魂の衝突、最初で最後の大喧嘩
2036年8月9日 午前8時14分
「天乃様! 水無月様! この天空に、お嬢様までの道を!」
戦場に天空の切実な叫びが響き渡る。その覚悟に、満身創痍の二人が即座に応えた。
「任された!」
「行ってきなさい、天空ッ! 道よ、在れ!」
天乃の《果因鋳造》が、神獣へと続く直線上の臣獣たちを概念ごと消し去り、強引に「空白の直線」を切り開く。そこへ間髪入れず、水無月の《皇権天上世界》が黄金の光を流し込み、王宮の回廊にも似た豪奢な道を舗装した。
さらに、水無月が天空にその道を踏破するための四肢を与える。白銀の毛並みを湛えた巨大な狼へと変じた天空に、御堂が最後にそっと触れた。
「一応、私からも加速もあげる」
「ありがとうございます。御堂様」
「行ってきて!」
「はい!」
次の瞬間、天空は銀の流星と化した。音速の壁を容易く突き破り、衝撃波を残して瞬時に神獣の懐へと到達する。
あらゆる臣獣の母たる神獣は、正面から飛び込んできた銀の弾丸にその身を撃ち抜かれた。
だが、衝撃は起こらなかった。神獣の身体は、まるで愛し子を迎え入れるかのように、その弾丸を音もなく呑み込んだのだ。
最後のピース――術者直属の霊獣である「天空」が嵌ったことで、神獣はその形態をさらに変化させる。世界を喰らうほどの巨大な咢を備えた、銀光を放つ巨大な狼へと。
「そんな――」
絶望に染まりかけた御堂の声に、天乃と水無月が同時に吠えた。
「「まだだ!」」
それは、ただの強がりではない。天空という従者を信じるがゆえの咆哮だ。
「落ち着きなさい、御堂。天空は朱音と喧嘩するとゆったのよ。取り込まれて終わりなわけないじゃない」
「今のオレ達のすべきことは、そいつが決着するまでの時間稼ぎだ」
「慎……」
怪異の王へと変貌を遂げ、黄金の瞳を宿した恋人の容態が気にならないわけではない。だが、御堂は溢れ出しそうな不安を呑み込み、手甲型のスリングショットを力強く構え直した。
「わかった。お説教は全部終わった後にね」
「それは確定してるんだ……」
肩を竦める天乃の態度に、わずかな余裕を感じ取った御堂は、改めてスリングショットに弾丸を番える。
「当たり前でしょ」
そう言って、御堂は迫りくる臣獣たちへ狙いを定めた。
「だって、ちょっと勝手が過ぎるんだもん」
御堂の瞳には、恋情故の正当な怒りが宿っていた。
「あはは、お手柔らかに」
天乃は苦笑しながら、怪異の王の力を行使して臣獣の束を消し去っていく。
「なんか、アタシが恥ずかしくなってきた」
死線と絶望の渦中で繰り広げられる恋人たちの逢瀬を前にして、水無月は小さく、呆れたように苦言を呈するのであった。
?年?月?日 ??時??分
「お嬢様」
天空は、膝を抱えて座り込んでいる狗飼朱音を見つめていた。
ここは神たる獣の内部世界。精神の深淵。最後のピースを取り込んだ神獣は、外部では荒れ狂う銀狼へと変貌していたが、その核となるこの場所は、驚くほど静まり返っていた。
「この天空がお傍に参りましたよ」
天空の声が虚空に響く。しかし、狗飼は答えない。膝を抱えたまま、顔を伏せている。
「お嬢様? 具合が悪いのですか?」
天空は拒絶を恐れず、それでもゆっくりと、慈しむように語りかける。
「うぅん。ちょっと天空がどんな顔してるか見たくなくって」
ようやく反応した狗飼の声は、妙にしおらしく、そして幼かった。
「あぁ、先ほどのこと、気にしてるんですね」
「うん。天空に本気で反対されたってことは、わたくし、また間違ってしまったんだなって」
「取り返しが付かないと思ってらっしゃる?」
「そうだよ。もう取り返し付かないよ」
「だからと言って間違ったまま突っ走るのはどうなんでしょう?」
「仕方ないよ。わたくしが正しいと思ってるんだもん」
「困ったお嬢様です」
「ごめんね」
その謝罪には、これまで彼女が塗り固めてきた全ての虚飾がなかった。剥き出しの、狗飼朱音という一人の少女の本心だった。
「ですが、今回はこの天空が許して終わりというわけには参りません」
「そうだね」
「だから、お嬢様。喧嘩をしましょう」
「本気で言ってたの、それ?」
顔を上げぬまま、狗飼が戸惑ったように問い返す。
「ええ、水無月様に指摘されました。お嬢様を諫めることができないこの天空は、お嬢様の従者として足りていないのだと」
「そんなことないよ。天空はちゃんとやってるよ。わたくしが至らないだけで」
「いいえ、お嬢様。足りぬ従者と至らぬ主君では前者の方が罪深いのです。なぜならば、この天空が従者として足りていれば、このような事態は避けることができたはずなのですから」
「それは、ちょっと傲慢だよ」
「ええ、ですから、喧嘩をするのです。互いに譲れぬものがあるでしょう?」
「わかってる? わたくしは天空の主君で、ここはわたくしの世界で、天空はその世界を構成する重要な要素。勝負なんて最初からつかないよ?」
「ええ。ですが、勝負と喧嘩は違います。喧嘩はすることに意味があるのです」
「――しつこいなぁ」
狗飼の声からしおらしさが抜けていく。それはいつもの不遜な調子に戻ったかのようで、不覚にも天空は涙しそうになった。
「だったら、いいよ。喧嘩でしょ。してあげる」
狗飼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。その眼には、再び強い、だがどこか吹っ切れたような希望が宿っていた。
「わたくしが勝ったら、今度こそ最後まで協力してね」
「ええ、この天空が勝ったら、そうですね。皆様に一緒に頭を下げましょう」
「それは、勝っても負けてもわたくしにとっては――」
「どっちになっても、この天空はお嬢様の味方です。最後まで」
「……生意気ぃ、ちょっとだけ揺らいだよ。このわたくしが自分の希望を捨てそうになった。天空が一緒に謝ってくれるなら、捨ててもいいかなって思っちゃったじゃん」
狗飼は自嘲気味に、だが愛おしそうに天空を見つめる。
「そうおっしゃっていただけたのなら、従者冥利に尽きるというものです」
「でも、手は抜かないよ」
「それはこの天空とて同じこと」
「じゃあ、始めようか」
「最初で最後の大喧嘩、ですね」
ここに、主従の絆を確かめ合う、魂と魂の衝突が幕を開けた。




