虚空の命名式と溢れ出す魔獣の予言
2036年7月13日 午後5時22分
用件は本当にそれだけだったようで、観覧車を降りたジェーンは、人混みに紛れるようにしてそのまま忽然と姿を消した。後に残されたのは、重苦しい情報の残滓と、天乃と御堂の間に流れる、なんとも言えない気まずい空気だった。
「えっと、どうしよっか」
御堂が、どこか落ち着かない様子で躊躇いがちに口を開く。
「そう、だな。どうするかな」
時間的には、そろそろ潮時と言ってもいい頃合いだった。だが、このままデートを切り上げてしまえば、それは「ジェーンの介入によって楽しい時間が台無しにされた」と認めることと同義だった。せっかくの平穏を、あのような殺人鬼の言葉一つで終わらせたくない――その思いは、二人の間で静かに一致していた。
「なんじゃ? 他にも乗り残したアトラクションがあるなら行っておくがよいぞ? あの殺人鬼の小娘のせいで、今後は嫌でも忙しくなりそうなんじゃからな」
背後で控えていた英莉が、いつもと変わらぬ無表情のまま、淡々と二人を促した。その言葉には、迫りくる嵐の前の、最後の静寂を噛み締めておけという彼女なりの配慮が滲んでいるようにも聞こえた。
「じゃあ、観覧車。もう一回どうだ? 今度は、二人だけで」
天乃の不意の提案に、御堂は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んで応じた。
「二人で――うん。そうしましょう」
2036年7月13日 午後5時40分
二度目の観覧車。
ゴンドラの扉が重厚な音を立てて閉まると、外界の雑音は遮断され、再び認識干渉術式が起動する。周囲の景色がゆっくりと透き通り、二人の足元には、黄昏時の13区が箱庭のような美しさで広がっていった。
「……さっきより、綺麗ね」
御堂が窓の外を見つめながら、祈るように呟く。地平線の彼方に沈んだ太陽が残した薄紅色の残光と、街の灯りがひとつ、またひとつと点り始める様は、まるで暗いビロードの上に宝石を散りばめたような輝きを放っている。
「そうだな。さっきは……それどころじゃなかったからな」
天乃は御堂の隣に腰を下ろし、同じ景色を眺める。
ゴンドラの揺れに合わせて、二人の肩がかすかに触れ合う。先ほどまで殺気を振りまいていたジェーンが座っていた場所には、今は誰もいない。ただ、夕闇が二人を優しく包み込んでいる。
「ねぇ、そういえば……私、あんたのこと、ちゃんと名前で呼んだことないかも」
御堂がふと顔を上げ、天乃を見つめた。その瞳には、夜の帳と、下界の光が複雑に反射し、えも言われぬ深みを湛えている。
「そういえば、そうか?」
「そうなの! 気にして!」
「いや、そうは言ってもだな。こう、改めて名前で呼ばれるってのは……どうにも照れくさくてな」
天乃が僅かに視線を逸らし、後頭部を掻きながら答える。その反応が意外だったのか、御堂は頬を少し赤らめて言い返した。
「なんで、あんたがそんな反応なのよ! 私だって呼びづらいじゃない……」
「いや、大丈夫だ。好きに呼んでくれ」
天乃が観念したように息を吐くと、御堂は視線を落とし、唇を微かに動かして、何度も呼び方を試行錯誤し始めた。
「慎……くん。……なんか、違う感じがする。しっくりこないわね」
御堂は首を傾げ、口の中で言葉の響きを確かめるように繰り返す。
「――天乃、慎。慎さん、先輩。……ううん、違うな。――慎。うん、これかな」
「決まったか?」
「うん。慎って呼ぶことにした」
「……先輩も、捨てがたい気がするがな」
天乃が冗談めかして笑うと、御堂はまっすぐに彼の目を見据え、少しだけいたずらっぽく、だが真剣な声で告げた。
「やだよ。慎って呼びたい。……ダメ?」
上目遣いで、少しだけ甘えるような声音。
「ダメなもんか」
天乃の短い答えに、御堂は満足そうに微笑んだ。
「うん。じゃあ、改めてよろしくね。慎」
「あぁ、よろしく、彩芽」
ゴンドラが頂点に達し、機構がわずかに静止した瞬間。世界は完全な静寂に支配された。地上を走る車の光も、遠くの街の喧騒も、今は遠い異世界の出来事のように思える。ただ、密室のような空間の中で、二人の心音だけが互いの存在を確かめ合うように、静かに、強く重なり合っていた。
2036年7月13日 午後6時01分
幸せな余韻を切り裂くように、ゴンドラを降りた二人を待ち構えていたのは、夕闇に溶け込むような黒いローブを身に纏った『仲介屋』であった。その佇まいは、遊園地の浮かれた空気から完全に遊離しており、一目で「日常」の終わりを告げていた。
「すまんが、休暇は終わりだ。状況が変わった」
低く、感情を排した声。天乃は、隣に立つ御堂を庇うように一歩前に出る。
「『殺し屋』と狗飼さんが手を組んだ以上の出来事が起こったのか?」
天乃の問いに、『仲介屋』はフードの奥の視線を鋭くさせた。
「あぁ。まず、狗飼朱音だが、正式に『金融屋』の駒となっていた。『殺し屋』と手を組んだのはその後の出来事のようだ。そして、それを受け『占い屋』の予言が出た。――『魔獣は溢れる。結果は鋳造される。そして世界は巡る』。現状では意味不明だが、『占い屋』の予言は絶対だ」
「魔獣は溢れるってことは、襲撃が起こるってことか?」
「かもしれんな。『占い屋』の予言は絶対だが、常に解釈の余地がなくはない。そうだという思い込みは危険だ」
『仲介屋』は淡々と事実を積み上げ、天乃に警告的な目線を向ける。
「とりあえず、例の面子に近いうちに集まるよう声をかけてくれ。狗飼朱音がゲームを早急に畳もうとしている以上、こちらも悠長に構えてはいられない」
「ちょっと待て。まさか、来月のフォーラム前に『仕切屋』と決着をつける気か?」
「可能ならな。狗飼朱音の行動は正直想定外だ。動機も不明だしな」
その言葉に、御堂が確信を込めた強い口調で割って入った。
「朱音さんは、徹頭徹尾、水無月先輩のためだけに行動してるはず。……水無月先輩と一度、ちゃんと話し合いをしないと。今日の会合の結果も気になるし」
御堂の主張に、『仲介屋』はわずかに沈黙した後、肯定の意を込めて頷いた。
「そちらは任せた。オレは『金融屋』と『殺し屋』の動向に気を配る」
告げるべきことだけを告げると、『仲介屋』は空間を鋭く割き、音もなくその場から姿を消した。
残されたゲート前。先ほどまで二人で決めたばかりの名前の響きが、急に遠い過去のもののように感じられた。だが、繋いだ手の温もりだけは、これから始まる激動への確かな現実として残っている。
「彩芽、ちょっと水無月にこれから会えないか、連絡を取ってみてもらえないか?」
「わかった」
「オレは他の面子を当たってみる」
天乃の言葉に淀みはなかった。
夕闇が夜へと変わる中、二人はそれぞれの端末を取り出し、新たな盤面へと動き出した。




