怪異の王の舞踏会――夜を歩く黄金
2036年8月8日 午後7時11分
エリザベート・ナイトウォーカーは前進する。
邸内を埋め尽くし、視界を遮るほどに群れ成す霊獣たちを、まるでお節介な羽虫でも払うかのように、白皙の手で丁寧に、かつ無造作に撥ね退けながら。目指すは数日前、案内役の天空に従って足を踏み入れた、あの主の書斎だ。
進むにつれ、エリザベートの肌に「一撃」を掠めさせる個体が現れ始める。狗飼朱音の《百獣覇群》が、侵入者の格に合わせて霊獣の質を底上げしているのだ。だが、結果は変わらない。黄金の魔力に触れた瞬間、獣たちは例外なく霧散していく。一撃入れて消えるか、一撃も入れられずに消えるか。その程度の、無意味な差異でしかなかった。
そして、最後の廊下に差し掛かったとき。
これまでの雑兵とは一線を画す、濃密な魔力を帯びた三体の霊獣が立ちはだかった。
揺らめく影を纏った巨大な虎――王虎。
しなやかさと剛健さを併せ持つ黒銀の獣――鋼牙。
そして、気高くも冷徹な眼差しを向ける白銀の狼――天空。
「元怪異の王、エリザベート・ナイトウォーカー」
鋼牙が、低く地響きのような声を出す。
「ここをどこだと心得る。我らが主の居城であるぞ」
「くかかっ、ようやくまともに話す獣が現れたか。余程、わっちのことが邪魔と見える」
エリザベートは、喉の奥から漏れ出すような笑い声を上げると、赤い舌で自らの上唇を妖艶に舐めた。その瞬間、垣間見えた鋭い牙が、一筋の黄金の光を放ったかのように鋭く煌めく。
「本来、数にて蹂躙するは我らの得手。それを正面から叩き潰されては、我らの沽券に関わるというもの」
王虎が静かに口を開く。
「故に、退去していただきますよ、エリザベート様」
白銀の狼の姿をした天空が、前肢を突き出し、静かに立ち上がった。
「そっちのは狗飼の眷属か。なんじゃ? 主人に尻尾を振らねば生きていけぬのか、うぬは」
「その程度の挑発に乗るほど短絡的ではありませんよ」
「どうじゃか。うぬの主にそこまでの仕え甲斐があるようには思えんのじゃが。同じく主を頂く者として、ご同情申し上げよう」
エリザベートのあけすけな侮蔑に、意外な反応が返ってきた。
「それについては激しく同感である」
「同じく」
鋼牙と王虎が、躊躇いもなくエリザベートの言葉に同意を示したのだ。
「……貴方達は一応、この天空の側でしょうに」
天空が、若干傷ついたかのように同僚の獣たちを睨みつける。
「勘違いは困る。我らの爪牙は今の主のためにあれど、心酔まではしておらぬが故に」
「然り。我らとて個別の意思がある。とはいえ――」
王虎は、そう述べると深く重心を落とし、臨戦態勢を取った。
「元怪異の王、人外の頂点、不死身の大怪異と呼ばれた敵と性能を競う機会を与えてくれるとは。気前のいい御仁だとは思っておるよ」
「同意する。その一点において、我は今の主に感謝を捧げよう」
鋼牙も既に、獲物を狩る直前の集中力で慎重に間合いを図っている。
「まったく、どこまでも戦闘狂ですね、諸先輩方は」
天空は呆れた声を漏らしながらも、戦いの熱からは逃れられない。
「くかかッ、実によい。わかりやすいではないか。だが、うぬら――もしかして不遜にも、わっちと一曲踊れるつもりでおるのか?」
ドクン、と。
エリザベートの心臓の鼓動が、物理的な振動となってその場に響き渡った。
「ならせめて、ドレスコードくらいは守ってから来い、獣風情がッ!」
次の瞬間、三匹の魔獣は抗う術もなくその場に叩きつけられた。
距離を測ったことも、臨戦態勢を取ったことも、すべてが無意味だった。エリザベートはその場から一歩も動くことなく、ただ放出された魔力の「圧」だけで、高位の魔獣たちを屈服させ、跪かせたのだ。
だが、今回は消滅しない。それどころか、上からの圧倒的な圧力を跳ね返そうと、獣たちは震える四肢に力を込め、立ち上がろうとする。
「何を呆けておる。わっちはまだ、うぬらを敵として視界に入れただけにすぎんぞ。勝手によろめきおって。ほれほれ、やる気はあるのか?」
息絶え絶えの三匹に対し、エリザベートは絶望的な事実を突きつける。元怪異の王という称号は伊達ではない。彼女の放つ威圧は、人間よりもむしろ、霊的密度の高い人外にこそ、劇的なまでの効果を発揮するのだ。
「悪いが、わっちにも制限時間というものがある。うぬらに割ける時間はもうないぞ」
エリザベートがこの姿を維持できるのは、あと数十分。だが、その数十分は、対峙する魔獣たちにとっては永遠にも等しい絶望の時間であった。
「王虎ッ! やむを得ん。汝を纏わせろ!」
鋼牙が影の虎に叫ぶ。その決断に従い、王虎は瞬時に鋼牙の影へと溶け込み、その肉体を覆い尽くした。王虎の影を漆黒の鎧のように纏った鋼牙が、再びエリザベートの前に立ちはだかる。
「くかッ、くかかッ! それが獣なりのドレスコードとやらか? ユーモアが効いていてわっちは好きじゃぞ? なるほど、確かにそれは燕尾服に見えんこともない。くかかかかッ!」
エリザベートは、自らの煽りに応じたかのようなその姿に、呵々大笑した。圧倒的な余裕。
だが、その刹那の「油断」こそが、獣たちの狙いだった。
王虎を纏った鋼牙が、瞬時に視界から消え去る。背後。音もなく出現した鋼牙は、その強化された牙と爪を以て、エリザベートの背を深く引き裂いた。あまりにもあっさりと、その爪は「不死」の肉体を通ってしまったのだ。
「く、か……」
だが、エリザベートの哄笑は止まらない。
「くかか「くかかか「くかかかかか――」」」
ハウリングを起こすように、幾重にも重なった哄笑が廊下に響き渡る。
引き裂かれたエリザベートの肉体は、視認できないほどの速さで再生を完了していた。そして、まだ着地の余韻の中にいた鋼牙の顔を、彼女は片手で無造作に掴み上げた。
――ぐちゃり。
嫌な音が響き、躊躇いもなく握りつぶされる。
王虎を纏ったままの鋼牙は、悲鳴を上げる暇もなく、王虎ごと跡形もなく消滅した。
「温い。何故、一度裂いただけで止まる。何故、一度攻撃が通った程度で満足する? わっちを舐めておるのか? 怪異の王という称号がただの飾りだとでも? 不死身の大怪異というのは虚飾だとでも? とんでもない! 全て事実じゃ。すっかり忘れてしまったというのであれば、思い出させるまでじゃぞ?」
冷酷なまでの黄金の輝き。
エリザベートは、ただ一体残された白銀の狼、天空を、その吸い込まれるような瞳で見つめた。




