既に止められない狂気の群勢、泥沼の親愛が繋ぎ止めたい絆
2036年8月8日 午後7時25分
「朱音――」
「なぁに? ふぅちゃん」
そこにいたのは、あまりにもいつも通りな狗飼であった。周囲の惨状も、目前に控える大怪異の残滓も、彼女にとっては取るに足らない舞台装置に過ぎないのか。どう見ても、追い詰められている人間の反応ではなかった。
「アンタを止めに来たわ」
「わたくしを?」
水無月の断固たる言葉に、狗飼は不思議そうに首を傾げる。そのあまりに無垢な反応を向けられると、まるで自分が何か大きな勘違いをしているのではないかという錯覚に陥るから不思議だ。
「アンタ、明日ある国際企業フォーラムのプレオープンイベントを襲撃する気なんでしょ?」
「そうだね」
「それを止めに来たの。わかる?」
「まぁまぁ、落ち着こうよ、ふぅちゃん」
「アタシは多分、過去一なくらい、ものすごく冷静よ。朱音こそ落ち着いて考えてみたら?」
「はぁ、まったく。まったくまったく」
狗飼はやれやれと、分からず屋の子供を諭すような顔で水無月を見た。
「いいよ。じゃあ、わたくしが冷静に状況を教えてあげるね」
困った親友を見る目で、狗飼は水無月を見遣り、宣告した。
「もう手遅れなの」
「手遅れ?」
「そう。たとえ今ここでわたくしを殺しても、明日の会場では惨劇が起こるよ」
「なに、ゆってるの?」
水無月の思考が、急速に狗飼の放った言葉の理解を拒絶し始める。
「ねぇ、変に思わなかった? 今日のわたくしの群勢、弱すぎぃって」
確かに、それは水無月も抱いた違和感だった。だが、それはエリザベートの格が圧倒的すぎたせいではなかったのか。
「もちろん、そこの怪異の王さんが圧倒的だったのもあるよ? ちょっと反則。全力でやっても勝ち目を見出すのは苦労しそう」
そう述べて狗飼は苦笑する。
「けど、まぁ、それを差し引いても弱かったよね、わたくしの群勢。いやぁ、それでも苦労したんだよ? 数を揃えるの」
狗飼は自分自身を褒めるようにうんうんと頷く。
「《充溢魔獣世界》の名に恥じないくらいの数は集めたかったからね。たとえそれが、張りぼてでも」
そう、狗飼の集めた魔獣は、ただエリザベートが通っただけの道にすら侵入できなかったではないか。それが「張りぼて」だと言われると、急に納得感が生まれてくる。
「アンタ、何したの!? 答えなさい、朱音!」
「おやおや? 過去一落ち着いてるふぅちゃんはどこ行ったのさ?」
「うるさい! 言いなさい!」
水無月は、射殺さんばかりの勢いで狗飼を睨めつけた。
「わたくしは単に世界を生み出しただけ。わたくしの特性は何でしょう?」
「――従属、特性」
「そう。支配との違いは、自発的な行動の結果、わたくしに従ってくれるものを呼び出す点」
狗飼は軽やかに水無月にウインクしてみせる。
「つ・ま・りぃ。もう進軍開始済みだったりして」
「――じゃあ、例えば、今アンタをここで排除しても」
「そう、自発的に進む群勢はもう止まらない。だから、もう手遅れなんだって」
狗飼は自らの屋敷が事前に襲撃されることを完全に予期していた。だからこそ、既に主力となる「真の軍勢」を動かしていたのだ。たとえ自らの命がここで潰えようとも、開始された歯車が止まることはない。彼女の死すらも、その「希望」への行進を止めることはできないように。
2036年8月8日 午後7時31分
「こ、この、大馬鹿ッ!! なんて、なんてこと、してくれてんのよ!!」
水無月は眦にうっすらと涙を浮かべ、激情のままに狗飼の胸倉を掴み上げた。激しく揺さぶられながら罵倒を浴びせられても、狗飼の表情にはどこか他人事のような空虚さが漂っている。
「う。そこまで言わなくてもいいじゃん。ねぇ、天空」
一回り小さい水無月の凄まじい剣幕にタジタジになりながら、狗飼は床に伏したままの天空に助けを求めるように声をかけた。だが、返ってきたのは絶望的な困惑の声だった。
「その、この天空にはお嬢様の考えはわかりかねます。……どうして別動隊がいるのですか?」
「は?」
天空のその言葉に、今度こそ水無月の頭は真っ白になった。
「アンタ、天空にすらゆってなかったの? その計画」
「そうだね。だって、秘密の群勢だからね。わたくししか知らない。指示を受けた魔獣達ですら今は忘れて、どこかで待機してるはずだよ。うーん、とはいえ、結果的には、わたくしにもどれが秘密の群勢なのかわかんなくなっちゃった。だから、うん、もう止められないの。わたくしにも」
そう言って狗飼は、「にぱっ」という表現がこれ以上なく似合う満開の笑顔を水無月に向けた。
「頭、おかしいんじゃないの」
水無月の返答は、乾いた、しかし重い罵倒だった。
「うぬの言う通りじゃ。こやつは狂っておる」
それまで静観していたエリザベートまでもが、呆れ果てた様子で会話に参加してくる始末である。
「えぇー、なんでぇ? 最高にイケてるアイデアだと思ったのにぃ」
「イカレてんのよ、アンタの計画は!」
水無月は掴んでいた胸倉を強引に引き寄せ、狗飼の額に渾身の頭突きを見舞った。
「いったーい。ふぅちゃんが暴力を振るったぁ!!」
「うるさい! 今、考えてるんだから静かにしなさい!」
悶絶する狗飼を床に放り投げると、水無月は下唇を強く噛みしめ、猛烈な勢いで思考の海へと沈んでいった。
「辰上の。まさかとは思うが、この狗飼の娘御がやった不始末を隠蔽し切る気か?」
エリザベートの鋭い指摘に、水無月は肩を震わせて叫ぶ。
「悪い!? まだ何も起こってないの! だったら、これが最後のチャンスよ。ここで食い止めなきゃ、明日、惨劇が起こる」
水無月の本能が、何としても狗飼の関与を世の中から隠蔽しろと告げていた。だが、エリザベートはどこまでも現実的だった。
「何も、事前にすべて対処する必要はあるまい。事が起こってから対処してはいかんのか?」
「ダメよ! まず、貴女がいない。正確にはいるけど、その時間帯は使い物にならない。違う?」
「まぁ、確かにわっちが活動できるのはあと数十分。これをどこまで温存しても午前4時を超えて持ち越すことはできん。その次に全盛期の姿に戻れるのは、明日の午後4時以降じゃな」
「それじゃあ、遅すぎる。プレイベントの開始は午前9時半。絶対に間に合わないわ!」
「とはいえ、わっち抜きでも何とかなろう。むしろ、わっちは過剰戦力じゃ。主殿も、わっちを使えるなら存分に使い倒すと思うが、わっちのようなピーキーな戦力を、作戦の軸に据えておるわけではあるまい」
それは紛れもない事実だった。天乃も『仲介屋』も、エリザベートのことを「いれば心強い」とは考えているが、「いなければ詰み」という必須ピースとしては配置していない。あくまで不確定要素を力技でねじ伏せるための、上振れを狙うジョーカーとして当てにしているだけなのだ。
「ほ、他にもあるわ。事前に会場に侵入した霊獣が同時多発的に襲撃を開始した場合、アタシたちだけでは絶対に対処できないわ」
「それは、そうじゃが……なにもわっちらが全部を何とかする必要はないのじゃろ? 現地の戦力もおるはずじゃし、少なくとも『護り屋』とやらは防衛側として関与してくることが確実なのじゃろ? そこは臨機応変にやるしかあるまい」
「わかってんのよ! そんなこと!」
エリザベートが正論を突きつけるたびに、水無月の焦燥感は積み上がり、爆発しそうになる。
「でも、しょうがないじゃない! この馬鹿を、なんとかこっちに引き戻してやりたいの!」
それが、水無月の剥き出しの本音だった。
これほどの狂気と裏切りを突きつけられてなお、彼女は狗飼を見捨てることができなかった。かつて共に笑った記憶が、親友という鎖が、彼女の足を泥沼に繋ぎ止めているのだ。




