忠臣の諌言、空白になる思考
2036年8月9日 午前7時40分
狗飼は、昨晩から自身を匿っていた怪異・虚口の口から這い出すようにして外に出ると、凝り固まった身体をほぐすように大きく伸びを行った。
「うぅーん」
そこは、見慣れた狗飼邸内の書斎であった。室内には、昨晩エリザベートが暴れまわって残したはずの破壊の痕跡は一切存在しない。本棚も調度品も、まるで何事もなかったかのように整然と並んでいる。エリザベートの能力の一つである物質再生が、この部屋を修復したのだ。
だが、狗飼は室内の変化よりも、会場に設置していた魔獣たちの反応がことごとく消失している事実に、意識を奪われていた。
「ありゃ、マジか。嘘ぉ……」
その数、実に二十万。あらゆる魑魅魍魎を掻き集めた狗飼の切り札であったはずの軍勢だ。
「『金融屋』さん、聞こえますか?」
「何だ」
空間の一部がひび割れるように歪み、『金融屋』の声が応じる。
「なんか、わたくし渾身の魔獣群が絶滅されているんですけど、見てました?」
「あぁ、やったのは『仲介屋』の駒だ」
「どうやって?」
「見たこともない魔術だった。一瞬で掻き消えるように全滅させられた。止めようもなかっただろう」
『金融屋』の淡々とした、それでいてどこか寒気のするような報告を受け、狗飼の目が険しく細まる。
「今までのあーくんにそんな能力はなかったよね? つまり、『覚醒』したんだ、また」
「あれが『覚醒者』か。理不尽な」
それは、確かに理不尽の権化ともいえる『プレイヤー』からのお墨付きを得るほどの、度を越した理不尽さであった。
「『殺し屋』さんに連絡を。作戦を変更します」
「中止ではなく?」
「えぇ、こうなったら、『金融屋』さんの蔵も解放してもらいますよ。財宝の権限、大盤振る舞いでお願いします」
「私の財宝内の武具で君の霊獣を武装させるだったか。奇怪なことを思いつくものだ」
狗飼朱音は諦めない。瞳の奥に「希望」という名の狂執を宿している限り。
――だからこそ、その手の内は、同じ人種である者にとって読みやすい。
「そこまでだ」
唐突に響いた声と共に、書斎の入り口に天乃、水無月、御堂の三人が姿を現した。御堂は、既に手甲型のスリングショットに金属製の弾丸を番え、一分の隙もなく構えている。
「虚口は自分を呑み込んだときにはその場から動けない。英莉の言う通りだったな」
「ありゃ、そっちには元怪異の王がいるんでしたね。でしたら、わたくしの世界のことも大体わかっちゃってます?」
「あぁ、霊獣と怪異を自在に召喚できる世界――それが《充溢魔獣世界》の正体だ」
「ご名答。だったら、無防備じゃないですか? わたくし、まだほとんど霊獣を使ってないんですよ?」
狗飼がそう不敵に述べた瞬間、彼女と天乃たちの間の空間が膨れ上がり、人型の男女の集団が実体化した。その数、約二十人。狭い書斎を埋め尽くすように、精強な霊獣たちが整列する。
「『金融屋』さん」
「心得た」
『金融屋』の声が響くと同時に、召喚された霊獣たちの手に次々と武具が供給されていく。刀、槍、弓、剣、鎧、斧、モーニングスター、ハルバード、フランベルジュ、そして室内には場違いなチャリオットまで。いずれもアーティファクトと呼ばれる、古式魔術で鍛え上げられた伝説級の業物ばかりだ。
「すべての霊獣は順次死亡する――《果因鋳造》」
天乃が静かに呟いた瞬間、異変が起きた。狗飼の霊獣たちが、端から順に脳天を何かに撃ち抜かれたように弾け、崩れ落ちていく。防御も回避も、あるいは反撃の予備動作すらも許さない。
発生するのは「結果」のみ。御堂彩芽が既に撃ち抜いた、という確定した結末だけが現実に上書きされていく。
きっかり六秒後。二十人の精鋭霊獣たちは、手付かずのアーティファクトだけを虚しく床に残して、塵一つ残さず消滅し尽くした。
「なに、それ」
狗飼の声が戦慄に震える。目の前の光景が「理解」できてしまったからこそ、その異常性が意味不明だった。御堂は引き金すら引いていない。ただ構えていただけだ。それなのに、霊獣を屠ったのは間違いなく御堂からの一撃であった。
「アンタの負けよ、朱音」
水無月が、最後通牒を突きつけるように冷然と宣言する。
「何度やっても同じ。もうわかったでしょ?」
「まだ、まだだよ。――朱雀」
狗飼の叫びに呼応し、炎を纏うような美女が現れた。最強の霊獣の一角、朱雀だ。彼女は無造作に床に転がっていた刀と鞘を拾い上げると、無言で居合の構えを取る。その気迫だけで室内の温度が跳ね上がる。
「朱雀――」
水無月の制止の声も、もはや狗飼には届かない。
「霊獣朱雀は死亡する――《果因鋳造》」
天乃が再び魔術を起動した。朱雀の額に一瞬で穴が穿たれ、彼女は確かに絶命した。
――だが、その額に小さな紅蓮の炎が灯ったかと思うと、肉体は瞬時に再生し、死という結果そのものが無効化された。
「不死鳥の力――人型でも相変わらず健在ってわけか」
だが、天乃の声に焦りはない。再生するなら、再生できない結末を用意すればいいだけだ。
「霊獣朱雀は消滅する――《果因鋳造》」
再び天乃の魔術が発動し、世界が静止した。
(論理矛盾です。原因を証明してください)
(オレが《境界書換》を行った。世界との境界を失った召喚体は、傷一つ負うことなく消滅する。勿論、俺は反撃にあうかもしれないが、いずれにしても消滅という結果は発生する)
(原因が証明されました。論理矛盾が解消されます)
世界が再び動き出す。
次の瞬間、不死身を誇った朱雀は、一筋の傷を負うこともなく、その存在自体を世界から削り取られるようにして掻き消えた。
「――朱雀」
「これで、諦めてくれる?」
呆然と立ち尽くし、消えた朱雀の残滓を見つめる狗飼に、水無月が静かに問いかける。
「まだ、まだ、まだ、まだ。まだだよ。《天空召喚》」
狗飼の最後の縋るような叫びに応じ、その場にメイド服姿の天空が実体化する。
「お嬢様」
「天空、やるよ」
狗飼は唯一無二の味方に指示を飛ばす。だが。
「お嬢様、もうやめませんか?」
「――は?」
絶対の忠誠を誓い、これまで一度として背いたことのない忠臣の拒絶。その言葉を耳にした瞬間、狗飼朱音の思考は、今度こそ完全に停止した。




