喧嘩を引き裂く殺意の刃物
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「あははは、楽しいね! 天空!」
狗飼の拳と天空の拳が、爆音と共に正面からぶつかり合う。
衝撃で互いの腕が砕け、肉片が飛び散る。だが、次の瞬間には巻き戻るかのように元通りに修復されていた。ここは狗飼の精神世界の深奥。術者の主観が現実を支配する領域において、肉体の欠損など意味をなさない。
だが、天空とてこの世界を構築する重大要素の一つだ。狗飼の精神的な支柱であるがゆえに、その存在強度は極めて高く、そう簡単には砕け散らない。
「そうですか? いまいち張り合いというものがないのですけど」
「いつもの訓練と同じだと思ってるからだよ! 喧嘩なんだからさぁ、互いに文句でも言っていく?」
「それではこの天空から。――いつも破天荒すぎます、お嬢様。そろそろいい年なんですから、いい加減落ち着いてください」
天空の容赦ない言葉と共に、鋭い蹴りが狗飼の腹部に突き刺さった。朱音の身体が紙屑のように吹き飛び、精神世界の地平を転がっていく。
「あ、なんかちょっと爽快な感覚がありました」
「やっぱり、鬱憤溜め込んでるじゃん! しかも結構洒落ならないレベルのやつ!」
狗飼は激しく吹き飛びながらも、器用に言葉を紡いだ。そんな彼女に、天空が風を切って追走する。
「では、次も不肖、この天空が務めさせていただきます」
「ちょっと! せめて交互にしようって!」
空中で体勢を立て直した狗飼が文句を言うが、天空は止まらない。その瞳は本気だ。
「いい加減まともに学業に従事してください。スペックだけはいいんですから」
天空の鋭いかかと落としが、空中にいた狗飼の脳天を直撃し、地面へと叩きつけた。轟音と共に土煙が舞う。
「あと、いつものサボり癖はいただけません。今後は狗飼家当主としての仕事もあるのですから」
天空は無造作に、地面に転がる狗飼の身体を踏みつけた。顔面に降り注ぐ苛烈なスタンピング。
それを何とか両手で受け止めた狗飼は、屈辱に顔を歪ませながら、そのままの体勢から強引に天空の足を掴んで放り投げた。
「そういうところ! そういうところが天空はダメダメなの! わたくしへの労りが足りない! 甘やかしが足りない! もっと優しくしてくれてもいいのに! 容赦がない!」
吹き飛ばされた天空は、空中で身を翻しながらその言葉を反芻する。
「そうでしょうか? この天空は十分お嬢様を甘やかしてしまっているような?」
「嘘つきだ! 本気でそう思ってるなら価値観が違うとしか言いようがないよ!」
立ち上がった狗飼と、軽やかに着地した天空が再び向かい合う。
「そうでしょうか? お嬢様はできるのにやりませんよね?」
「だってやったらやったで次はもっとハードにするでしょ?」
「それはそうでしょう? できるのにやらないのは怠惰です」
「そういうところ! もう、天空はそういうところが非人間的なんだよ! いい? 人間は限界を超えるまで酷使されると死んじゃうんだよ!?」
「限界を超えて進化する『覚醒者』が何を言ってるのですか?」
「あー、『覚醒者』差別だ! それだけは言っちゃいけないんだ! できるからやらせるってのは虐待なんだぞぉ!」
狗飼が心底憤慨したかのように両腕を振り回す。その幼稚な仕草を見て、天空の口元に微かな笑みが漏れた。
「なんでしょう。やはり、ちゃんと喧嘩すると気分がいいですね」
「そうかな!? わたくしは思った以上に過酷な現実に耐えられそうにないよ!?」
天空の意外な本音を聞いた狗飼は、圧倒的な実力差(と正論)を前にして少し涙目になっている。
「では、続きと行きましょう。まだまだまだまだ、お嬢様には言いたいことが、伝えたいことがあるのです」
「うわぁん、天空が『覚醒者』みたいなこと言ってる!」
「お嬢様はありませんか? この天空に伝えていないこと。伝えたいことは」
「……ほとんどないよ。だってわたくしは、そういう本音を天空にだけは隠していないんだもの」
にへら、といつもの屈託のない笑みを浮かべる狗飼。その無防備な表情を見た瞬間、天空の中に澱んでいた激情が堰を切って溢れ出した。
「だったら! だったら、どうして今回は独断で決めてしまわれたのですか! どうして一緒に巻き込んでくれなかったのですか! どうしてお嬢様の前に立ちはだかる役割をこの天空にさせてしまったのですか!」
天空の怒号が精神世界を震わせる。
「どうしてだろ。わかんない」
狗飼は、きょとんとした様子で首を傾げた。
「そんなことありますか?」
「うーん、確かにわたくしは今日のために独断で別動隊を動かしていた。でも、それってなんでなんだろ? 天空にも朱雀にも何も言わなかったのはなんでなんだろ? いつものわたくしなら作戦を共有くらいしたはずなんだけど」
突如として流れ出した不穏な懸念。
そう、狗飼朱音は霊獣を単なる便利な従者と捉えていない。彼女にとっては紛れもない「家族」である。だからこそ、今回のように何も伝えず独断で動いたことは、これまでの人生で一度もなかった。あの狂言誘拐のときでさえ、天空の許可を事前に得て、その上で記憶を操作する手間をかけていたのだ。
「なんで?」
その違和感の正体に気づきかけた瞬間だった。
「ッ!? お嬢様!」
天空が弾かれたように狗飼を突き飛ばした。
次の瞬間、空間を裂いて飛来したナイフが天空の腕を深く貫く。
「天空!」
「大丈夫です。この世界でなら――」
「ならばなぜ庇った?」
冷徹な響き。その声は、主従二人以外の、完全に異質な第三者のものだった。
突如として精神世界の空を割り、響き渡った声に狗飼は全身の産毛が逆立つのを感じ、警戒を強める。
「それはわかっていたからだろう。これが君たちを殺すことができるものであるからだと」
言葉とともに、空間の歪みから音もなく現れたのは『殺し屋』であった。
「殺害の権能は絶対だ。どのような空間でも君たちを確実に殺すことができる」
「『殺し屋』さん?」
「なぜ、貴方がここに!?」
天空が腕のナイフを引き抜き、傷口を抑えながら叫ぶ。
「なぁに、上位世界からであればプレイヤーは個人の内面世界にも到達できる。誰もやらんがね。その理由は、まぁ、わざわざ不利な土俵で戦う奴はいないってことさ」
『殺し屋』は退屈そうに周囲を眺めるが、その瞳に宿る冷気は精神世界の温度を一気に氷点下へと引き下げた。
「何しに来たの?」
「同盟解消の通知と、君の殺害の実行だよ、狗飼朱音」
狗飼の内面世界に、逃げ場のない『殺し屋』の致死的な殺意が溢れ出した。




