6月6日
2036年6月6日午前6時52分
案山子が目覚めたとき,その男は既に案山子の部屋に侵入していた。
「よう,今日はお前の番だぜ」
「……何やってんすか?
非常識ですよー,勝手に入ってくるなんて」
「後方支援要員として,実働部隊の管理は俺の仕事だからだ。
といっても,もう俺とお前だけになっちまったわけだが」
案山子は目覚めたばかりの状態で,布団を手繰り寄せながら目の前の男を見やる。
男はサングラスをかけており,その視線がどこに向いているかはわからないが,とりあえず案山子は顔見知りの男に問い掛ける。
「おはよーございます。
ちなみになんでスーツなんすか?」
「今日は別件の仕事が入っていると言っておいただろうが。聞いとけよ」
「そーでしたね。っていうか,別件も何も――」
「――思い出したらならいい。
とにかく,今日のお前の仕事内容は天乃慎の護衛だ。
使える手は何でも使え。以上,だ」
「護衛って言っても,直接の接触はなしってことでしょー?」
「そうだ。それで,ちゃんと遺書は書いたんだろうな」
サングラスの男は手を差し出し,遺書を寄越せと案山子に迫る。
「やだなー。わかってるでしょー。僕が遺書を送る相手なんていないって」
対する案山子はへらへらと笑う。いつものように。
「困るんだよな。そこら辺の手続きは踏んでもらわんと。
今日お前は確実に死ぬんだからよ」
「世界の修正力ですかー。
正直ピンときませんねー」
「いいから,書いとけよ?
んで,この部屋においておけ,あとで回収してやるから。
俺はこれから所定の位置につく。
言っておくが,俺は今回は戦力にならんからな。注意してくれよ」
「わかってますよー。では,また会いましょー」
「そうだな,俺が死んだら,地獄で会おう」
そう言って男は部屋を出ていく。
「まったく,あの人は本当に,デリカシーという言葉がないのでしょーか」
2036年6月6日午前7時54分
そうやって別れた男から連絡があったのはわずか1時間後のことだった。
「どーしたんです?」
『時間がない。用件だけ伝える。
アーサー・リードが来ている。』
「アーサー・リード!? 何でそんな大物が?」
『知るか!
とにかく,立場上,俺はこの情報を知り得ないことになっている。
お前だけが頼りだ。周辺に利用できそうな魔術師はいるか?』
「このへんの普通の学生じゃー対抗できないっすよ。
少なくとも,準備抜きの《案山子》を長時間くらうよーなレベルじゃー逆に足手纏いっすね。
っていうか,あれに真面に正面から対抗できるのって,ここじゃあ《行き止まり》くらいしかいないんじゃないっすか?」
『……心当たりがある。
水無月風華だ。
彼女なら,対抗できるだろう。』
「誰っすか? そんな名前聞いたことないっすけど。
ん? ちょっと待ってください,『水無月』?
まさかとは思いますけど,『氷獄の麗人』の関係者じゃないっすよね?」
『そのまさかだ。』
「いやっすよ!
今日死ぬとしても,その死因が凍死だなんて!」
『議論している時間はない。
正直,俺もこの案には反対だが,逆に妙案かもしれないと思えてきた。』
「あーもー,わかりましたよ。
水無月家の位置情報は?」
『今送った。ついでに,彼女を誘導する位置も送った。
ここまで誘導しろ。
では,健闘を祈る。』
2036年6月6日午前8時05分
「あの娘? か?」
案山子は困惑していた。情報の位置から出てきたのは明らかに小学生にしか見えない少女だったからだ。
だが,その格好は附属第三高のものである。つまり,彼女はあの形で高校生なのだ。
――人を見た目で判断してはいけない。
案山子はそう思い直し,少女に向かって短時間で可能な限り練り上げた渾身の《案山子》を仕掛ける。
《案山子》のように人体に直接作用する術式は,魔術抵抗力や抗魔力と呼ばれる個々人に存在する抵抗力を上回る威力がなければ効果が発動しなかったり,中途半端な効果しか得られなかったりするのである。
後方支援の男から,アーサー・リードに対抗できるといわれていたため,それなりの威力を込めて放った一撃は,水無月に触れるか触れないかという距離で,あっさりと雲散霧消する。
当の水無月本人は攻撃されたことにすら気付いていないようである。
「なっ」
次の瞬間,逆に案山子の術式の演算領域に干渉してくる気配があった。
案山子はとっさにそれを避けようとするが,それよりも前にあっさりと気配は撤退していく。
「なんだったんだ? 今のは」
困惑する案山子の耳元から声が聞こえる。
『よお,どこの誰かは知らんが嬢ちゃんになんか用か?』
案山子はその方向を向き,術式を構えるが,そこには誰もいない。
「誰だ」
『ワイのことはええやないか。
それより嬢ちゃんに用か?
答えろ。』
「アーサー・リードという傭兵と戦闘させるため,彼女を操ろうとしてましたー。
……え? なんで,僕,喋っちゃったの?」
『ふむふむ,なるほどのぉ,傭兵か。おもろいな,その催し。
最近ちょっと嬢ちゃんもなまっとったからな。ちょうどええ,利用されてやるわ。
おい,さっきのもう一発撃ち込んで来いや。
今度は弾かんといてやる。』
案山子は,幻聴を聞いた気分になったが,どうせ本人は気づかないのだからと,もう一度,水無月に《案山子》を仕掛ける。
すると,先程は消滅した術が今度は吸い込まれるように掛かる。
水無月は,学校に向かっていた足を止め,ゆっくりと歩みの方向を変える。
「なんだったんだ? 今の?
ま,結果オーライってことでー」
案山子は些細なことは気にしないのだ。
2036年6月6日午前9時45分
案山子は焦っていた。
水無月を操りながら,彼女を指定の場所まで誘導している途中だった。
何かに阻まれて前に進めなくなったのだ。
水無月は一瞬振り返ったが,口元に一瞬笑みを浮かべると,そのまま初めからわかっているとばかりに直進していった。
結局,案山子は結界に抗えず,結界内の様子確認することができなくなったのだ。
しかし,この状況で,割り切ることができるのが案山子のすごいところである。
案山子は,結界への侵入が不可能だと判断すると,天乃のことは水無月にすべて任せ,自分は次の行動に移った。
すなわち,できないことはしないと割り切り,天乃の次の目的地であろう天乃の部屋を目指したのである。
もっとも,実際には,この後天乃は水無月と協力してアーサー・リードを撤退に追い込むと,警備隊の本庁に向かったわけなのだが。
しかし,案山子のこの行動が無意味だったかというとそうでもない。案山子はここで出会ったのだ。天乃の敵に。
2036年6月6日午前10時12分
初めに違和感に気付いたのは,案山子だった。
天乃の住むマンションを見張る二人組に気付いたのだ。
その場所は,天乃の住むマンションから3キロほど離れた別のマンションの一室である。おそらく,空き室に勝手に侵入して使っているのだろう。
望遠レンズ(といっても相当に小型のものを巧妙に偽装したうえで)を使って天乃のマンションの部屋の入り口をじっと見張っていたのである。
案山子が2人組に気付いたのは,案山子も彼らと同様に天乃の部屋の入口を見張ろうとしていたからに他ならない。
ちょうどいい条件のところを探していたら,たまたま先客がいたのである。
彼らは学ランを着た若い男と中年の男の2人組であった。
おそらく,魔術師であろうが,《案山子》は先にきまってしまえばほぼ勝ちが約束されている術式である。
案山子は躊躇することなく,練り上げた術式を行使する。
2人同時に術をかけた案山子は,彼らの記憶を遡り,その正体を探る。
案の定,懐古主義者の構成員であり,1人は五感を操作するという並外れて危険な術式の使用者であることが判明した。術式の名前は《感覚奪取》というらしい。
彼らは3日前からこの部屋で天乃の部屋を見張っていたようである。
しかし,天乃の姿を確認できずにいたことから,襲撃は控えていたのである(なお,謎の黒髪に赤い和装の少女の出入りは確認していた模様)。
とりあえず,案山子は彼らの記憶を操作し,見張りを再開させる。
ただし,天乃を発見したら上司である案山子に連絡するように行動を操った上で,である。
ここで,案山子は若い男の行動を操り,3回嘘を吐かせ(Q.好物は? A.ダイヤモンド Q.特技は? A.割り箸をきれいに割ること Q.趣味は? A.チェスボクシング),五感を操作する術式《感覚奪取》を《案山子》と交換する。
そして,彼らの使用していた通信機を1つ持っていく。見張りが機能していれば,ここに連絡があるだろう。
案山子は,見張りを彼らに任せ,自分は昼食に出かける。
浅木は,学生街であるため,飲食店は割と多い。
とはいえ,学生に見える自分がこんな時間に堂々と食事をとっていては,警備隊のお世話になり兼ねない。
そこで,結局は近くの弁当屋で弁当を買い,人目に付かないように見張りをしている2人組がいる部屋に帰ってきてしまうのだった。
2036年6月6日午後12時45分
『天乃慎が警備隊庁舎に入ってきたようだ。』
案山子がそのメッセージを受け取ったのは,食事をとってウトウトしていたときだった。
案山子は急いで見張りを継続するように2人に言い渡し,警備隊本庁に向かう。
1時間ほど警備隊の本庁を見張っていた案山子に,通信機から中年男の通信が入る。
『なんか,オーバーオールの若い女が天乃の部屋に入っていきました。
どうしましょう。』
「若い女? いつもの着物の子供じゃないのか?」
『さすがに見間違いませんよ。画像を送ります。』
「だよねー。ふーん。結構美人じゃん。
まー見張りは継続。部屋の様子が変わったらまた連絡よろしく」
『了解です。』
2036年6月6日午後14時50分
結局,天乃と水無月が警備隊の庁舎から出てきたのは,午後3時前頃であった。
その後,2人は謎のコートの男に話しかけられるも,まっすぐ天乃の居室へと戻っていく。
案山子の通信機に中年男から通信が入る。
『天乃慎が帰宅しました。
だが,様子がおかしい。扉を開けたと思ったら,すぐに出てきました。
そのまま――なんだ? なにぃ,飛び降りた? 5階から!?』
「どしたー。連絡は正確にしろ?
天乃慎が飛び降りただとー!?」
『いえ,そうとしか見えなかったのですが,そのまま走り去ったとのことです。
方向は第三中の方角です。追いますか?』
「いや,そっちはこちらに任せて部屋の見張りを優先しろー?
さっきの若い女はどーした?」
『今,出てきました。あれは,ナイフです。
血まみれだ。どこかの組織の者でしょうか?
我々も出た方が――』
「はい,ここで我々の目的を復唱してみよーか」
『――天乃慎の暗殺です。』
「だったら,仮にそいつが殺ってもいいわけだ。
とりあえず,部屋の様子は逐一報告しろ。
以上,通信終了」
案山子は焦っていた。
実は,マンションから飛び降りるように降りてきた天乃とニアミスしかけていたのだ。
だが,幸い周囲を気にする余裕のなかった天乃はそのまま無目的に走り去った。
案山子は今,走り続ける天乃の後を追っている。
「ちょっ,先輩速すぎ。
どんだけ全力疾走なのさー」
だが,天乃があまりに速すぎて見失っていた。
「くそー,実働部隊っていっても僕はどちらかというとトリックプレー担当なんだよなー。
こーいった純粋な体力勝負はしないんだよー」
愚痴を言っている場合ではないのだが,案山子は三叉路でどちらに向かえばいいのか迷っていた。
「どーしよーかなー。総当たりしてる時間はないんだよなー。
こーなるなら,あいつらを使った方がよかったか?」
「ねぇ,そこのあなた,天乃君を見なかった?」
悩んでいる案山子の後ろから声がかかる。
振り返ると,そこにいたのは写真で見たオーバーオールの少女だった。
さすがに血の付いたナイフは隠しているようだが,血の気配に敏感な案山子にはこの少女が只者ではないとわかってしまう。
「ねえ,聞こえた? 天乃君を探しているの」
「えーっと,天乃君って誰?」
案山子は答えを間違えないように答える。
初対面の人間ならこう答えるだろう。
「あっ,そうだね。
天乃君じゃわからないよね。ごめんね。
ここをなんか走っていった男の子なんだけど」
「さぁ,僕も今ここに来たところだからね。見てないよ」
案山子がそう答えると,オーバーオールの少女――ジェーンはニヤリと笑う。
「そうだよね。君もここまで走ってきたみたいだから。
呼吸を整えているけど,私,そういうのわかっちゃうんだ。
ねぇ,どうして走っていたのにここで止まってたの?
もしかして,誰かを追いかけていたけど見失っちゃったとか?」
「まさか。ちょっと至急の用事でね。
急いでたんだけど疲れちゃったんだよ。
じゃあ,僕はこっちに行くね」
案山子は,これ以上,ジェーンと関わるのは危険と判断し,三叉路の内,右側の道を選ぶ。
「そう,気を付けてね。あなた,死相が出てるし」
「え?」
「私じゃない,あなたを殺すのは。
じゃあね」
ジェーンはそのまま迷いなく直進する。まるで目的地がわかっているかのように。
「ふぅー」
案山子からドッと汗が噴き出す。
「あれはヤバいなー。
もー,先輩ってばヤバい奴らに命狙われ過ぎじゃね?」
案山子はそのままジェーンの行った方角には向かわず,右の道を直進する。しばらく直進すると,左に折れる道が見つかった。
「多分,こっちか。さっきのヤツに見つからないよーにしないと」
2036年6月6日午後16時42分
『天乃の部屋から,少女が出てきました。例の着物の少女です。
少女から羽が生えて!? 飛んだ!!?
何が起こっているのか,わかりません!!』
「わかった,ご苦労。こっちも今ヤバいから。
交信終了」
案山子は雑に通信を切る。
今,戦況は天乃にとって不利だ。
『殺し屋』という装置が強すぎるのである。
バランスの均衡が一瞬で失われ,最善手を打ち続けてもその内詰まされる。
そんなジリ貧な状態である。
そんな状況を変えようと,御堂が天に向かって一条の光を放つ。
――流星
その圧倒的威力に案山子は絶句するしかなかった。
しかし,その暴威を見てなお,『殺し屋』は喜々として天乃を殺そうとする。
天乃が御堂と刹那の力を借りて『殺し屋』に肉薄する。
だが,次の瞬間,首から血を噴き出して倒れたのは天乃だった。
天乃はそのまま『殺し屋』の止めを躱し,ジェーンを人質に取る。
だが,案山子にはわかっていた,それは悪手だと。
案の定,『殺し屋』は人質を無視して突っ込んでくる。
『殺し屋』は全力で天乃を意識している。
介入するならこのタイミングだった。
案山子は,懐古主義者の男から奪った《感覚奪取》を使い,『殺し屋』の目測をずらす。
その甲斐あってか,『殺し屋』の攻撃は外れる。
しかし,稼いだ時間はわずかである。
だが,そのわずかが次の状況を生んだ。
天乃の最強の使い魔――英莉が到着したのである。
その後の展開は実に拍子抜けであった。
『殺し屋』が撤退したのである。
その直後,行き止まりが現れたとき,案山子はいよいよ命運尽きたかと嘆いたものだが,結局,行き止まりも御堂と刹那を伴ってこの場を立ち去っただけだった。
残ったのは,天乃と英莉と案山子だけである。
案山子は,この難局を乗りきったことに安堵しつつも,天乃達の戦いに介入したのが,結局自分だけだったという事実に不安を覚えるのであった。
2036年6月6日午後17時25分
『天乃と少女が戻りました。』
「知ってるよ」
「戻りましたか」
懐古主義者の2人は,命令通り,逐一部屋の状況を知らせてきた。
案山子は,天乃達に気付かれないように後を追いつつ,途中で別れて例の空き室に戻って来ていたのであった。
あとは,どのようにこの2人を処分するか,と案山子が思案していたところ,若い男が話しかけてきた。
「あの,案山子さん。
状況は? 襲撃はいつ仕掛けますか?」
「えーっと,そーだな。
まずは――」
案山子はそういいながら,若い男に《感覚奪取》を返還し,《案山子》を取り戻す。
「――ちょっと考える時間をください」
懐古主義者の2人は催眠にかかったように動きが止まる。
(どーする?
本当に僕の他にはあの使い魔だけだった。
あの瞬間に介入しなかったことからすると,他の護衛はいても実力不足だ。
ここで,僕が死ねば,先輩は近いうちに死んでしまう。
どーする。どーする。
《案山子》は今日ここで死ぬ。
それは避けられない。
世界の修正力からは逃げられない。
特に,今回僕は明確に介入してしまった。
『殺し屋』には察知されていなくても,世界には気づかれただろう。
異物を守ろうとする意志が)
そのとき,案山子の携帯電話に連絡が入る。
相手は,後方支援担当のサングラスの男だった。
『よう,今日はお前の番だぜ。
これで目的は達成される。ご苦労だったな。』
「なー,先輩は本当に大丈夫なだろーか。
もー僕がいなくなっても大丈夫なんだろーか」
『さあな,だが,今日を辛うじて生き残った。
いや,まだ時間はあるか。最期に,何かあるか?
遺書がなかったもんでな。伝言という形で聞いとくぞ?』
「まだ,死ぬわけにはいかない」
『案山子。
気持ちはわかる。全員そうだ。死にたくないさ。』
「そーじゃない!
このままじゃ先輩が死ぬ。目的を達成できない。
今日実感した。先輩の敵は大きすぎる!」
『……そうだな。認めるよ。
俺1人では何もできない。俺はあくまで偽物だからな。
だが,当面の危険は一応去ったはずなんだ。』
「――用意してもらいたいものがあります」
『なんだ?』
「口の堅い狙撃手を」
2036年6月6日午後20時12分
「ただいまー,英莉ー,ご飯できてるー? あれ? 生きてたの,兄貴?」
2036年6月6日午後20時37分
「結論から,いう。オレに“妹”はいない!!」
2036年6月6日午後20時51分
「――オマエが操られてるってのはわかった。
仮に,オレを殺すようなことがあっても気にするな。
もちろん,ただで殺されてやるつもりはない。せいぜい足掻いてやるさ」
「足掻く,じゃと?」
「だから,オマエも足掻け。限界までな」
「くくく,かっ,いうてくれる。
わっちとしたことが,少々不安になってしまったぞ?
この落とし前はつけてくれるのじゃろうな,主殿?」
2036年6月6日午後21時21分
「僕のことは,そーですね,案山子とでも呼んでください。
あなたの後輩にして後継機にして後方支援を担当していますよー,先輩」
2036年6月6日午後21時43分
「誰が僕を殺すのか,です。
その答えは,おそらく,この世界です」
2036年6月6日午後22時06分
「えーっとですねー。
先輩の部屋がこっちだから,その方向ですね。
ちょうどこの真下くらいですかね?」
パンと案山子と名乗った少年の顔が吹き飛ぶ。即死である。
その死体は幻覚のフェンスをすり抜け,落下していく。
英莉は天乃をかばってその場を動こうとはしない。
その光景を見ながら,サングラスの男は隣の少女に問い掛ける。
「これで,いいのか?
案山子――いや,今はただの藤咲夏南ちゃんだったかな?」
「そーですよ。案山子は今死んだ少年です。
僕はこの事件にニアミスしたかわいそうな少女こと――藤咲夏南ちゃんですよー。
にしても,後方支援担当の間森さんが狙撃銃を扱えるとは思わなかったですー」
間森啓吾は天乃から視線を切って藤咲の方を見やる。
「驚いたのは俺の方だ。
まさか,懐古主義者を案山子に仕立て上げて殺すことで死を免れようとするなんてな。
普通思いつかないぜ」
「彼らには全部かぶってもらいましたからねー」
案山子――こと藤咲は,間森に狙撃手の手配を依頼した後,学ランの少年と中年男の記憶を《案山子》で操り,中年男に3回嘘をつかせることで,《案山子》を中年男に押し付けた。
その後,学ランの少年と中年男は予めインプットされた命令に従って動きだす。
まずは,学ランの少年の記憶を操作し,自分が案山子であると思い込ませる。
このとき,実際に今日藤咲が体験したことを記憶に書き込み,午後18時以降は創作の記憶を書き込む。
中年男には,基本的には記憶は操作せず(但し,仲間の少年の記憶は消去する),懐古主義者の暗殺者としての記憶を保持させる。
その後,中年男が《案山子》を用いて少年の《感覚奪取》と《案山子》を交換する。
そうすると,中年男は《感覚奪取》を使う懐古主義者の暗殺者となり,少年は《案山子》を使う天乃慎の護衛者となる。
あとは,予め描いていたストーリーに沿って動くだけである。
まずは,《案山子》を使う少年が時間をかけて英莉の記憶を改ざんする。
幸い,藤咲は英莉に素顔を見られたことがなかったし,英莉は滅多に人間の顔と名前を憶えないので,この辺りは正直無意味な処理だったかもしれない。
だが,結果的には功を奏することとなる。
その後,少年が《感覚奪取》を使う中年男から《感覚奪取》を奪い,屋上から藤咲の幻覚を天乃らに見せる。
天乃は,その正体を看破し,屋上に上がる。このとき,少年は《感覚奪取》を用いて姿を隠しつつ,待機する。
エリザベートが力技で居場所を看破し,少年に攻撃する。このとき少年は更に藤咲の姿を模する。
その後,待機していた中年男が予め《案山子》にかかった状態にある,英莉を操り,天乃を攻撃させる。
天乃と英莉はその裏をかき,中年男を倒し,拘束する。
天乃と英莉は再び屋上に戻り,《感覚奪取》を使う少年と戦闘する。
その後,少年が案山子であること,目的は護衛であることなどを話させたうえで,フェンスまで誘導する。
このとき,《感覚奪取》をもっているのは中年男である。
だから,間森に狙撃された少年が死んでもフェンスの幻覚はしばらく残ったのである。
後は,予め,入力しておいたメッセージを中年男の口から話させ,自害させる。
ここまでのストーリーを予め想定し,懐古主義者の構成員の行動を操作した藤咲の執念は凄まじいものがあるというべきだろう。
「それで,お前はどうする,藤咲?」
「え? まー,今回の件で僕は魔術を失いましたからねー。
《案山子》とはともかく《感覚奪取》は欲しかったですねー。
でも,とっさに考えたアイデアではこの結末が限界でしたー。
しばらくは世界の修正力に怯えながら学生生活を楽しもーと思いますよ?」
「そうか。せっかく拾った命だ。むやみに捨てないことだな」
「間森さんは?
これからどーなさるのですか?」
「俺はあいつの級友だ。それ以上の関係はないよ。
だから,級友にできることをやるだけさ」
「そーですか。
では,僕はしばらくはおとなしくしとくので,先輩のこと,頼みましたよ」
「だから,ただの級友ができる限度で頑張るって話だよ」
「はいはい。
それじゃー僕は帰りますが,あの部屋にはもう帰れませんね。
案山子が生きているというわけにはできませんから」
「……ここに俺のセーフハウスのカードキーがある。
しばらくはここを使え。
あと,通信機は廃棄しといてやるから俺に渡せ」
「へー,なんだかんだで優しーですよね,間森さん」
「後輩の女の子にいい格好をしようとしているだけさ」
「そーいうことを言わなければなー」
「ワンチャン?」
「ないですねー」
「即答かよ!!」
そのとき,ブーブーというバイブ音が間森の胸元から聞こえてくる。
間森は,連絡を寄越した主の名前を見ると,そのまま電話に出る。
「はい。間森でーす」
『あぁー。わっちじゃ。
主殿の居所で死人が出た。
数は2人。但し,1人は行方不明じゃ。
手配を頼む。目撃者はおらんはずじゃ。』
「人払いは?」
『ん? そうじゃな,念のために人払いを頼む。
わっちらはどうする?』
「そうだな,知らんぷりして家に帰ってな」
『そうか,わかった。じゃあの。』
「先輩の使い魔ちゃんからですかー?」
「そうだよ。これから楽しい楽しい残業の時間さ」
「そーですかー。では,僕はこれでー。
セーフハウスはありがたく使わせてもらいますねー」
「はいはい。じゃあな」
こうして人知れず,天乃慎の護衛チームは1人の後方支援要員を残して懐古主義者の暗殺部隊と相打ちという形で壊滅した。
当日,天乃のマンションの前で懐古主義者所属の《感覚奪取》の使い手――折木撥天が射殺体として発見されることになるのだが(なお,英莉が屋上から覗き込んだ時に死体を発見できなかったのは,懐古主義者の中年男こと欠月恭二が《感覚奪取》を使用してその存在を隠していたからである),百目鬼亜澄の協力を得た間森啓吾達によって,これは案山子の死体として処理され,事実は隠蔽されることになる。なお,欠月は自殺として取り扱われた。
天乃慎を中心とした2036年6月6日の出来事の裏側はこうして終わりを迎えることになる。
――To be continued
第1章はこれで終わりです。
第2章はようやく学校に向かうことになります。ペース遅くない?
ここまで通しで見てくださった方はぜひ評価していってやってください。
それでは,次は2章で会いましょう。




