諦観を知らぬ『覚醒者』再び
2036年8月8日 午後8時59分
夜の静寂を切り裂くように、天乃は望遠レンズを装着したレーザーポインターを操り、闇に潜む魔獣の位置を冷徹に指し示した。
直後、隣に控える御堂から、不可視の速度で金属の弾丸が撃ち込まれる。正確無比な一撃は、着弾と同時に魔獣の肉体を破壊し、跡形もなく消滅させた。
「次、距離約500。正面パビリオンの柱の裏側だ」
天乃が指示を飛ばし、レーザーの光が一本の柱を赤く染める。御堂のスリングショットから放たれた弾丸は、ポインターが示した軌道を寸分違わず直進。しかし、標的の直前で突如として物理法則を無視した直角の弧を描き、死角に潜む魔獣へと吸い込まれた。
命中。魔獣は断末魔を上げる暇さえなく、黒い霧となって霧散する。
二人が陣取っているのは、明日開催される国際企業フォーラムのメイン会場から約200メートルほど離れたホテルの屋上だった。
前夜ということもあり、施設そのものは厳重な警備体制が敷かれている。いかに天乃らといえど、正規の手段で侵入し、内部で大立ち回りを演じることは困難であった。
そこで天乃は、自らが「観測手」となり、御堂が「狙撃手」となって遠距離から敵を間引く現在のスタイルを提案したのだ。
もちろん、法も警備も一切意に介さない『仲介屋』とエリザベートは、既に施設内に侵入し、直接的な魔獣狩りを実行している。
もっとも、エリザベートに残されている時間は残りわずかであった。
彼女が維持できる「黄金の肉体」には厳しい制約がある。午後4時から午前4時の12時間のうち、合計で4時間しか顕現できず、さらにそのうち全盛期の力を振るえるのは、わずか1時間。
狗飼邸での戦闘に約20分を費やし、この施設での掃討に約35分。彼女の砂時計は、まもなく最後の一粒を落とそうとしていた。
「(エリザ、時間だ。撤退してこい)」
天乃が主従のパスを通じて短く命じる。
「(くッ、仕方ないのぅ。最後に一発かましてからそっちに戻るぞ)」
エリザベートの声が脳内に響いた直後、バチッという激しい放電音が夜空に鳴り響き、フォーラム会場周辺が一時的な停電に見舞われた。
その刹那、施設全体を覆い尽くすほどの、エリザベートの黄金の圧が放出される。
たった一度の魔力解放。それだけで、実体を持たない低級の魔獣たちが1万単位で消し飛ばされた。
だが、真に驚くべきはエリザベートの処理能力ではなかった。狗飼朱音がこの会場に送り込んでいた魔獣の「数」そのものだった。
その数、およそ20万。
この天文学的な数字に気づいたとき、流石の『仲介屋』も、呆れ果てたようにため息を零していた。
それでも、彼らが歩みを止める理由にはならない。
一方、水無月と天空は、上空からの警備を潜り抜け、施設内への潜入を果たしていた。
本来、狗飼の支援なしには不可能な天空の形態変化だが、水無月の《王宮勅令》による命令を以て、強引に実現させていたのだ。
《天空召喚――“騎獣形態”》
巨大な白銀の狼と化した天空の背に乗り、水無月は施設内を縦横無尽に駆け抜ける。目につく魔獣に対し、片っ端から《王宮勅令》を叩き込み、強制的な退去を命じていく。
エリザベートの圧によって擬態が剥がれ、正体を現した魔獣たちを確実に仕留めていく作業。しかし、それでもなお、処理できたのは全体の約半数に過ぎない。
しかも、ここから先はエリザベートの圧にさえ耐え抜いた、精鋭の上級魔獣たちが牙を剥いて待っている。
「……無理、なの?」
水無月の心に、じわじわと諦観の影が射し始める。あまりにも多勢に無勢。あまりにも時間が足りない。
それは、無論、天空も御堂も感じていた。
確かに、作業は進んでいる。魔獣達は攻撃さえ中てることができれば霧散していく。それも回避すらしない。しかし、如何せん数が多すぎる。
水無月の希望を叶えるためには、明日に襲撃が起こるとしても、そこに狗飼が関与した形跡を残すわけにはいかない。
だが、このペースでは到底間に合わない。
誰もが諦観という名の毒に浸かり始めていた。
しかし、「諦める」という概念そのものを、魂の底から拒絶する魔人が、この場には存在していた。
曰く『勇者の素質』。
曰く『不屈の亡者』。
曰く『希望狂い』。
天乃慎のことである。かつてその異常な精神性のみを武器に『覚醒者』の座へと登り詰めた男。
故に、天乃は諦めない。――否、諦めきれないのだ。
敵の数が多い。時間がない。処理しきれない。……だから、どうした。
まだだ。まだ終わっていない。手が足りないなら増やせ。足りなければ、どこからか持ってこい。
それは彼にとって「不可能」ではないのだ。無限に積まれる「足りない」という現実を、弱者の言い訳として切り捨てる。その精神構造は、客観的に見れば既に狂気の沙汰であった。
だが、天乃本人は至って真面目に、その矛盾に挑んでいた。
そして、時間の経過とともに、すぐ隣でスリングショットを構えていた御堂だけが、天乃の変容に戦慄し始める。
「次、距離540」
天乃が指し示した瞬間、御堂が弾丸を発射するよりも早く、標的が爆散した。
「え?」
「次、距離670に数三発」
明らかにおかしい。射撃をしなければ、結果が発生するはずがないのだ。
だが、次の瞬間、天乃が指示した場所に三か所の破裂が発生する。
「次、距離890に数十六発」
天乃が的を指摘した次の瞬間には、指摘された場所すべてで魔獣が弾け飛ぶ。御堂はまだ、スリングショットを構え直してさえいないというのに。
「次、距離1800に数二十六発」
「次、距離2200に数三十二発」
天乃の指示と、御堂の現実の動作が完全に乖離していく。
因果が狂い、結果が原因を追い越していく。要求される距離も、弾数も、もはや人間が、魔術師が扱える規模を遥かに逸脱していた。
「次、次、次――ッ!」
「……慎?」
ついに御堂は射撃をやめ、天乃の横顔を凝視した。
それでも、200メートル先の会場では、断続的に爆発が続き、魔獣が消滅し続けている。
明らかな異常事態だ。
「ちょっと、慎ってば!」
「まだだ、彩芽! 次だ! まだ終わってない!」
その処理速度は、秒間数十件に達していた。
この異変には、施設内にいる『仲介屋』も即座に気づいた。
目の前の魔獣たちが、まるで目に見えない巨人の足に踏み潰されるように、視界内のすべてが一瞬で弾け飛ぶ。
『仲介屋』の魔眼が、同時多発的に発生する《加速砲撃》の残滓を捉えた。
だが、ありえない。
御堂彩芽が同時に制御できる砲弾の数は、せいぜい十個が限界だ。
だというのに、眼前で発生した《加速砲撃》の光のレールの数は、優に四十を超えていた。
天乃慎は、今、何か、取り返しのつかない「代償」を踏み倒しながら、世界を強引に書き換えている――




