壁を打つ慟哭、鋼の希望を叶えんがため
2036年8月8日 午後7時37分
「わたくしなんて、見捨ててしまえばいいのに」
ぽつりと、当の本人である狗飼が呟いた。自虐ですらない、ただの事実を口にするような平坦な響き。
それに対し、水無月は今度こそ人を殺せそうなほどの鋭い眼光で、狗飼を射抜くように睨みつけた。
「黙れ。アンタがアタシの親友を勝手に見限ってるんじゃないわよ」
「ひっ」
ほとんど矛盾した、支離滅裂な物言い。だが、水無月にとってはこれこそが真実だった。狗飼を勝手に投げ捨てた、目の前の「今の狗飼」を、彼女は断じて許していない。その怒りがあまりに純粋で熾烈だったからこそ、狗飼は本能的な恐怖に身を竦ませた。
「大体、アンタはいつもいつも面倒を持ち込んではこっちを引っ掻き回して。それでもしれっと自分だけは被害を受けませんみたいな顔して、困ってるみんなをニヤニヤ見てるでしょうが!」
水無月の怒声が書斎に響き渡る。その絶叫は、伏したまま震える天空の耳にも、冷徹な傍観者であるエリザベートの耳にも届く。
「なのに、なんで急に自分を捨てるのよ! おかしいでしょうが! アンタは我儘で、最悪で、それでも自分が一番可愛い奴だったじゃない! こんな、保身の欠片もない計画をどうしてアンタが実行できたのよッ!」
「ふぅちゃんの笑顔が見たかった」
泣き叫ぶ水無月に対し、それでも狗飼は穏やかな笑顔を返した。
「ふぅちゃんが幸せになればそれでいいの。今は少しだけ曇った空が心を覆い尽くしてるかもしれない。でも、そんなの比較にならないほどの太陽が輝けばチャラじゃない? むしろお釣りが出るかも。そのために、わたくしは全霊を賭けることにした。引き返す道なんて最初から用意してないのは当然だよね。だって、希望輝く未来がその先にあるんだから」
「だ、か、ら――!! それがおかしいっつってんのよ、この大馬鹿が!!」
水無月の叫びが、さらに一段、熱を帯びる。
「曇ったけどそれ以上に晴れればチャラですって!? ふざけんじゃないわよ! 何勝手に見切りつけてんよ! アタシの空には、アンタだってちゃんといたのに! どうして諦めた! どうして足掻こうとしかなかった! それがアタシを一番傷つけるって、なんで気づいてくれなかったのよ! 笑えないのよ、アンタのやることは。その中でもきっとこれが極め付け。アンタは一体何がしたいのよ!」
「言ったでしょ? 幸せになってほしい。希望を諦めないでほしい。手が届かないからって、そこにある希望に手を伸ばすのすら諦めてるふぅちゃんを見るのは正直つらいよ。だから、わたくしが撃ち落とすの。手が届かないんだから、そうするしかないよね。そのために、わたくしという弾丸が必要なら、わたくしは迷わず自分を銃口に込められる。たとえ一方通行の旅路でも、喜んでこの身を捧げられる」
「いい加減にしなさい。アタシの親友をこれ以上馬鹿にするな。物分かりのいい振りなんてやめてしまえ!」
水無月は自身の胸を掻きむしるように叫び続けた。
「それでもちゃんと帰ってくるのが狗飼朱音って奴なのよ。何なの? これが最後の奉公ですって!? だからわたくしはどうなっても構いませんですって? ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! なんで今回に限ってそんなに潔いのよ! なんで、全部終わらせる気なのよ。まさかアタシがたった一つで満足するなんて思ってないわよね。アタシは辰上。辰上の血を引いてるの。それをもう自覚しちゃったの。あの傲慢な一族が、捨てられるわけがないでしょうが。アタシのものを勝手に捨てられて、キレない道理なんてない! 返しなさい! それはアタシのものだから!! 勝手にいなくなるんじゃないわよ」
「ごめん」
水無月の魂の叫びに、狗飼は素直に謝罪を口にした。
「それでも、今回だけは見逃してほしいの。もうちょっとなの。すぐそこに、準備ができてるの。だから――」
「駄目。絶対許さない。ちゃんとアンタが助からないと――笑ってなんてあげないんだから」
「ふぅちゃん。まったくぅ……仕方ないなぁ、もぉ」
狗飼はそう言ってにへらとはにかむと、一匹の霊獣を呼び出した。
それは巨大な「口」だけの怪異。その喉奥には、ただ虚無が広がっている。かつて玄磨を飲み込み、その存在を世界から隠匿した霊獣――虚口だ。
「虚口、やっちゃって」
狗飼が命令を下した瞬間、虚口は狗飼を一気に呑み込んだ。
「なッ!?」
水無月が身構えた瞬間、虚口は続けて、己自身の肉体をその口で呑み込み始めた。自分で自分を捕食するその異様な姿は、どこか今の狗飼の生き様そのものを思い起こさせた。
「これって――」
空間から虚口の影が消え去った瞬間、狗飼邸を埋め尽くしていた天空以外の魔獣たちも、一斉に霧散していく。
「まさか、逃げた?」
あまりにも鮮やかで、唐突な逃走劇。あの大怪異エリザベートすら、一切反応できなかった。あの極限の状態、あの「和解」へと向かうはずの空気から、狗飼が物理的に姿を消すなどという結末、誰も想定だにしていなかったのだ。
「ふ、ざけんな! どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのよ! どう見ても和解する流れだったでしょうが! あの、頑固者ッ!!」
水無月の怒りと悲しみの入り混じった声が、主のいなくなった書斎に、ただ空しく木霊した。




