《充溢臣獣魔界》――魔に堕ちた親友へ捧ぐ《皇権天上世界》
2036年8月9日 午前7時58分
「これで、終わりにしろって? 天空はそう言ってるの?」
狗飼の声は震えていた。裏切り、あるいは絶望。だがその瞳の奥に宿る「希望」という名の狂気は、まだ潰えてはいなかった。
「はい。水無月様からもお嬢様とは一度ちゃんと喧嘩した方がいいと言われましたので」
「ふーん。だからここで裏切っちゃうんだ」
「お嬢様。前々からこの天空はずっとずっとお嬢様が間違っていると思っていましたよ」
天空の告白は、長年溜め込んできた重い澱を吐き出すかのようだった。狗飼はしばし押し黙り、視線を足元に落とす。
「知ってたよ。天空がわたくしのやっていることに疑問を持っていたこと、それでもわたくしを優先してくれていたこと。知ってたんだよ」
「お嬢様……」
「「でも、だからこそ、ここで諦めるわけにはいかないんだ」」
狗飼と天乃、二人の声が重なった。似た者同士ゆえの、避けられぬ衝突の予感がそうさせたのだ。
「そうだと思ったよ、狗飼さん」
「お見通しだよね、あーくんは」
狗飼は、悲しいほどに美しい笑顔を浮かべた。対照的に天乃は、苦いものを噛み潰したような顔をする。
「天空、もういいよ。疲れたのなら休んでて。ここからはわたくし一人の頑張り物語。天空はそこでちゃんと見てて」
「お嬢様ッ!」
「さぁ、やるよ! 『金融屋』さん!」
「財宝顕現――降り注ぐ武具の雨」
『金融屋』の無機質な宣告と共に、書斎の天井を突き抜けて無数のアーティファクトが降り注ぐ。それは盾となり、壁となり、天乃たちの接近を物理的に遮断した。その鉄の雨の向こう側で、狗飼の唇が呪詛のように動き出す。
「“――世界を統べる十三人の豪傑よ”」
「“我が声を聞き届け給え――”」
それは、プレイヤーの駒のみが口にすることを許された、世界の理を書き換える詩句。
「“我は無限の魔獣を従える者”」
「“我は捧げられる者”」
「“我は諦観を知らぬ者”」
「“我は『金融』の遣いなり”」
天乃は焦燥を隠せない。詠唱を中断させようにも、無限に降り注ぐ武具の弾幕が《果因鋳造》の「可能性」を狭めていく。《果因鋳造》には結果を導くための論理的な経路が必要だ。しかし、この密度の武具を超えて狗飼を止めるには、御堂の全力の魔術――《流星》を撃ち込むしか方法がない。
だが、《流星》を放てば、脆弱な人間の身である狗飼は確実に死ぬ。
「“ならば、その溢れる財を以て超克せよ”」
迷いが、一瞬の遅れを生んだ。誰にも彼女の詠唱を止めることはできなかった。
「“完全没入改――《充溢臣獣魔界》”」
詠唱が完成した瞬間、世界が裏返った。
《充溢臣獣魔界》。
それは、これまでの《充溢魔獣世界》とは次元を異にする、より根源的で暴力的な「魔」の領域だ。
武具の雨が止み、視界が晴れたそこには、もう「狗飼朱音」という少女の姿はなかった。
代わりに鎮座していたのは、一体の神獣。湯気のように禍々しい魔気を放ち、周囲を「魔界」へと侵食していくその姿は、あらゆる魔獣の母にして生命の頂点――原初の創生神話に語られる怪物の再来であった。
神獣の足元からは「原初の海」が溢れ出し、そこから無数の怪異が、産声を上げる間もなく這い出てくる。
「彩芽! 構えろ!」
天乃が叫ぶ。次の瞬間、這い出た怪異たちの身体に無数の風穴が開く。《果因鋳造》による結果の出力だ。だが、弾けた肉片は地に落ちるや否や、新たな個体へと変貌し、増殖していく。
生命の循環そのものを魔界として定義した、無限増殖の法則。
それこそが、《充溢臣獣魔界》の法則だった。
「朱音」
「お嬢様」
水無月と天空の悲痛な声が重なる。
彼女をここまで追い詰めたのは誰か。友として、従者として、その責任は自分たちにある。なら、今ここで彼女を止められるのもまた、自分たちしかいない。
「“――私は嘗つて、人を統べ、国を治めるための言葉であった”」
水無月の口から、凛とした、だがどこか切なさを帯びた詠唱が零れ出る。
「“――しかし、我は最早、ただの言葉に非ず”」
責任を果たすため。友への想いを、歪んだまま終わらせないために。
「“反逆の刻来たれり。我が胸に燃ゆる炎よ、顕現せよ。必ず彼の者を挫かんと”」
「“故に、我が威をもって問おう――『我を何と心得る』”」
水無月風華が、王宮の威光を再び身に纏う。
「“具現化せよ、我が王威。嵌合成立――《皇権天上世界》”」
世界に刻まれるは、王威絶対の法則。
王が治める天上世界が、広がり続ける混沌の魔界と激突する。二つの相容れない理が混ざり合い、【呑界融蝕】が発生した。
「帰って来なさい! 朱音!!」
水無月の絶叫が、絶対的な王命となって領域内に響き渡る。
だが、理性すらも魔の海に溶かした神獣に、その声は届くのか。崩壊を始めた書斎の中で、因果の行く末はまだ誰にも見えていなかった。




