忘却の目覚め、欠落した記憶
2036年5月29日 午前3時11分
天乃が目を覚ましたのは、深い夜の底であった。
胸の奥に疼くような疼痛を覚えたが、確認するまでもなく、そこに穴が開いているような事実はなかった。心臓は規則正しく、無事に鼓動を刻んでいる。
なぜ自身が「胸に穴が開いている」などという非現実的な想像を抱いたのか、その理由は定かではない。だが、今の天乃にとってそれは些細な疑問に過ぎなかった。目の前には、より重大な、かつ複数の問題が横たわっていたからである。
第一に、部屋の窓が大きく割れていた。
飛び散った破片が室内へと流れ込んでいる様から、外側から内側へ向けて強烈な衝撃が加わったものと推測される。
第二に、それほどの衝撃音があったはずであるにもかかわらず、今の今まで目が覚めなかったという不自然さである。果たして天乃は、この惨状を承知の上で眠り続けていたのだろうか。
第三に、ベッドの足元で眠るように目を瞑っている赤い和服を纏った金髪の少女の存在である。十歳ほどに見えるその容姿は、この寒々しい空間において異様なまでの存在感を放っていた。
そして何より根本的な問題として、ここがどこであり、自分がいったい何者であるのか、その記憶が一切抜け落ちていた。
しばしの混乱の後、周囲を観察した天乃は、ここが病院の個室であるという結論に至った。自身の格好が味気ない病衣であることや、室内に生活臭を感じさせる物品が存在しないことがその根拠であった。
しかし、仮にここが病院であるならば、窓が割れるような異常事態に誰一人気づかないはずがない。誰も様子を見に来ない静寂が、かえって不気味であった。
緊張感を欠いた睡魔が再び意識を掠めようとしたその時、足元にいた少女が赤い眼をひらき、天乃を観察していることに気づいた。
「お、はよう?」
天乃はとりあえず、通じるかどうかも定かではない言語で挨拶を試みた。
自身の声はひどく枯れ果てていた。まるで、長い年月、言葉を交わすことを忘れていたかのようであった。
「おはよう? おはよう、のう。そなた、今がそのような挨拶をする時間に見えるのか?」
予想に反し、その口調は幼い外見とは著しく乖離した、古風で流暢なものであった。天乃はひとまず、言葉が通じるという事実に安堵を覚えた。
「えっと、なんか寝てたみたいだから」
「そうか。今日は散々だったからのう。何度死んだかわからん。何が、『こういうものは侵入の方が難しくて脱出はゆるいものだよ』、じゃ。脱出も難しかったではないか」
少女は恨みがましい眼差しを向けてくるが、天乃には全く心当たりがなかった。
(何度も死んだ? ゲームの話か? いや、まずは状況の把握が先決だ)
「その……実は記憶が全くなくって。困ってたんだけど、何かわかることがあったら教えてくれないかな?」
「記憶がない、か。想定されていたことではあるが、面倒じゃな。その辺はわっちの管轄外じゃて。医者の世話にでもなるがよいわ。とにかく、わっちはわっちの用事を済ませる」
少女はそう告げると、ベッドの上をにじり寄り、蠱惑的な表情を浮かべて天乃へ距離を詰めた。
「えっと、何かな? 嫌な予感しかしないけど」
「まずは失った魔力を補充する必要がある。眠っておるうちに済ませてもよかったのじゃが、途中で起きられた際に説明するのが面倒でな。起きるのを待っておったのじゃよ。――率直に言うとな、わっちは、空腹なのじゃよ」
にじり寄る少女の牙が、天乃の首筋に突き立てられた。
その牙は容易く皮膚を穿ち、天乃は抵抗する術もないまま、血液と共に大量の「何か」を奪われていく。全身を猛烈な虚脱感が襲った。
「――――――――――」
叫び声を上げたはずであったが、音は喉を通り過ぎた瞬間に消失していく。
(そうか、窓が割れた音がしなかった理由は、きっとこれだ)
天乃の意識の片隅に、状況を冷徹に俯瞰する思考が宿っていた。その冷静さを自分自身で不気味だと感じながらも、思考は止まらない。
(だが、音が消える仕組みは何だ。この振動か? いや、今はいい。問題はこのまま殺されるか否かだ。少女は起きるのを待っていたと言った。ならば食事以外の用件があるはずだ。本当に空腹を癒すだけが目的ならば、眠っている間に済ませればいいはずだ)
(吸血鬼。思い浮かぶのはこれしかない。だが、伝承の類はどの程度当てはまる。太陽は、聖水は、十字架はどうか。吸血鬼は招かれない家には入れないのではなかったか。いや、そもそも記憶がない。思考がまとまらない。血を失いすぎたか)
意識が混濁し、消失しかけた頃、ようやく少女は吸血を止めた。
天乃の首筋に残されたはずの歯型は、映像を逆再生するかのように忽ち塞がり、消失していく。
「おっと、忘れんうちにこっちもな」
少女が割れた窓へと指を向けると、床に散らばっていた破片が宙に浮かび、元通りに窓枠へと収まっていく。
「いや、すまん。興が乗ってつい喰いすぎたようじゃ。まだ意識はあるかの?」
少女は気づかわしげな様子で、指先で天乃の頬を突いた。
「か、かろうじて」
思考の海から引き戻された天乃は、辛うじて意識を現実に繋ぎ止めた。
「そうか、それは重畳。まだ、そなたにはやってもらうことがあるのじゃ」
少女は和服の袖から一本のリボンを取り出した。
「これでわっちの髪を結うのじゃ。どんな形でも構わん」
手渡されたリボンを握りしめ、天乃は倦怠感の中で途方に暮れた。だが、いざ手を動かしてみると、初めからその動作が決定されていたかのように指が動いた。
少女の髪が元通りに結い直されると、金色の光彩が毛先から根元へと引いていき、漆黒の髪が現れる。
振り返った少女の顔は、典型的な東洋人のそれへと変化していた。人工的なまでに整えられたその姿は、和装も相俟って、まるで人形のようであると形容するに相応しかった。天乃は驚愕することに疲れ果てたのか、あるいは思考を放棄したのか、彼女をそういう存在なのだと無理やり納得させることにした。
「ほう、上書きは無事済んだようじゃの。さて、わっちの用件は終わりじゃ。いや、厳密にはもう一つあるのじゃが、それは後日としよう。質問があるなら答えるが、そなたの意識がもう持つまい。ちと、もらいすぎたからの」
ほとんど無表情ながら、どこか楽しげな雰囲気を纏う少女に対し、天乃は最後の力を振り絞って尋ねた。
「誰……なんだ?」
「この姿のときには、英莉と名乗っておる。名字は状況に応じて天乃だったり、夜歩だったり、百目鬼を名乗ったこともある。まあ、さまざまじゃな。決まったものはない。それとも、誰、とはそなた自身のことか? そうであれば、そなたは天乃慎に相違あるまい」
「天乃、慎」
自身の名を聞き届けた天乃は、糸の切れた人形のように崩れ落ち、深い眠りへと落ちていった。
「そうじゃとも、そなたが天乃慎に相違ない。これで世は全て事もなし、何一つ欠けてない盤面の出来上がりじゃとも」
人形のような少女はそう独りごちると、割れた窓を直したばかりの室内を見渡した。
「さて、どうやってこの病院を脱出したものか」
彼女は、脱出の手段について、再び頭を悩ませるのだった。




