暗黒の虚と、微笑む少女の適正診断
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「ふむ、それでこの私に何用かね? 『金融屋』の新しい駒――狗飼朱音と言ったかね?」
薄暗い空間に、冷え切った声が響く。声の主は『殺し屋』。その身に纏う殺気は、物理的な質量を伴って周囲の空気を歪ませていた。対する狗飼は、その濃密な死の気配を柳に風と受け流し、不敵な笑みを浮かべている。
「はい。率直に申し上げて、このゲームの進行速度について思うところがありまして。できればさっさと終わらせたいと思っています」
狗飼の言葉には迷いがない。まるで退屈な授業を切り上げたいと願う学生のような、軽薄さと切実さが同居した響きだった。
「終わらせたい? それと私のもとに来たことにどのような関連が?」
「貴方のタスクが最も手伝いやすそうだったからです」
「いいかね? プレイヤーはそれぞれのタスクを秘匿している。つまり、私とてそうだ。そんな私のタスクを手伝うなどと――」
「貴方のタスクは、特定の人物群の中から一定人数以上を殺害すること、じゃないですか? まぁ、『金融屋』さんの入れ知恵ですけど」
さらりと口にされた秘匿事項に、『殺し屋』の周囲の空気が一瞬で凍り付く。手の内を覗かれた不快感。しかし狗飼は、その沈黙を肯定と受け取り、言葉を継いだ。
「そう、そこが私たちがお手伝いできると思った点です。貴方のタスクと目的が真反対なプレイヤーがいますね。『護り屋』です。おそらく、あの陣営は貴方の妨害をすることでポイントを稼いでいる」
「似たようなものだろうと推察している。だが、本質的にそれは問題ではない」
『殺し屋』の声から感情が消える。それは純粋な「作業」を妨げられた職人の不満に似ていた。
「と言いますと?」
「私の権能にはデメリットがある」
「権能にデメリット? 『金融屋』さんにはなさそうでしたが」
「あぁ、おそらくデメリット付きの権能など私くらいだし、メリット能力が活用できないのも私くらいだろう」
皮肉めいた独白。上位存在たるプレイヤーであっても、この盤面においては等しく制約の鎖に繋がれている。
「そのデメリットとは?」
「これ以上の話をする前にテストをしたい」
「テスト?」
唐突な提案に、狗飼が首を傾げる。
「何、簡単な適正診断と思ってもらって構わない」
そう述べると、『殺し屋』は何人かの人物リストを提示した。空間に浮かび上がる文字列。そこに刻まれているのは、この世界のパワーバランスを支える重鎮たちの名だった。
御堂白夜、狗飼玄磨、右鏡多重、四星弦十郎――緋澄眞琴。見知った名前の数々が、ただの「標的」として羅列されている。
「あと、変わり種としてはいま日本に来ているロシアの戦略級――アナスタシア・チェルノワなんかがあるか」
「それで? このリストは何ですか?」
「この中から1人でいい。殺してきてくれ」
『殺し屋』の視線が、狗飼の魂を値踏みするように射抜く。
「わたくしが直接?」
「そうだ。君は『殺し屋』の手伝いがしたいんだろ? 当然、手を血で汚すことを厭うようでは話にならない」
究極の踏み絵。駒としての覚悟を問う言葉。狗飼はしばしリストを眺め、迷う素振りも見せずに一つの名を選び取った。
「――では、この人物にします」
指差された名を見た『殺し屋』の眉が、微かに動く。
「……正気か?」
「あ、今地味に傷つきました。殺人鬼に道徳を説かれる謂れはありません」
そういって狗飼朱音は、実の父である狗飼玄磨の名が書かれた紙を、軽やかな手つきで持ち去った。
2036年7月13日 午後2時36分
当主会議が終わり、静寂を取り戻した狗飼邸の一室。
午後の柔らかな陽光が差し込む中、狗飼はゆったりとした足取りで、書斎にいた父の前に立った。
「お父様ぁ?」
「なんだ。朱音」
玄磨は書類から目を上げることなく応じる。娘が当主となった今も、その親子関係に劇的な変化はないように見えた。
「いえ、大変恐縮なのですが、わたくしのため、しばらく死んでいてもらえませんか?」
「――ほう」
その異常な要求に、玄磨の手が止まる。
狗飼の背後の影から、物理法則を無視して「それ」が這い出してきた。
目がない。鼻もない。足もない。
ただ、顔の半分以上を占める巨大な「口」だけが、うねうねと蠢きながら、獲物を定めるように空気を震わせている。
「それは、虚口か」
「よくご存じで」
「ったく、やるなら一思いにやれ」
玄磨は抵抗する素振りさえ見せず、諦めたかのように両手を上げた。父としての情か、あるいは当主交代の儀を終えた隠居としての悟りか。はたまた覚悟と信頼か。
狗飼の合図と共に、虚口は暗黒の顎を広げた。
音もなく、玄磨の腕から、足から、その肉体すべてが闇の中に一飲みにされていく。
数瞬の後、そこには誰もいなかった。
椅子の上には、先ほどまで玄磨が手にしていた書類が力なく落ちているだけ。
こうして、狗飼家先代当主・狗飼玄磨はその場から消失した。
狗飼は、その空っぽの空間を見つめ、満足げに微笑む。
「さて、これでテスト合格。……でいいんだよね? 『殺し屋』さん」
彼女の瞳に宿るのは、加速する崩壊への純粋な愉悦だけだった。




