二人の希望狂い、諦観を知らぬ魔人達
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『殺し屋』は、呼吸を整えることすらなく、慎重に天空との距離を測る。じりじりと、獲物の喉笛を確実に捉えるための間合いを詰める死神。対して、白銀の毛並みの天空が、迎撃のために動く。
刹那、一閃。
天空の動きを誘い出すように、『殺し屋』の指先から放たれたナイフが、後方の狗飼へと飛来した。
「ナイフは軌道を逸らす――《果因鋳造》」
天乃の言霊と共に、ナイフが磁石に弾かれたような不自然な軌道を描き、狗飼の横を空虚に通り過ぎる。
だが、それは本命ではない。『殺し屋』は着弾を確認することすらなく、即座に別のナイフをコートの奥から引き抜き、眼前で体勢を崩した天空に切りかかった。
一合、二合。
精神世界の静寂を切り裂くように、爪とナイフの火花が散り、激しい応酬が繰り広げられる。先ほどの、不可視にして理不尽な一撃は来ない。
(やはり、術者は天乃慎だ。ナイフを逸らすことと同時に、自身の攻撃を通すことはできないようだな)
『殺し屋』は冷徹な分析に基づき、ナイフで天空の苛烈な爪をいなしながら、最小限の予備動作でその身体を何度も切りつけた。傷は精神世界によることの再生能力によってすぐに塞がるが、斬撃の衝撃と痛覚の蓄積は、瞬間的に天空の動きを確実に鈍らせる。
それを見逃す死神ではない。鈍った刹那を突き、再びナイフが天空を深く抉る。
天空の傷が増えていく。回復の速度を上回る密度で、『殺し屋』の連撃が叩き込まれる。天空も決してやられるがままに切り裂かれていたわけではない。反撃、防御、回避――持てる技術のすべてを試してなお、文字通り「押されている」のだ。
圧倒的なまでの殺人の経験値。その絶対的なアドバンテージを前に、天空は瓦解しかけていた。
見かねた天乃が、再び魔術を起動しようと唇を動かす。
「『殺し屋』に爪の一撃を――《果因鋳――」
だが、そこまで口にした瞬間、天乃は脊髄反射で魔術の行使を破棄した。
直観が告げた破滅を回避するため、異なる結果を強引に引き寄せる。
「ナイフは軌道を逸らす――《果因鋳造》!」
狗飼を狙って放たれた新たなナイフが、衝突音さえ立てずに軌道を変える。
「ほぉ、やるものだ」
天乃が攻撃の魔術を発動させようとした、そのわずかな思考の隙。
『殺し屋』はコートの袖から、目線を向けることなくナイフを狗飼に向かって投擲していたのだ。
その間にも、天空への連撃は止まらない。
初めは小さな傷をつけるだけだった死神のナイフは、今や迷いなく動脈と神経を断つ割合を高めている。そのたびに鮮烈な血飛沫が舞うが、それすらも逆再生するように天空の肉体へと戻っていく。
『殺し屋』の目が、感情を排した機械のように無機質に光った。
次の瞬間、重い音を立てて天空の左腕が切断された。
即座に腕が繋がりはしたものの、そこからはもはや一方的な蹂躙が始まった。
「天空!」
四肢を次々に切断され、紅の飛沫を上げる天空を見た狗飼の、悲痛な叫びが精神世界を震わせる。
その声に応じるかのように、主君の慟哭に呼応した臣獣たちが、憤怒のままに『殺し屋』へと襲い掛かった。
『殺し屋』は煩わしげに臣獣を蹴散らすが、そこにわずかな隙ができる。
四肢の再生を終えた天空が、決死の跳躍で『殺し屋』の展開する殺人領域から脱出することに成功する。
「……っ。ご心配をお掛けしました」
荒い呼吸と共に天空が膝をつく。
「ねぇ、あーくん。どうすればいいと思う?」
圧倒的な地の利。
『殺し屋』自身が課した枷。
殺意の減退という致命的なデメリット。
それらのプラス要素がすべて重なってなお、戦況を完全に支配し続けるこの男は、もはや不世出の怪物と言うほかあるまい。天乃というイレギュラーの力をもってしても、攻撃に転じるための「一撃」の隙すら作らせてもらえないのだ。
天乃が攻撃に転じる可能性すら、『殺し屋』は完全に、予測と技術で封じている。
詰んでいる。
それが、冷徹な観測者としての天乃が出した結論だった。
だからこそ――
「まだだ!」
諦観という言葉を知らぬ魔人が、その魔法の言葉を口にする。
「ここは君の世界、そうだろう?」
「そうだね。この程度、諦めるには早すぎるよね」
もう一人の希望狂い、狗飼朱音もまた、不敵な笑みを浮かべてそれに同調した。
その刹那、『殺し屋』は己の失策を悟った。
単純に、天乃らを追い詰めすぎたのだ。――追いつめられた極限、反動としての「覚醒」が来る。
「ここはわたくしの世界――何を自由に振る舞ってるの?」
「『殺し屋』に世界による拘束を――《果因鋳造》!」
狗飼と天乃の言霊が重なり、一つの事象として結実する。
次の瞬間、『殺し屋』の身体が石化したように硬直した。呼吸一つままならず、自由に動くのは目線だけ。
何が起こったのか。その理屈は不明。
だが、理不尽の権化である『覚醒者』が二人掛かりで行使した力だ。通常の魔術的な拘束とは、次元が違っていた。
(引き際だ!)
『殺し屋』はこの瞬間、迷いなく撤退を決意した。
プライドなどは投げ捨てて、なりふり構わず逃げに徹することにしたのである。
彼はその鋭い視線で、自分を縛る「対象」を殺しにかかる。そこにあったのは、世界の軋轢そのもの。それをわずかに目で殺した『殺し屋』は、指先が自由に動くことにようやく気が付いた。
即座に、ナイフを取り出し、狗飼の内面世界から上位世界へと繋がる通行口を無理やり開ける。
『殺し屋』はそこへ跳び込もうと、強引に身体を突き動かす。
「あら? お帰りですか?」
「逃がすと思うか?」
二人の希望狂いが、逃走を図る死神を追い詰める。
『殺し屋』は遮二無二、残されたナイフを狂ったように振るった。
身体を拘束していた不可視の「何か」が、殺害され、断ち切られていく。ようやく身体が自由を取り戻す。
だが、眼前のゲート――上位世界への通行口は、何らかの概念的な障壁が塞いでいた。
『殺し屋』はその「何か」の正体を知らぬまま、ただ執拗に、絶望的に殺し尽くした。
そこに生命があるかは関係ない。そこにある「現象」であれば、『殺し屋』はどのようなものであれ殺し尽くし、消し去ることができる。
天乃が更なる理不尽な「結果」を講じる。その寸前、『殺し屋』は、辛くも上位世界への脱出に成功した。
それは他者から見れば惨めな敗走であったが、あの極限の状況から生還したこと、それこそが『殺し屋』にとっては、間違いなく一つの「勝利」であった。




