「おやすみ」から「おはよう」まで、暮らしを支える大怪異
2036年6月7日 午前7時23分
「主殿よ。そろそろ起きんと、学校に遅刻するぞ?」
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、寝室の空気を白く染めている。
枕元で声をかけ、主の体をゆするのは、十歳ほどの幼い外見をした少女――英莉だった。艶やかな黒髪に赤い和装を纏い、人形のように整った顔立ちには一切の感情が浮かんでいない。
揺り動かされた天乃は、重い瞼をこじ開けるようにして身じろぎした。彼はこの魔術特区「浅木」において、魔術に関するあらゆる知識と記憶を失ってしまった少年である。
「――うっ、あ、頭が、ガンガンする。あと、体中が痛い」
「さようか。昨日はいろいろあったからのぉ」
這い出すように身を起こした天乃の言葉に、英莉は「うんうんと」深く頷いている。
「待て。体中の痛みは、昨日の水無月の無茶な命令のせいで酷使した結果だとしても、だ。頭痛の件は明らかにお前のせいだろっ!?」
天乃が苦悶とともに指摘した『水無月』とは、昨日行動を共にした少女、水無月風華のことだ。
小学生くらいの年齢に見えるが、天乃と同い年であるという彼女は、その小さな身体に不釣り合いなほど巨大な制服を身に纏い、《王宮勅令》という魔術を操る。他者を命令一つで操作するその術式は、天乃の肉体的限界を強制的に突破させた。その恩恵で天乃は、襲撃してきた傭兵を撃退する八面六臂の活躍を見せたのだが、代償としての凄まじい筋肉痛が今、全身を苛んでいるのである。
「はて? わっちに落ち度があると?」
「いや、ちょっとは加減しろよ。昨日の記憶があれで終わってるってことは、あれで気絶したってことだろが」
天乃の脳裏に、昨晩の光景がフラッシュバックする。
2036年6月6日 午後23時15分
「んあ? 生活費?」
風呂上がり、バスタオル一枚という極めて無防備な格好でパソコンをいじっていた英莉が、天乃から問いかけを受けて、反応する。
「そうだよ。ここの家賃にしろ、光熱費にしろ、食費にしろ。そういった生活はどうやって成り立っているんだ?」
「そうじゃのう、基本的には主殿の私財じゃな。わっちを討伐したときとかの報奨金がたんまりと出ておる。それこそ、主殿がその名のとおり、慎ましやかに生きる分には一生困らん額じゃな。く、かか。じゃが、まぁ、このとおり、実際はわっちは首輪を付けられながらもこうして生きておるわけじゃから、騙し取った金といえばそうじゃの。それをわっちが管理しておる」
「え? 英莉が管理してるの? っていうか、騙し取った金って……」
「まぁ、そこら辺は気にするな。討伐の概念の中に無害化も含んでおる。そういう意味ではわっちほど無害な使い魔も居るまい」
英莉は薄い胸を張って自慢げに言い放つ。
「どうなんだろう? 全身を禁書指定された魔導書で固めてる英莉が無害かといわれると。ちょっと疑問符が溢れてくるな?」
「気にするな」
英莉は殊更に無表情を決め込んだ。
実際のところ、彼女の肉体は主に『闇の眷属』という魔導書で構成された非人間である。その人格は、かつてエリザベート・ナイトウォーカーと呼ばれた伝説的な人外の化け物が担っており、髪のリボン――魔導書『魔人の枷』を解けば、真の姿を現すことのできる最強の「使い魔」なのだ。
「……で? 英莉が管理してるってのはどういう意味さ?」
「言葉の通りじゃよ。わっちが金銭管理については全権を委任されておる。わっちは不眠不休でも動けるこの身体で、有り余る時間を利用して一部を個別株や信用取引などの投資に回したりして資産を増やしておるからの。今もやっとったのじゃ。ちなみに、確定申告もわっちが主殿に代わってしておるぞ」
主の経済状況を完全に把握し、投資の運用までこなす使い魔の言葉に、天乃はしばらく絶句した。
「なんか英莉ってさ。人外の化け物を自称する割に世俗にまみれすぎじゃね?」
「仕方あるまい。元は主殿が行っていたことなのじゃが、無理矢理教え込まれたのじゃ」
「……あの、じゃあ。オレってある意味オマエのヒモなのでは?」
「原資は主殿の金じゃからな。そういう概念に当てはまるかは微妙じゃ。それに、奴隷を仕事で使って金を稼ぐ者がおっても、それはヒモとは呼ばんじゃろ?」
「いや、奴隷って概念がいまいち、オレの中で飲み込めてないわけだが」
「……ふむ。なるほどのぉ。わっちにとっては割と最近まであった制度なのじゃが。要はあれじゃ。別に良いのじゃぞ? 何をしても。このとおり、わっちは無防備じゃから。有り余る性欲をぶつけて貪って貰っても一向に構わんぞ?」
英莉は天乃を揶揄うように、煽情的な仕草でバスタオルから覗く肢を晒す。しかし、その身体つきはあくまで幼い少女のそれであり、天乃の目にはシュールな光景としてしか映らない。
「冗談はそれくらいにしてだ」
「冗談ではないぞ?」
「――え?」
「――ん?」
「あの、英莉さん、実際のところどうなの? そういうのってオレらの間で経験あるの? ないよね? ね?」
「それについては内緒じゃ。わっちの口からいうものではないのでな。それに、主殿には伝えたじゃろう? 『闇の眷属』の機能については」
「――確か、自立型暗殺人形で。場合によっては色仕掛けをするために姿を自在に変化させられる……だった、な」
「なんじゃ、覚えておるではないか。つまりじゃ」
英莉が言葉を切り、静かに目を閉じる。
すると、魔法の早回しを見るように、彼女の手足がみるみると伸びていった。十歳ほどの幼女だった英莉は、瞬く間に天乃と同年代の少女の姿へと変貌を遂げる。
もともと人形じみて整っていた顔立ちは、成長したことで息を呑むような美貌へと完成された。その美少女が、今やバスタオル一枚という危うい姿で天乃の眼前に立っている。
「ま、こんなものか。どうじゃ? これなら、襲いたくなったか?」
「――っていうか、びっくりした。そっちの気持ちの方が圧倒的に大きい。魔術って改めてすげえな」
「くっ、こやつ。魔導書の機能に純粋に感動しておる、じゃとっ!?」
「ちなみに、見た目を弄れるなら普段はなんであれくらいの年齢なんだ?」
渾身の誘惑をスルーされ、プライドを傷つけられた英莉は、不機嫌そうに椅子へ座り直すと頬杖をついた。
「単純な話じゃ。いつの時代も子供の――しかも女児の暗殺者ほど相手が油断する対象はいないということじゃ。問題があるとすれば、子供には体力も腕力もないということじゃの。じゃが、その点、わっちは魔力で補うことで鉄の塊をひしゃげさせるほどの膂力を出すことができるし、不眠不休で活動しても魔力切れにならん限り支障ない。――理想的な暗殺者の出来上がりというわけじゃな」
「なるほどな。改めて思うが、そいつの製作者は頭のネジが飛んでるな」
「同感じゃよ。――――ん?」
英莉がふと思いついたように、無表情な面持ちをわずかに和らげる。枷を外した真の姿であれば、さぞわかりやすいニヤリとした表情が見えたであろう気配がした。
「どうかしたか?」
「え? うむ。主殿よ、今日はあれじゃな。わっち結構魔力を消耗したのじゃよ。ただでさえ、一週間は間隔があいとるしな。そこで、じゃ。主殿の血をもらおうと思うのじゃが」
「え? あー、そうか。契約か。確か、英莉からは魔力提供を要求できるんだったな。まあ、それ自体はいいんだが。加減しろよ? アレはかなり意識を持っていかれかけたからな」
天乃が懸念したのは、記憶を失った直後の初対面で見舞われた、あの激しい吸血のことだ。
「それは気にせんことじゃ。ほれほれ、もっと近う寄れ?」
英莉は立ち上がると、ぴょんぴょんと跳ねて天乃を招く。
バスタオル一枚の同年代の少女に抱き着かれるという状況。天乃はせめて見た目だけでも元に戻してほしいと思ったが、それを口にするのは負けのような気がして、意を決して彼女に歩み寄った。
英莉はその天乃の内心を見透かしたように、蠱惑的な笑みを湛えて待ち受ける。そして、正面に来た天乃に勢いよく抱き着き、柔らかな感触を押し当てながら、つま先立ちでその首元に牙を突き立てた。
全身を走る凄まじい悪寒と、吸い上げられる生命力。
「英、莉!? 加減し、ろって――」
抗う術もなく、天乃の意識はそこで深い闇へと落ちていった。
2036年6月7日 午前7時25分
「はて? わっちには心当たりはないの」
回想から戻った現在の英莉は、白々しくも惚けて見せる。
「ずいぶんと都合のいい記憶力だな。おかげで、貧血気味で頭痛がするよ」
「さようか。つらいな、主殿も」
英莉は目を逸らし、他人事のように言い放った。おそらく誘惑をスルーされたことに対する意趣返しのつもりだったのだろうが、本人もやりすぎたと思っているようである。
「ずいぶんと他人事だな、おい」
「それより、飯を食え。時間がないのじゃ。今日は土曜日じゃから、学校は午前中までじゃ。午後はゆっくりとせい。な?」
「ありがとうよ。もっとも、昨日の経験からすると、とてもではないが、ゆっくりとはできなさそうだがな。ははは」
天乃の乾いた笑いが部屋に虚しく響く。
「うっ、悪かったのじゃあ!! じゃが、そんな主殿に朗報じゃ。なんと、このわっちが直々に主殿の護衛を買って出ようではないか。常にな」
「は? 何言ってんの? 俺、これから学校に行くんだけど」
「く、かか。そんなことは些細な問題にしかならん。大事なのは、主殿じゃからな」
「どういう意味だよ」
「まぁ、任せておけ」
根拠不明の自信を見せる英莉を不審に思いながらも、天乃は用意された絶品の朝食を平らげ、登校の準備を済ませた。
時間割によれば、土曜日は魔術関連の授業が中心の四限構成。天乃は魔術を使えない者らが集まる特別クラスの所属だが、彼には魔力を色で知覚できる特殊な魔眼が備わっている。基本的には魔術を扱えない未成年として特区に在住しているが、その実態は魔術師との遺伝的関係を調査される特例的な学生であった。本日は月に一度の実習見学の日でもある。
「さて、じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「そうじゃな、留守番は任せろー。――じゃないわ! 危うく見送るところじゃった。わっちも往くぞ」
「いや、冗談はいいから。どこの高校生が幼女を伴って学校に行くんだよ」
「幼女いうな。わっちは冗談などいってないぞ? ――主殿よ。存在強度の話はしたな?」
天乃は思わず足を止めた。存在強度――この世界における「死にやすさ」の指標。世界から異物として認識されている天乃の存在強度は極端に低く、文字通り「空から飛行機が降ってくる」レベルの理不尽な死が常に隣り合わせにある。
「……まあ、覚えているよ」
昨日の死闘を思い返せば、英莉の過保護な主張にも無視できない正当性があった。
「だけど、実際無理だろ? オマエがついてくるなんてことはできないはずだ」
「いーや、ここは譲らんぞ。もう蚊帳の外は嫌なんじゃ。わっちにも主殿を守らせてくれ」
英莉が頑なに食い下がっていた、そのとき、第三者の声が割り込む。
「おうおう、どうしたよ、お二人さん」
背後からかけられた声。振り返ると、そこにはサングラスをかけ、天乃と同じ制服を纏った少年――間森啓吾が立っていた。天乃より十センチほど背が高く、引き締まった体躯を持つ彼は、記憶を失う前からの親友である。
「啓吾か。なんでここに?」
「なぁに、記憶を失った友人が、一人寂しく登校するのが心細いだろうと思ってきてみれば。まさか痴話喧嘩の最中とはなあ」
「そんなんじゃねえよ。ただ、こいつがオレについてくるってきかないんだよ。っていうか、啓吾は英莉のこと知ってるのか?」
「ん? まあな。で? 英莉ちゃんが慎についていきたいって?」
「そうじゃ。言っておくがわっちは――」
「いいんじゃねえの?」
間森の呆気ない肯定に、天乃と英莉が同時に声を上げた。
「え?」
「は?」
「実際、英莉ちゃんに守ってもらうのが一番だろう? お前は今、死に易いんだから」
間森は事も無げに言い放ち、天乃の背中を叩いた。
その言葉は、昨日の嵐のような一日の終わりと、新たな日常の始まりを象徴しているかのようだった。




