魔術
2036年5月29日午前10時03分
「夢――ではないかね?」
翌朝,天乃慎が目覚めたことにより,そのまま医師を名乗った壮年の男の問診が始まった。
天乃の推察通り,ここは浅木大学付属病院の一室であったのだ。
天乃が記憶喪失だと正式に判明し,その原因について医師が話そうとした際,ふと,天乃は昨晩に目覚めたときに起こった出来事について話したのだが,その時の医師の反応が,冒頭の言葉である。
「君の話には客観的な結果が一切残ってないのだよ。
窓が割れた音を聞いた者も,君の首筋の傷跡も何も残っていない。
いや,君の言っていることが本当だとすれば,痕跡がないことにも理由が付くがね。
そして,その少女は間違いなく魔術師だろうね」
(ん?)
疑問に思う天乃を置き去りに医師は言葉を続ける。
「音を消す魔術。
窓ガラスを再生する魔術。
人体の傷を再生する魔術。
変身魔術。
それと,おそらく飛行なり浮遊なり跳躍――身体強化かな?
それらのいずれかの魔術を使えることになる。
ここは,5階だからね」
(んん?)
今や天乃は混乱の極致である。
この医師がいったい何を言っているのか,ここが5階であるということ以外は,一切理解できなかったからである。
「だが,そのように高度な魔術を多彩に扱う魔術師は現時点ではまだ確認されていない。
演算領域の壁に阻まれるだろうからね。
まだ,君の見た光景が夢や幻覚だという方がしっくりくる」
「あのっ」
堪え切れなくなった天乃が声を上げる。
「何かね?」
「魔術って……何かの冗談ですか?
そんなもの,あるわけないじゃないですか」
今度は医師が困惑の表情を見せる番だった。
そのまま数秒の沈黙が流れると,医師は思い出したかのように言葉を発した。
「――なるほど,記憶操作に加えて常識改変まで行われているのか。
どおりで妙な反応だと思ったよ」
「と,言いますと?」
「君は,記憶喪失,正確には逆行性の全健忘,全生活史健忘だが
――その原因が何かは知っているかね?
主に心因性・外傷性・薬剤性・症候性・認知性などが知られているが,君の場合,そのどれでもない。
君がここに運ばれてきたのは昨日だがね。
その時点で君の記憶に何らかの障害があることはわかっていたのだ。
すなわち,魔術による外傷によらない直接の記憶操作だ。
記憶操作自体は珍しいものではない。
過去の魔術師たちは記憶操作を使用することで魔術の神秘を保っていたというしね。
ただ,全ての記憶を消したうえ,常識改変まで伴うとなると尋常ではない。
まさか,魔術が存在するという常識を改変し,なかったことにするとは。
――何の意味があるというのだ」
医師が難しい顔で改めて天乃に向き合う。
「よいかね。魔術というのは実在する現象の一種だ。
そして,それは広く世間に認知されている常識の部類だ。
物理法則を捻じ曲げることすら可能なものから,それは道具を使った方が手軽だろうというものまで,ピンからキリまである。
もちろん個人の資質にも関係する。
君に掛けられた記憶操作や常識改変は,技術的に不可能とはいえないものだが,君の場合,魔術の痕跡が見つかっている。
魔術の作用か否かは割とわかりやすいのだ。
先ほど言った演算領域というのも魔術用語だ。
魔術師には個人個人に演算領域というものが存在し,まぁ,簡単に言えば浅く広く多彩な魔術を扱うか,深く狭く一芸を極めるかという選択を強いられる。
向き不向きも当然ある。
その点で君の言った少女は深く広くやりすぎなのだよ。
だからこそ,ありえないという話をしたというわけだ。
わかるかね?」
「えぇ,だいたいは」
天乃は医師の説明を首肯しながら話の先を促す。
「そこで問題なのはだね。
この魔術というものは万人に拓かれた技術ではない。
かくいう私も扱える代物ではない。
扱えるのはせいぜい地球人口でいうところの7%弱といったところだろう。
意外と多い,と感じるか少ないと感じるかは個人の主観によるだろう。
ところがだ。
この特区――浅木に限ってはそうではない。
人口の約9割が何らかの形で魔術に関与しており,5割5分程度が魔術を扱える,そういう場所なのだ。
未成年――つまり,18歳未満に限るなら,魔術使用者は9割9分以上といったところだろうな。
というのも,この特区は,魔術を扱う才能を持った未成年者を集め,まずはその制御法を教え込む教育機関とその関連施設の集合体なのだから。
痛ましいことに,この制御法を会得する前に自分の魔力の暴走で死亡する新生児もいるくらいだからね」
「では,その僕も?
魔術を使えるはずだと?」
「いや,その意味では君は少数派だ。
君に魔術の才能はない」
天乃は,自分にも魔術の才能があるのかと思ったが,医師はあっさりと否定する。
「ん? あれ? 僕,未成年ですよね?」
「そうだね。
データ上,現在15歳。今年で16歳だ。
ただ,君はそうだな。なんというか。
『3親等以内に魔術使いがいる魔術の才のない者』に該当するのだよ。
そういった者についても今年度から第三高は募集していてね。
主に遺伝と魔術の関連性についての研究に協力してもらっている。
――ということになっている。
だから,そういった協力者に対する今回のような魔術に関する事件・事故は避けるべきであり――というのが建前でね。
今回の件は大変な不祥事になるわけなのだよ。
自衛手段の乏しい未成年の非魔術使いに魔術行使による攻撃など,大問題だ」
そう聞くと,天乃は,自分が途方もない大きな事件の当事者なのではないかと思えてくる。
「ただね,そのような事件・事故を防止するための『措置』は当然,用意してある。
君にこんなことを聞いても仕方ないと思うが,君の守護霊は今どこにある?」
守護霊という聞きなれない単語と詰問するような医師の口調に天乃は再び困惑する。
「君たち,魔術を扱えない者に対しては,この特区から守護霊が貸し与えられている。
これは普段は持っている所持している任意の物品に憑依しており,君たちとはパスでつながっている。
動力は外部供給だがね。
そして,有事の際には君たちを魔術的な攻撃から保護してくれる。
そして,守護霊は攻撃を無力化すると同時に警報を発令するように設定されており,その警報を受け取った最寄りの警備隊――この特区における警察機構のようなものだ。まぁ,とにかく警備隊が駆けつけるという仕組みになっている。
もちろん,濫用すれば,処罰されるのは君たちだがね。
ところが,だ。
君の所持品からは守護霊が憑依している物品は発見できなかった。
物理的な方法で守護霊が憑依した物品を奪われたという可能性もある。
しかし,だ。実は,守護霊は急迫の侵害の存在などの一定の条件さえそろえば,魔術的な守護だけではなく,物理的な盾としても機能するはずなのだ。
当然,警報も発令される。
にもかかわらず,今回はそのケースにも該当しなかった。
そして,仮に物理的に奪われたとしても,君が任意に手放したとしても,その時点で警報が発令されるようになっている。
今の君は守護霊とのパスがつながっているが,君の守護霊からの警報はなかったという状態になるわけだ。
そうすると,考え難いのだが,守護霊が警報を発する条件を満たす前に守護霊を無効化する手段が確立された可能性すら考慮しなければならない。
その技術は,この特区における未成年者の非魔術使いの安全を脅かすものだ。
わかるかね?」
「はぁ,おおよそ理解できました。
まとめると,今僕がいる特区とやらにおいて要被保護者である僕を守るはずの鉄壁のシステムが未知の手段によって無効化されてしまったってことでいいんですよね?」
「……理解が早くて助かる。
そこで,ここからが本題なのだが,君の記憶は魔術的な作用によって操作され,消去されているといったね。
これは正確に言うと,根本からなくなっているわけではなく,上から真っ新な記憶と改変された常識といういわば,印刷されたシールが張られて本来の記憶と常識が隠されているようなものなのだ。
つまり,そのシールさえはがせば,記憶と常識は元に戻る可能性が高い。
だから,その復元を試してみようと思う。
それが,守護霊を突破した方法の解明につながるかもしれないし,手っ取り早く君の傷病を回復させる手段でもあるからだ」
それは天乃にとって望むところであるが,医師の口調からすると,どうやら特区の安全とやらの方が重要性は高そうである。
もっとも,だからといって治療を拒否する理由はない。
自分の持つ情報によって今後の自分の安全面がより強化されるというのであれば,協力するのもやぶさかではない,というのが今の天乃の考えである。
「わかりました。治療はお任せします」
「そうか。では形式的なものだが,こちらの書類にサインしてくれないか。
印鑑はないだろうから,指印で構わんよ」
医師は予め用意していた書類を天乃の前に差し出してくる。
「えっと,保護者の同意とかはどうなるんでしょう。
未成年の同意だけではこういう大事なことは決められなかったような……」
「なに,そちらに関しては既に手配済みだ。安心するといい。
なにしろ,君の『3親等以内の魔術使い』こそが君の法律上の後見人であり,守護霊の使役者だからね。
現在,君に残ったパスを辿って守護霊を捜索中だ」
準備の良さと思った以上に情報通な医師を訝しみ,形だけの抵抗を試みる天乃であったが,あっさりと退路を断たれ,契約書にサインする羽目になった。
ちなみに,保護者欄には,百目鬼亜澄という署名が記載されており,押印もなされていた。
「ありがとう。
それでは,早速治療に移ろう」
「は? え? 今からですか?」
「そうだ,既に精神系の魔術師を呼んである。
今回の件は特異な事例でね。
早期の解決が望まれる。
あとは君の意識の回復を待つだけという状態にしていたのだ。
では,早速手術室へ行ってもらう」
「手術!?」
「外科的なものではない。
魔術的な意味での施術だ。
なに,記憶はすぐに戻るだろうさ」
「心の準備的なものは――」
「移動中にお願いしますよ」
柔和な笑みを浮かべた壮年の医師に見送られ,天乃は急すぎる展開に翻弄されながら看護師に導かれて手術室へ向かう。
部屋に残った壮年の医師は不自然にならないように注意しながら独り言を呟く。
「さて,そろそろこの病院は見舞い客であふれる時間帯だな。
この部屋の鍵に関しては開けておいても問題あるまい。
誰もいないし貴重品はないのだから。
彼の記憶は戻らんだろうが,退院は早くて7日後,再来週には確実に退院させよう。
では,健闘を祈るよ」
壮年の医師はそう言い残し,部屋を去る。
数分後,ベッドの下から這い出す者がいた。日本人形のような少女――英莉である。
結局,彼女は密室からの脱出を諦め,密室でなくなったところを出るため,ベッドの下に隠れていたのである。
英莉は誰にも見つからないように慎重に部屋を脱出し,そのまま見舞い客に紛れて病院を脱出する。
そのまま迷いなく進んでいく。
全て計画通りに進んでいることに安堵ではなく,疑念を覚えながら。




