁ、だってさ、あーくん」
「どうするんだ?」
狗飼は少し考える素振りを見せると、再度、虚空に響く『金融屋』の声に問いかける。
「――その前に、聞きたいんですけど。わたくしに何かしました?」
「多少、アーティファクトで思考を誘導した程度だ。結果、君は更なる覚醒に至ったわけだが、何か問題があるのかね?」
「あっは、確かに。『殺し屋』さんが言った通りだ。悪いとも思ってないんだ」
狗飼の笑顔が、わずかに深まった。それは、彼女の中で何らかの天秤が、音を立てて傾いた合図だった。
「では、『金融屋』さん。わたくしは今回の働きに対して、報酬を頂きたいです。金額は、総資産の三割でいいですよ?」
「……私の現在の総資産の金額を知っているのかね?」
「そうですね。大体、百億円ってところでしょ? 報酬として三割貰ってあげるから、用意しといて。最初に言ったよね? お金は貰ってあげるって」
冷徹な宣告。
『金融屋』の声に、初めて戸惑いのような沈黙が混ざる。
「私相手に、そこまでの金額を要求した駒は存在しない」
「じゃあ、最初の駒になるわけだ。言い値にしたのが悪いよね?」
結局、狗飼は駒として稼働するための対価を、当初から明確に決めていなかった。彼女の目的は、単に「プレイヤーの駒になること」自体にあったからだ。『金融屋』もまた、金銭に執着を見せない狗飼の態度に甘え、契約の細部を保留したままにしていた。
それが今、巨大な牙となって自身の喉元に突き刺さっている。
「それで? 払えるの? 払えないの?」
「君は、私の達成目的を知っているはずだ」
「うん、知ってるね」
「だとすれば、その要求がどのような影響を生むかも知っているだろう?」
それは単なる損失ではなく、『金融屋』がこのゲームで積み上げてきた「攻略プラン」そのものを根底から崩しかねない痛手だ。
『金融屋』の達成目的は資産の形成。最終目標は総資産が日本円にして約二百億円を超えること。彼はこれまで駒である傭兵を用いて強盗で稼ぎ、その汚れた資金を元手に紛争地へ駒を介入させる。そして、株式相場を自在に操縦しながら、着々と数字を積み上げてきたのである。その三割を失うことは、ゴールを目前にして数年の歳月をドブに捨てるに等しい。
「勿論、理解してるよ」
「ならば――」
「それは貴方の都合だよね? わたくしには関係ないんじゃない?」
狗飼の言葉は、氷のように冷たかった。
「関係ないはずはないだろう。君は私の駒なのだから」
「だから、払えないって?」
「払わないと言っているわけではない。金額の再考を要求する」
「うん、無理」
狗飼は笑顔で即答する。
「これでも譲歩してるの。わたくし、少し怒ってるからね。――これは、慰謝料も込みの金額だよ」
「待て待て。どういう意味だ」
「確かに、わたくしは貴方の駒だけど、同時に貴方とは取引関係でもある。わたくしが傭兵で、貴方がクライアント。だったら、単なる上下関係じゃない。超えちゃいけない一線くらいあるのはわかるでしょ? それを貴方は超えた。――それを『お金で済ませてあげる』って言ってるの。優しいと思わない?」
狗飼朱音は、本日最高の笑顔で言い放った。
「金融」を司るプレイヤーに対し、彼女は「感情」という名の最も不合理な負債を叩きつけたのである。




