盤面を覆すジョーカーとの戦い方
2036年7月31日 午後3時24分
「よろしかったのですか、お嬢様。あのまま天乃様をお帰ししてしまって」
主客が去り、静寂が戻った書斎。天空の冷静な指摘に、狗飼は呆れた様子で首を振った。
「わかってないなぁ、天空は」
「……と、仰いますと?」
「あーくんの得意技は盤面をひっくり返すことだよ? 勝負の根本を覆すことに特化してるの。魔術師を完全にメタれる魔眼、戦闘最強の使い魔、『覚醒者』としての力と意思。どれをとってもまともにぶつかったらただじゃ済まない。だったら、わたくしは覆されてもなお止まらない状況を作るしかないの」
狗飼は正しく理解していた。天乃という存在は、単なる強力な万能札ではない。ゲームの前提そのものを無効化し、ルールを書き換えてしまうジョーカーなのだ。狗飼のような、搦め手や駒の配置に特化した能力では、正面からぶつかっても本質的に対抗できないということを誰よりも理解していた。
「ま、だからどうしたって感じなんだけどね。わたくしは必ずそれを凌駕する。だって、そこに希望があるんだから。でもそれは今じゃない。わかった?」
「はい。差し出がましい真似をしました」
「いいよ。それが天空の役割でしょ。わたくしを否定して、甘やかさずに追い詰めて追い立てる。そうでないと、わたくしは怠けてしまうから」
そう言って狗飼は相好を崩した。その瞬間の顔は、冷酷な当主でも狂える求道者でもなく、どこにでもいる年相応の少女のようでもあった。
「だから、ちゃんと感謝してるよ」
「もったいないお言葉です」
天空は深く一礼すると、音もなくその場を後にした。
「――だから、わたくしは待ってるよ。そのときを」
主のいなくなった書斎で、狗飼は静かに、しかし確かな熱を込めて呟いた。
2036年7月31日 午後3時24分
「追手はなし。どうやら本当に話し合いだけじゃったようじゃな。意外じゃの」
狗飼邸からの帰り道、周囲を警戒していた英莉が、訝しむように狗飼を評した。
「そうか? 狗飼さんは狂気の中にもちゃんと計算が潜んでいる。引くべき時にはちゃんと引けるし、本人の判断は冷静そのものだ。ここでオレ達を襲撃するリスクとリターンを冷静に天秤にかけた結果なんだと思う」
「むむむ。主殿は狗飼の娘御と妙に気が合うんじゃな」
「気が合うっていうか、多分同族なんだ。視座が似てるんだよ。オレは魔眼込みの”直観”ありきでそう判断してるけど、狗飼さんは勘だけで同じ視点に立ってる気がする」
「じゃからといってこの時点で襲撃を仕掛けん理由もない気がするんじゃがの。だって、わっちらはどのみち数日中にぶつかるんじゃろ?」
「その数日の差が大きな差だと、オレも狗飼さんもわかってるんだよ」
「そんなもんか」
「そんなもんさ。――だから、『仲介屋』」
天乃が呼びかけると、空間が鋭く割れ、『仲介屋』が滑り込むように姿を現した。
「何だ」
「決行日は8月8日の夜。それでいいな」
「いいだろう。《行き止まり》に『壊し屋』をぶつけるのも同時刻を予定している。『壊し屋』は他のプレイヤーが動くときに動くからな。《行き止まり》は足止めには最適だろう」
「緋澄は?」
「一応、予備戦力として控えていてもらう。『殺し屋』が動くかもしれないしな」
「オマエは?」
「神薙、神野と共に控えておく。対『仕切屋』戦のため、なるべく奴らの存在は秘匿したい」
『仲介屋』の布陣を聞き、天乃は状況を整理するように口に出した。
「だったら、狗飼さんを相手にするのはオレと英莉、水無月、彩芽か」
「正確には、おそらく『金融屋』も動くだろう。奴はオレとは違って直接介入はできないはずだが、権能――財宝を用いた補助をしてくる可能性は高い」
「総力戦というわけじゃな」
英莉がポツリとつぶやくと、天乃と『仲介屋』は同時に、静かだが重い肯定の頷きを返した。




