異なる希望に狂える者たち
2036年7月31日 午後1時43分
それから約2週間。天乃らは、嵐の前の静けさとでも言うべき、表面上は穏やかな日々を過ごしていた。
結局、7月7日のあの出来事以来、狗飼朱音は一度も学校に姿を見せることはなかった。主の消えた狗飼家を巡っては、不穏な噂が絶え間なく流れている。前当主・玄磨が失踪し、狗飼が新当主に担ぎ上げられたという話から、彼女が実父を暗殺してその座を掠め取ったという物騒な憶測、さらには海外のオークションで怪しげな骨董品を買い漁っているという具体的な情報まで、その内容は信憑性の高そうなものから真偽不明なものまで多岐にわたった。
当の狗飼から天乃が呼び出しを受けたのは、慌ただしい終業式を終え、いよいよ夏休みに突入しようかという日の午後だった。
『折り入ってご相談があります。本日午後3時に狗飼邸をご訪問ください。狗飼朱音』
天乃の情報端末に届いたそのメッセージは、短くも拒絶を許さない響きを持っていた。
「主殿、賭けてもよいが、罠じゃぞ?」
隣で画面を覗き込んでいた英莉の言葉が、天乃の耳に冷たく突き刺さる。そんなことは言われるまでもなく理解していた。だが、直感的に悟ってもいた。おそらくこの機会を逃せば、彼女と対等に言葉を交わす機会は永遠に失われるだろう。
後は、それぞれの立場と信念が物理的に激突し、火花を散らす凄惨な結末が残るだけだ。狗飼は目的を諦めないし、天乃らはそれを挫くことでしか彼女の暴走を止める術を持たない。だからこそ――
「それでも、オレは行く」
「さようか、わっちは警告したからの」
呆れたように肩を竦めながらも、英莉は当然のように背後に従う構えを見せた。天乃はその無言の信頼を心強く感じながら、浅木を出るフェリーへと乗り込んだ。
2036年7月31日 午後2時53分
重厚な門を潜り、狗飼邸の前に到着した天乃と英莉を、メイド姿の天空が静かに出迎えた。天空は余計な私情を一切差し挟まない。ただ、主の書斎へと続く廊下を、機械的な正確さで天乃を先導した。案内を終えると、彼女は音もなくその場を立ち去る。
扉の向こうにいたのは、間違いなく狗飼朱音であった。
「こんにちは、天乃くん。わざわざご足労いただいて助かります」
そこへ天空がお茶を持って戻ってきた。澄んだ琥珀色の液体が注がれたカップを天乃らに差し出すと、彼女は影のように狗飼の背後に控える。
「どうぞ、お茶でも飲んで寛いでください」
狗飼の勧めに従い、天乃は出されたお茶に口をつけた。香りは高いが、その味を吟味する余裕はない。
「さて、本日お呼び立てしたのは他でもありません。少し、他でもない――貴方とお話ししたかったのです」
「それはオレもだ」
「それは重畳。私たちの思惑は一致していたのですね」
狗飼はそう言って天乃に柔らかな笑顔を向けると、淀みなく口火を切った。
「わたくしの話とは、大した話ではないかもしれません。もしかしたら、それは自明の理で、わたくしが盛大に勘違いしているだけかもしれません。だから是非、他でもないわたくしと似た貴方に聞かせてほしかったのです。――希望を求めることは悪なのですか?」
真っ向から投げかけられた問い。天乃は一呼吸置き、静かに言葉を選んだ。
「どうだろうな。希望を狂わしいほどに追い求めた果てに平穏とやらが見当たらないのであれば、少なくともそれを善と断じることはできないのかもしれない。もっとも、オレも狂おしいまでに希望を求めた側だ。偉そうな説教なんてするつもりは毛頭ない。それでも、他人を勘定に入れることができないほどに狂っているというのなら、それはきっと一般論的には悪なんだろう」
「そうですか。では、きっとこれからわたくしは悪を為そうとしているのですね。それはなんて、独善――いえ、醜悪とでも呼ぶべき蛮行なのでしょうか。それでも、狂おしいほどに焦がれるのです。もはや引き返せないほど尊いのです。わたくしの希望はどこまでも目映いのです」
狗飼の瞳には、熱病のような光が宿っていた。
「言っただろう? それを否定しきれるほどオレは自分を客観視できないわけじゃない。多分、オレ達は君の言った通り似た者同士だ。譲れないもののためにちゃんと狂えるという一点において、オレ達はとてもよく似ている」
「光栄ですね。ねぇ、わたくしと似た貴方。わたくしはちゃんと希望のために狂えているでしょうか? もしかして、とんでもなく的外れな衝動に駆られてはいないでしょうか? わたくしの希望に恥じぬ輝きを示せているでしょうか?」
「本人の迷惑を顧みないのであれば、きっと」
天乃の皮肉めいた、しかし核心を突いた答えに、狗飼は小さく笑った。
「やはり、迷惑なのでしょうね。えぇ、えぇ。それはわかっていますとも。ですが、そうでなくてはわたくしの存在意義はどこにあるのでしょうか? 本人が望んでも得られない結果を叩き出すことでしか、わたくしは己の存在意義を示すことができないのです。だって、わたくしはわたくしの希望に最高に輝いていてほしいから」
彼女は語り続ける。その対象――水無月風華という「希望」のために。
「そのために一時的に光を曇らせることもありましょう。それでも、それは単なる踏み台。跳躍のためには屈伸が必要なのと同じです。その先に、わたくしの希望が本当に輝ける世界があるというのであれば、本人すらも諦めた境地があるとするならば……それはやはり、わたくしが叶えてあげたいじゃないですか」
「じゃあ、やはり?」
「わたくしにここに留まるという選択肢はありません。わたくしは必ず自身の希望の最大限の輝きを達成するために奉仕するのです。そのための方法に倫理観が伴わなかろうと、唾棄すべき邪悪と成り果てようと。引き返す地点はとうに過ぎ去ってしまいました」
宣告だった。彼女の意志は、もはや対話で揺らぐ段階にない。
「そうか。だったら同じだ。オレも新たな希望を得た。それはかつて狂った希望ではないかもしれない。だけど、オレはオレの希望を輝かせる。そのために、邪魔になるものは排除する。……君の希望とは相容れない。そう、“直観”した」
「そうですか。それは、とても残念ですけど。仕方、ありませんよね」
「そうだな、仕方ないことだ。オレにはこの世界で為すべきことがある」
狗飼と天乃は、互いの視線を外すことなく、致命的に分かり合えないことを確認し合った。それは初めから確認するまでもなく決まっていた結論だったのかもしれない。だが、天乃はそれを決して無駄な作業だとは思わなかった。
こうして狗飼と天乃は、分かり合うことなく決裂した。
分かり合えなかったのではない。ただ、己が信じる希望を全うするためにこそ、相容れない敵であることを認め合ったのだ。だからこそ、この二人が刃を交えるのは、運命というよりは必然、初めから決まっていたことなのだ。




