前提を覆す魔眼――ジョーカーとしての本領
2036年8月8日 午後7時46分
「どうやら、時間のようですね」
身体に刻まれた無数の弾痕を、内側から噴き出す炎で焼き尽くしながら、朱雀が静かに呟いた。その輪郭が、夕闇に溶けるように淡く透け始めている。
「時間?」
「身体が――消えていく?」
天乃と御堂は、目の前で粒子となって霧散していく朱雀の姿を凝視した。
「今日はお開きということです。では、また、明日。お会いしましょう」
朱雀はそれだけ言い残すと、その場で音もなく燃え尽きた。熱量さえ感じさせないその炎が消えた後には、燃えカス一つ残されていない。主である狗飼朱音の消失に伴い、現世への繋ぎ留めが解除されたのだ。
「(主殿)」
「エリザか」
直後、エリザベートから天乃に、主従のパスを介した念話が届く。
「(すまん。敵の首魁を逃した)」
「それは――仕方ない。こっちも時間いっぱい足止めに徹し切られた」
「(ひとまず合流せんか。正直わっちには、この状況は判断しかねる)」
「? わかった。彩芽、二人と合流するぞ」
「うん」
天乃と御堂は、静まり返った狗飼邸へと足を踏み入れた。荒れ果てた廊下を抜け、書斎の重厚な扉を開くと、そこには呆然と立ち尽くす水無月、微動だにせず床に伏せる天空、そして、どうしたものかと思案顔のエリザベートがいた。
「主殿」
「エリザ、何があった?」
「うむ、まずは報告と征くか。実は――」
そこからのエリザベートの説明は簡潔だった。だが、その内容の重苦しさに、天乃も御堂も口を挟むことができない。
「つまり、狗飼さんは今日の襲撃を読んでいたわけだ。例え自分の身に何かあっても、目的だけは達成できるように。用意周到に準備をして」
天乃の視線が天空に向けられるが、天空は視線を落としたまま何も答えない。無理もない、彼女ですら知らされていなかったのだ。
直後、その場の空間が鋭く裂け、『仲介屋』が姿を現した。
「狗飼朱音の居場所が特定できない。おそらくだが、時間になるまでこのまま虚数空間に潜伏し続けるつもりだろう」
「だったら、どうする?」
「無論、一番合理的なのはこのまま今日は休んで、明日の襲撃に備えることだが――」
『仲介屋』の言葉に、水無月が握りしめていた拳がピクリと反応した。
「――不服がある者がいるらしい」
『仲介屋』は腕を組み、水無月を見遣る。彼女は先ほどから、一言も発していない。
「――水無月」
天乃が気遣わしげに声をかけるが、彼女は視線を上げようとさえしなかった。
「先ほどのやり取りはオレも聞いていた。その上で、まだ手はあると言ったら、どうだ?」
沈黙する水無月に、『仲介屋』が意外な提案を口にする。天乃は、この男が水無月にだけは、どこか異様なほど甘い対応を見せることに改めて気づく。
「……どうするの?」
すっかり意気消沈していた水無月だったが、その言葉には敏感に反応した。
「何、単純な話だ。オレと天乃で、今から会場を虱潰しに俯瞰するだけだ。オレ達なら、隠れた魔獣を見つけ出すことができる」
天乃と『仲介屋』の魔眼は、本質的に同じものである。それは魔力の流れを物理的な事象として視覚化する。魔力の塊である召喚体を探し出すには、これ以上ないほど都合の良い力だ。
「前提を覆す異能――」
天空が低く呟いた。それは狗飼が最も警戒していた天乃の特性だ。敵に回して初めて、その理不尽なまでの厄介さが、天空の胸にすとんと落ちた。本来なら詰みであるはずの状況で、あっさりと打開の一手を提示できるのは、彼らをおいて他にはいない。
「これはアタシのエゴで、本来はこんなことしなくていいことだって、わかってる。――だけど、お願い。アタシの友達を、助けて」
水無月は深く、深く頭を下げた。
「……だ、そうだが?」
『仲介屋』が、促すように天乃に話を振る。
「流石にこの頼みを断れるほど、オレの心臓は強くないって」
「では、仕方ないな。オレも手伝うとしよう。現地で落ち合うぞ」
『仲介屋』はそう告げると、再び空間を割り、上位世界を経由して移動を開始した。
「アンタはどうするの? 天空」
水無月の問いに、天空はすぐには言葉を返せない。
「……この、天空は」
「なら、来なさい。今度こそ、朱音を止めるわよ」
「ですが、その、本当によいのでしょうか?」
「まだ言ってるの? 朱音が人殺しの犯罪者になってもいいっての?」
「よくはないのでしょう。ですが、それはお嬢様の覚悟でもあります。水無月様はお嬢様を怒りましたが、この天空は知っております。お嬢様とて、水無月様と離れ離れになることを望むはずがないのです。でも、それでも、お嬢様は禁忌を踏み越えられた。不退転の覚悟を以て事に臨んでいるのです。それを一介の従者であるこの天空が邪魔をしてしまうのは、本当に正しいことなのでしょうか?」
「面倒な性格してんのはアンタも一緒ね、天空」
水無月は、困った子供を見るような柔らかな笑みを浮かべ、天空の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「ちょっとは、朱音と喧嘩してみたら?」
「お嬢様と、喧嘩?」
「大事なんでしょ? ほっとかれたくないんでしょ? んで、今、放置されてちょっとだけムカついてるんでしょ?」
「――ムカつく。この感情が、そうなのでしょうか?」
人型の姿に戻った天空が、自身の胸にそっと手を当てる。
「確かに、なんとなく、腹が立ってきたような気もします」
「じゃあ、朱音の覚悟とやら、一緒に台無しにしてあげましょう?」
「喧嘩、ですね?」
「そうよ。あれだけずっと一緒にいて、喧嘩の一つもしないなんて、やっぱり不健全なのよ」
「では、初めての喧嘩、頑張ってみます」
「いや、喧嘩ってそういうものじゃないから」
「?」
頭上に疑問符を浮かべた、融通の利かないもう一人の幼馴染に対し、水無月は明るい笑顔を向けるのであった。




