過剰なる蹂躙の果てに響く無垢なる声
2036年8月8日 午後7時14分
「なによ、これ」
狗飼邸の内奥へと足を踏み入れた水無月は、目の前の光景に絶句した。
視界を埋め尽くすはずの無数の魔獣の群れの中に、まるでモーセが海を割ったかのように、人一人が通れるだけの道が、整然とはっきりと穿たれている。うっかりとその「道」に踏み込んでしまった哀れな低級魔獣は、断末魔を上げる暇もなく一瞬で蒸発していく。
エリザベートが通った。ただそれだけの事実が、その場所に侵入を許さぬ絶対的な結界を焼き付けていた。
「まぁ、便利だけど……」
水無月は困惑を押し殺し、その道をまっすぐ進む。周囲を囲む魔獣たちは、喉を鳴らし、殺意を漲らせながらも、その見えない境界線に阻まれてただ見送ることしかできない。
この道が当主の書斎へ続いていることを確信した水無月は、その突き当たりで目撃した。
黄金の長髪をなびかせ、赤い着物を纏った大怪異が、哄笑を上げながら自らを引き裂いた獣を瞬時に握りつぶし、無へと帰した瞬間を。そして、冷酷なまでに輝く黄金の瞳が、残された一体――天空へと向けられるのを。
「待って!」
思わず、鋭い声が漏れた。
天空たちの行動は自業自得だ。だが、これほどの規格外の化物が侵攻してくることなど、彼らとて想定していなかったはずだ。そう。有体に言って、水無月自身、ここまでの戦力不均衡が起こるとは想像だにしていなかった。
味方が、見知った敵を蹂躙している。その事実が、これほどまでに胸を締め付けるものだとは。
「あぁ? おう、辰上の娘御か。今、そこな獣を排除する。少々待っとれ」
エリザベートは、面倒な雑務の途中で声をかけられたかのように水無月を一瞥すると、すぐに天空に向き直った。その手に再び魔力が凝縮される。
「“|我、汝に停止を命ず《それを待てと言ってるの》”」
反射的に、《王宮勅令》を放っていた。
一瞬、見えない重圧に空中で足を取られかけたエリザベートは、煩わしげに水無月を振り返る。
「なんじゃ。なんぞ作戦に変更でもあったのか?」
そこにあったのは、虐殺を愉悦する狂気の貌ではなく、命じられた作業を淡々と、極めて忠実に遂行する大怪異の姿であった。
「ないわ。でも、ちょっとやりすぎじゃない?」
「やりすぎ? わっちが?」
心底理解できない、という風に首を傾げるエリザベートを見て、水無月はその違和感の正体を悟った。
そうだ。普段の「英莉」は、常に徹底して無表情だった。それと比べて、今目の前にいる大怪異は、あまりにも表情豊かなのだ。
たったそれだけの違い。だが、それだけで彼女の言動から受ける印象が、これほどまでにおぞましく変質するのか。
別に、エリザベートは間違っていない。彼女は天乃から受けた「道を切り拓け」という命令を、最高の結果で実行しているだけだ。
水無月とて、別に味方に苦戦してほしかったわけではない。だが、ここまで一方的に、塵を掃くように蹂躙する光景を見せつけられると、自分の立っている場所が本当に正しいのか、足元が揺らぐような感覚に陥る。
狗飼朱音は間違いなく悪だ。他者の迷惑など一顧だにせず、己の渇望する希望を優先する。そんな生き方は容認されるべきではないし、それを実行に移す狗飼は、人としてどうかしていると思う。
だが。そんな狗飼だからといって、ここまでされる謂れがあるのか。これはあまりに過剰ではないのか。
水無月が抱いたのは、そんな些細で、しかし切実な疑念だ。決して、今さら情に絆されたわけではない。
果たして、エリザベートの主人である天乃慎は、この凄惨な状況を本当に良しとしているのだろうか。もしかして、彼らの間に深刻な認識の齟齬が生じているのではないか。
水無月の知る天乃は、これほどの蹂躙を無感情に肯定できるほど、冷酷な男ではないはずなのだ。
勝ち方に拘れと贅沢を言うつもりはない。だが、この一方的な暴力は、なんとなく――そう、生理的な気持ち悪さを伴っていた。
「お願い。ここはアタシに説得させて」
気づけば、祈るような言葉が口を突いていた。
エリザベートは不思議そうに目をしばたたかせたが、水無月の切実な瞳に何かを感じ取ったのか、意図を察してくれたようだった。
彼女の体が黄金の光に包まれ、次の瞬間には、元の幼い少女の姿へと戻る。
普段の黒髪・黒目ではなく、金髪・金眼のまま。表情筋もよく動く「エリザベート」の状態ではあるが、先ほどまでの世界を圧壊させるような威圧感は霧散していた。
「これで、よいかの?」
「ありがとう」
水無月はエリザベートに短く礼を述べると、荒い呼吸を繰り返し、もはや立っていることすら苦しそうな天空に歩み寄った。
「天空、もう止めさせてくれない?」
「水無月、様。それは……この天空の判断することでは――」
「違うわ。アンタが判断することなの。朱音を止めて。朱雀が言っていたわ。朱音の意に従うのが自分の役目だって。そして、朱音を諫めるのはアンタの仕事だって」
水無月の必死の訴えに、天空の瞳が揺れる。
「お嬢様を、諫める……」
「そう。朱音は間違ったことをしようとしてる。わかるでしょ?」
「――それでも、お嬢様は、そうしたいと望んでおられる」
「それでいいわけ!? これまでの悪ふざけじゃ済まなくなるわよ。本当に、取り返しのつかないことになる。人を、殺すことになるのよ!」
「この天空は――」
天空が絞り出すように言葉を繋ごうとした、そのとき、重厚な書斎の扉が、何の躊躇もなく開かれた。
「ふぅちゃん、見っけ」
場にそぐわないほど明るく、弾んだ声。
そこには、《百獣覇群》の主であり、この惨劇の引き金となった少女、狗飼朱音が佇んでいた。




