魔獣の正体――怪異を呑み込んだ、不純なる『百獣覇群』
2036年8月8日 午後9時34分
「くっ、かはっ!」
強烈な虚脱感と、魂の輪郭を直接削り取られるような過酷な負荷。それに耐え兼ね、天乃は力なくその場に膝をついた。視界が激しく明滅し、どろりとした疲労が全身を支配する。
「慎ッ!」
御堂が悲鳴のような声を上げて駆け寄った。天乃の背中にそっと手を当て、その青ざめた顔を心配そうに覗き込む。
「ねぇ、ちょっと、大丈夫なの!?」
「だ、大丈夫、だ。魔獣は、すべて殺し尽くした」
「そうじゃない! 慎は大丈夫なのかって訊いてるのッ!」
御堂の叱り飛ばすような鋭い声。その剣幕に、天乃は力なく、だがどこか満足げに口角を上げた。
「さすがに十万もの魔獣を殺しきるのは、結構きつかったな」
「十万って……本当に全部消したの?」
「あぁ、全て彩芽の《加速砲撃》で消し飛ばしたようなものだ」
「どういう意味よ。私、何もしていない」
不可解そうに眉を寄せる御堂に対し、天乃は途切れ途切れの呼吸の合間に告げる。
「原因として、使わせてもらった」
「因果逆転、とは少し違うか」
背後から、不意に神出鬼没な『仲介屋』の声が響いた。その片腕には、ぐったりとした少女姿のエリザベートを抱えている。どうやら彼女は、先ほどの派手な魔力放出で帰還に必要な魔力まで使い切ってしまったらしい。肝心なところで詰めが甘いのは、彼女らしいといえば彼女らしかった。
「どちらかというと、結果の先取りか。――結果が先に起こった以上、世界は原因を求めない。そういうところだろう。『覚醒者』由来の出鱈目な能力だな」
「『仲介屋』……」
御堂は天乃を庇うように一歩前に出ると、エリザベートをホテルの屋上に静かに下ろしている『仲介屋』を厳しい目で見据えた。
「これ、大丈夫なのよね?」
「おそらくな。使ったことのない魔術を大規模に使って一時的に不調を被っているだけだろう。そいつの魔力量も原型術師には劣るが一級品には違いないのだからな」
「そう、よかった」
「だが、没入型か。当てが外れたな」
安堵の息をつく御堂に対し、『仲介屋』はさらりと不穏な独り言をこぼす。
「どういう意味よ」
「できれば嵌合型が望ましかったという意味だ。他意はない」
「『仕切屋』をおびき寄せるため?」
「あぁ、そういうことだ」
わずかに睨みつける御堂に、『仲介屋』は淡々と弁明を返す。
「だが、もしかしたら、あるいは――」
そう言って何かを思案するように黙り込んだ『仲介屋』が、不意に顔を上げた。
夜の天を駆けるようにして、空中を跳ね回っていた天空と水無月が、風を切る音と共に合流する。
「これで、もう大丈夫ってことよね? ね?」
水無月は、まるで自分自身を納得させるかのように、周囲に同意を求める。
「概ね事前措置は完遂したといえよう」
「事前、措置?」
『仲介屋』の選んだ奇妙な語彙に、水無月は怪訝そうに首を傾げた。
「当然だろう。会場内に潜んでいた魔獣は撃退した。だが、果たしてそんな程度のことで狗飼朱音が諦めると思うか? 答えは否だ。あれもまた天乃と同じ希望狂い。当日用のプランを用意していると考えるべきだ」
「……そうかもね」
『仲介屋』の嫌な予測に対し、水無月は渋々と、だが否定しきれずに同意を口にした。
「だけど、まぁ、流石にこれ以上の厄災を用意するのは物理的に不可能でしょ。明らかに本命だったはずだし」
「どうかな」
水無月の真っ当ともいえる楽観に、今度は地面に座り込んだままの天乃が反応した。
「希望狂いは逆境が大きければ大きいほど、再覚醒の可能性が高くなる。希望を失いかけたときは特に」
「え?」
水無月の顔から、すっと血の気が引いていく。
「とはいえ、そこまで大きく心配しなくてもいい。狗飼朱音は既に界構築にまで至っている。これ以上、覚醒しても性質の違う能力は持ちえないはずだ。人が持てる世界は一つまでだからな」
今度は『仲介屋』が、専門的な知見から補足を述べる。
「つまり、魔獣が溢れ出る世界だけってことね」
「あの、質問よろしいですか?」
静かに手を挙げたのは天空だった。
「この天空とてお嬢様の魔術のすべてを理解しているわけではないのですが、確か、歴代の狗飼家の人間が用いた霊獣を召喚するというのが《百獣覇群》のはずです。だとすれば、二十万という数字はどういうことでしょう? 誓ってもよいですが、歴代の狗飼家の人間は二十万人もおりません」
「誰か、姿の同じ霊獣を複数見た奴はいるか?」
『仲介屋』の低い問いに、重苦しい沈黙が返ってくる。
「――二十万種の霊獣だと?」
「はい、明らかにおかしいです。しかも、屋敷で見かけた霊獣はここにはいませんでした」
全員の視線が、再び静まり返った会場跡へと向けられる。
「――《充溢魔獣世界》、思っていたよりも数段厄介な術式かもしれん」
『仲介屋』が吐き出したその言葉の重みに、その場にいる全員が、拭い去れぬ戦慄と共に押し黙るのだった。
2036年8月8日 午後9時43分
「そもそも、オレは気になっていた。どうして《充溢霊獣世界》じゃなくて、《充溢魔獣世界》なんだろうって」
天乃慎が、以前から胸の内に抱いていた違和感を口にする。
霊獣と魔獣。一見すれば単なる些細な呼称の違いに過ぎないが、先ほど目の当たりにした《百獣覇群》の異質な性質――二十万種という、歴代の狗飼家当主の数すらも遥かに凌駕する異常な数を鑑みれば、そこには決定的な違いがあるのではないか。
「そういえば、前に朱音さんから言われた。『《百獣覇群》への理解としては満点だね。でも、だからこそ、0点。それは狗飼家が持つ共通の世界への理解であって、わたくしの世界への理解ではないから』って」
御堂彩芽が、記憶の糸を解くように静かに切り出した。
その言葉を額面通り捉えるなら、狗飼家の伝統的な《百獣覇群》と、狗飼朱音固有の世界である《充溢魔獣世界》は、根源的に異なる性質を有することになる。
「おそらくだが、狗飼朱音は正規の方法で《充溢魔獣世界》を習得したのではないのだろう。故に、《百獣覇群》とは異なる性質を得た。それらを意図的に混同させることで、《充溢魔獣世界》と《百獣覇群》が同じ術式であるかのように振る舞っていたんだ」
「なんじゃ、気づいておらなんだのか」
『仲介屋』の冷静なまとめに、いつの間にか目を醒ましていたエリザベートが、欠伸混じりに反応した。
「狗飼の娘御が放った魔獣のほとんどは霊獣ではなく『怪異』じゃぞ。わっちも伊達に怪異の王を名乗っていたわけではない。わっちの見た限り、屋敷にいた霊獣はそこの眷属を含めて四体。それ以外は全て怪異じゃ。最後に狗飼の娘御を呑み込んだのは確か、虚口とかいう怪異じゃ」
エリザベートが放った爆弾発言に、その場に凍りついたような沈黙が降りる。
狗飼家という霊獣使いたちの頂点が、あろうことか「怪異」をその身に宿し、使役している。
「あぁ、その、じゃあエリザ。この会場に霊獣はいたか?」
天乃が恐る恐るといった様子でエリザベートに質問する。
「見た限りおらんかった。総て怪異じゃ。まぁ、確かにこれを『魔獣』と呼んでも差し支えはあるまい。両者に意味合い的な違いはほとんどないのじゃから」
「これではっきりしたな。どうやら狗飼朱音の呼び出す魔獣とは、霊獣と怪異を合わせたものであるようだ」
エリザベートの証言を受け、『仲介屋』がパズルの最後の一片をはめるようにまとめる。
「だからこそ、《充溢霊獣世界》じゃなくて《充溢魔獣世界》だったというわけね。だったら、明日のプランは透けたも同然かしら」
水無月風華の言葉に、天乃が確信を持って頷く。
「おそらく、霊獣による飽和攻撃だ。内側を怪異で襲撃し、外側を霊獣で蓋をする作戦だったんだろう」
内側で暴れる予定だった二十万の怪異は、天乃の《果因鋳造》によって一匹残らず消滅した。残る脅威は、外側から襲いかかるであろう霊獣の群勢のみだ。
「それと朗報だ。どうやら、《行き止まり》が『壊し屋』を仕留めたらしい。明日の襲撃までには合流できるだろう」
「……あいつが? へぇ、やるじゃない」
『仲介屋』の報告に、水無月が意外そうに、だが心強そうに笑みを浮かべる。最強の切り札の一人を欠き、こちらの戦力は姉弟が加わることで最大化する。
「ここまで来たら、襲撃を未然に防ぐわよ!」
水無月は力強く拳を握り、確かな手応えと共に仲間たちへ発破をかける。
夜の帳が降りた浅木の街で、彼らは明日という決戦の日に向けて、静かに、だが熱く闘志を燃やすのだった。




