噛まずに呑み込む
2036年7月14日 午後9時33分
場所は第3学区。天乃の住むマンションと通っている学校が併設されている、静かな居住区画である。街灯がまばらに照らす夜の路上、そこにいたのは天乃と英莉、そして、以前の戦いで深手を負いながらも再起を果たした《行き止まり》だった。
「それで? 俺の標的の居場所はまだ掴めねぇのか?」
不機嫌そうに、地を這うような低い声が響く。昨日の会議の内容と、今後の大きな流れを改めて《行き止まり》に説明した直後、彼からは苛立ちの混じった問いが返ってきた。
「『壊し屋』か。いや、まだ『仲介屋』からその居場所は聞いてない」
「だったら、そいつの居場所を最優先で探すよう『仲介屋』に伝えておけ。あんときと違って俺ももう全快だ」
《行き止まり》は、檻から放たれる直前の獰猛な獣のように、暗がりの向こうを睨みつけながら吠えた。失ったはずの闘志は以前にも増して激しく、復讐の炎を燃え上がらせている。
「わかった。こっちの作戦でも『壊し屋』の撃破は挙がってたからな」
「勘違いすんなよ。こいつァ、俺個人のリベンジマッチだ。テメェらの都合なんざ知ったこっちゃねェんだよ」
吐き捨てるような言葉。そこに協力の意志など微塵もない。あるのは純粋な殺意と、己のプライドを懸けた再戦の要求だけだった。
「お互い様だ。オレ達もオマエを利用する。オマエもオレ達を利用してくれ」
天乃が淡々と、突き放すように言い切ると、《行き止まり》は口の端を吊り上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「はっ、そいつァ重畳。妙な仲間意識を持たれても困るからなァ」
背中を見せ、闇に溶け込むようにして《行き止まり》はその場を立ち去った。その足音が完全に消えた直後、背後の空間が陽炎のように揺らめく。音もなく現れたのは、『仲介屋』だった。
「《行き止まり》への対応はあれでいい。奴を最大限、効率よく使用するにはこの距離感が適切だ」
感情を排した『仲介屋』の評定に、天乃は小さく頷いた。
「あぁ、これで機嫌よく立ち回ってくれるならありがたいことだ。ところで、『壊し屋』の居場所に心当たりは?」
「あるが、奴らの激突はタイミングを選びたい。少し保留だ」
「わかった」
深追いはしない。盤面をコントロールする『仲介屋』には、彼なりの計算があるのだろう。短く事務的なやり取りを交わし、二人の会話は終わった。
「わっち、この中で一番人の心があるかもしれぬ」
冷徹な合理主義者たちが去った後、その横でずっと控えていた英莉が、月を見上げたまま無表情でぽつりと呟いた。その言葉は夜風にさらわれ、誰に届くこともなく消えていった。
2036年7月14日 午後7時33分
前当主、狗飼玄磨の失踪。その衝撃的な一報を受け、狗飼は所轄の警察署で長い聴取を受けていた。現場に死体も争った形跡も残されていない以上、法的には「失踪」という形を取らざるを得ない。形式上の手続きを終え、署を後にした狗飼の足取りは、心なしか重い。
「天空、めんどいから今日はもう帰って寝ていい?」
「だめです、お嬢様。せめて何か召し上がってください」
運転席の天空がバックミラー越しに淡々と告げる。狗飼は後部座席に深く身を沈め、窓の外を流れる夜景を力なく眺めた。
「うー、噛むのもめんどい」
「点滴でよろしいですか?」
「よくないよ!? もっと気を使って?」
「そうですね。お嬢様は最愛の父親が失踪した可哀想なお嬢様でした」
抑揚のない天空の言葉には、隠しきれない皮肉が混じっていた。
「なんだよ、天空ぅ。何か言いたげじゃん」
「いえ、だったら、もう少しらしくなさった方がよろしいかと」
「うっさいなぁ、天空は」
いつもの軽口、いつものやり取り。父を失った悲劇のヒロインを演じるには、彼女はあまりに「いつも通り」すぎた。
そのまま天空の運転する車で自宅へと戻り、邸宅の奥へと足を踏み入れた狗飼を、聞き慣れた野太い声が呼び止める。
「よぉ、朱音。七輪で餅を焼いたんだが、食うか?」
縁側の陰、そこにはあまりに自然な様子で、失踪したはずの玄磨がどっしりと胡坐をかいていた。
「お父様、真夏に餅焼くとか頭おかしいの?」
「なら、いらねぇんだな」
「食べるけど」
狗飼もまた、その光景を不自然に思う様子はない。玄磨の隣に腰を下ろすと、香ばしく焦げた餅に手を伸ばす。
「それより、もうちょっと忍べません? お父様。一応、失踪してるんですよ?」
「忍んでる忍んでる。朱雀が見張りしてるから」
そう述べた玄磨は、熱々の餅を豪快に頬張った。
先日、玄磨を飲み込んだ霊獣「虚口」。その口内は文字通りの虚数空間へと通じている。そこは現実にはあり得ない、世界と世界の狭間に浮かぶ「虚無」の領域。現世への干渉を一切遮断する代わりに、外からの探知も物理攻撃も一切受け付けない――絶対の隠れ蓑なのである。
無論、その特性は玄磨自身も熟知していた。つまり、狗飼には最初から実の父を殺す気など毛頭なかったのだ。彼女は『殺し屋』の課した試験を「最大効率」でクリアしつつ、自らの手駒としての玄磨を温存するという、鮮やかな回答を選び取ったに過ぎない。
だが、それはあくまで「これが最も効率が良かったから」という冷徹な計算の結果だ。狗飼に殺人ができないかと言われれば、そんなことは全くない。必要とあらば、彼女はこの餅を食う気軽さで、誰の喉元でも掻き切れるのだ。
「それよりお父様。仕事はできているんでしょうね?」
「当たり前だ。朱雀みたいなこと言いやがって。っつうか、これ本来はお前の仕事だからな?」
「まぁまぁ、いいじゃないですか、そんな細かいことは」
「よくねぇだろ。表向きの俺は死んだことになってんだ。いつまでも代行ってわけにはいかないっての」
「もぉ、うっさいなぁ。そのうちやりますぅ! これでいいんでしょ」
「あっ、テメェ。俺の餅!」
狗飼は玄磨の手元から焼き立ての餅をひったくると、そのまま子供のように自室へと駆け出していった。
その騒がしい背中を、天空は冷めた目で見送る。噛むことすら面倒がっていた主が、あんな勢いで餅を食えばどうなるか。天空は迷わず、喉に餅を詰まらせる事態を予見して冷たい飲み物を用意すると、慣れた手つきで狗飼の自室へと向かうのであった。




