蹂躙される聖域に介入する楔
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銀光が尾を引く精神世界の空で、『殺し屋』の振るうナイフが残酷な煌きを放つ。
天空はその爪を鋭く閃かせ、火花を散らしながら死神の凶刃を受け流していた。
《天空召喚――人魔狼形態》。
今の天空の姿は、月下に狂い咲く白銀の人狼そのものである。足場や空間の密度すら狗飼の自由になるはずの精神世界。本来ならば圧倒的な地の利があるはずのこの場所で、戦況は完全に『殺し屋』側に傾いていた。
まず、『殺し屋』を捕縛すること自体が不可能だった。狗飼は必死に『殺し屋』の機先を読み、彼を拘束しようと地面を隆起させ、空間を歪めている。だが、そのすべてが通用しない。
広範囲を覆い尽くす飽和攻撃を仕掛けても、『殺し屋』は手にしたナイフ一本で、それこそ概念ごとすべてを薙ぎ払ってしまう。ならばと天空を突撃させても、柳に風とばかりにあっさりあしらわれ、本命の攻撃を通す隙すら与えられない。
その無駄のない立ち回りは、殺戮でありながら芸術的ですらあった。狗飼たちはこの完全有利な世界において、たった一撃掠らせることすら叶わないでいる。
一方で、『殺し屋』はすれ違いざまの刹那、的確に天空の身体を削り取っていた。
この空間は狗飼の内部世界であり、天空はその一部であるから、即座に傷は塞がる。だが、死神の刻む「死」が、再生を上回る冷徹さで積み重なっていく異様な光景は、主従にとって受け入れがたい恐怖であった。
「天空、どう?」
「お嬢様、これは異常です。こちらの攻撃が掠る気配もありません」
「純度が低い」
戸惑う主従の声に、『殺し屋』が反応する。
一切の予備動作なく空間を滑り、死神が囁いた。
「まったく以て殺意が足りない。これでは蚊も殺せまい。もっと殺意を振りまき給え」
「嘘だね。だって殺意の察知なんて得意そうじゃん?」
「それはまぁ、そのとおりなのだが」
狗飼の指摘に、『殺し屋』は素直に頷く。
「だがね。中途半端が一番良くない。どうせ込めるなら全力で掛かって来給えよ」
「お嬢様、耳を貸す必要はありません」
天空が狗飼を背に庇い、鋭く声を飛ばす。
「君もだよ、天空。中途半端は良くないと言っている。いい加減、お嬢様への守りを捨ててはどうかね」
「お断りします。そういうということは多少なりとも効果があるということ。貴方様にお嬢様を傷つけさせるわけには参りません」
天空は舞踏のようにしなやかな動きで、絶えず『殺し屋』の視界から狗飼を外すよう誘導を続ける。
「あぁ、麗しの主従愛。実に容易い」
『殺し屋』は天空の舞踏を既に見切っている。狗飼が放つ、工夫こそあれど本質的には代映えのしない攻撃にも、既に飽きがきていた。次の瞬間にも天空を排除し、狗飼の喉元を切り裂くことは造作もない。
だが、それでは狗飼朱音という存在は絶命しない。
だからこそ、死神は待っていた。この世界の核が、最も無防備に晒される瞬間を。
「ん?」
狗飼が疑問の声を上げた。
「何だろう。これ」
次の瞬間、静まり返っていた内部空間に、臣獣たちが姿を現した。その数は瞬く間に増殖し、精神世界の地平を埋め尽くしていく。現実世界で『仲介屋』によって母胎回帰を宿命づけられた臣獣たちが、因果の糸に引かれて狗飼の深層世界へと戻って来たのだ。
「ちょうどいいや、やっちゃえ」
「何?」
主の呼びかけに応じ、臣獣たちが一斉に『殺し屋』へと視線を向ける。それは、この精神世界に侵入した明確な「異物」に対する排斥本能だった。
獣の波が、死神を蹂躙せんと殺到する。『殺し屋』は淡々とそのナイフを振るった。
閃光一閃。急所を切りつけられた臣獣が、その場に崩れ落ちて絶命する。肉片からの再生も、再誕も発生しない。存在そのものを停止させる、完全なる「殺害」だった。
「無駄なことを」
それは『殺し屋』の処理すべきタスクを一つ増やしたに過ぎない――そう考えたのは、狗飼たちだけではなかった。
次の瞬間、独楽のように鋭く回転した『殺し屋』が、遠心力を乗せて手元のナイフを投擲した。
その切っ先が向かう先には、増殖する臣獣の影に隠れ、わずかに無防備を晒した狗飼がいた。天空の鉄壁の守りから、一瞬だけ外れた死角。そこを死神は、寸分狂わず突いた。
「くッ……」
天空の爪が空を切る。だが、一歩届かない。
放たれたナイフは引力に引かれるように、まっすぐ狗飼の額へと吸い込まれていく。
だが、直撃の寸前、空間が紙を破るように割れた。
そこから飛び出した影が、狗飼の真横に滑り込む。
「ナイフは軌道を逸らす――《果因鋳造》」
世界が静止し、論理矛盾を告げる無機質な声が響く。天乃は吠えるように反論した。
(オレがその拳で空中のナイフを殴り飛ばした。故にナイフの軌道は逸れた。一発で成功するとは思えないし、オレの拳は無事じゃ済まないだろうが、それでも結果は発生する!)
次の瞬間、論理矛盾が解消される。
不可視の衝撃がナイフを叩き、その軌道を強引に横へと逸らした。刃は狗飼の髪をかすめ、虚空へと消える。当然、《果因鋳造》の結果によって、天乃の拳が傷つくことはない。
「あーくん? あーくんだ」
「手伝いは必要か?」
天乃慎は、怪異の王の魔力をその身に宿したまま、狗飼へと視線を向けた。
「いいの? わたくし、そんなことしてもらえるようなことした覚え、ないよ?」
「まぁ、確かに、迷惑と面倒しか受け取っていない気がする。でも、あの水無月があそこまで求めた友達なんだ。だったら、それを手伝うのに理由はいらないよ」
「いいの? また彩芽ちゃんに意地悪しちゃうかもよ?」
「そのときは、オレが全力で止めればいいだけだ」
「そっか。うん、じゃあ、共闘よろしく」
天乃と狗飼、そして天空が、再び前方の『殺し屋』へと向き直る。
「希望狂いが、二人」
『殺し屋』がそう呟くと、空間が震えるほどの殺意が噴出した。
「ちょうどいい。あのときの借りを返そう、天乃慎。『仲介屋』も今回は文句を言うまい」
「やってみろ、『殺し屋』」
天乃が不敵に応える。
死神と、希望に狂った者たちによる、因縁の第二ラウンドが幕を開けた。




