世界の敵となった《案山子》の役割
2036年6月6日 午後9時21分
雲一つない夜空に浮かぶ冷えた月が、ボロボロに破壊された屋上のコンクリートを白々と照らし出している。案山子と名乗った少年は、月光を背に浴びながら、へらへらとした薄気味悪い笑みを絶やさず話を続けようとする。その軽薄な態度とは裏腹に、語られる内容はあまりに重く、歪んでいた。
「待て、わっちはうぬのことなど聞いておらんぞ?」
しかし、《案山子》の細い首筋を未だに押さえ込んでいるエリザベートが、苛立ちを隠さずにその言葉を遮る。
「そりゃーそーでしょーよ。本来、僕が表舞台に出てくる予定はなかったんですからー」
「ほぉ、だったらなんで出てきたのじゃ?」
「まぁー、それが本題なんですけどねー。まだ、先輩には話しておくことがあるんでー、えぇ。とりあえず、放してもらっていいですかねー?」
「断る。わっちはまだうぬのことを信用しきれんのでな。主殿を危険に晒した事実は消えん」
「じゃー、逆に訊きますがー。あなたの知っている先輩は、あなた一人だけに自分の護衛を任せるほどに抜けていたんですかねー?」
「む、確かに…………じゃが、それはうぬを信用する理由にはならんぞ?」
「じゃー、いーです。こっちで勝手にどかすんでー」
「無駄じゃぞ? 五感操作程度では、わっちの肉体を退かすことはできん」
「えぇ、五感操作では、ね」
《案山子》が不敵に口角を上げると、その瞳の奥に異質な魔力が走った。
「――《案山子》」
突如として張り詰めた空気が緩み、圧倒的な脱力感と異様な気配が周囲を包み込む。エリザベートの手から力が抜けた。いや、彼女の意志とは無関係に、筋肉が「弛緩する」ことを選択したのだ。《案山子》はその隙を逃さず、捕らえられていた場所からスルリと抜け出し、立ち上がる。何事もなかったかのように、ぽんぽんと学ランに付いた埃を払った。
「なんじゃ!? 手が勝手に……!!」
「まぁー、これが本来の《案山子》なんですよー。見ていた先輩にはタネが割れましたかねー?」
天乃はしばらくの間、その光景を静かに黙考し、やがて納得したように深く頷いた。
「なるほど、オマエが記憶操作の使い手だったのか」
「正解です」
「だが、お前は五感操作をさっきまで使っていたな。そして、あのとき視えた魔力の色と、今現在のオマエの魔力の色が違う。……ということは、その術式、まさか、交換できるのか?」
「やー、先輩。理解が早いっすねー」
「どういうことじゃ? さっぱりわからんのじゃが」
エリザベートが混乱したように首を捻る。その姿を見て、天乃は呆れたように口を開いた。
「オマエはあれだよな、ちょいちょい自分ができることを忘れるよな」
「ん? おう、主殿の考えを読めばよいのか。忘れてないぞー? ふむふむ、なるほどぉ……つまり、五感操作の使い手は下に転がしてきた奴というわけじゃな。そいつと術式を交換しておったと」
「正確には、記憶を操作して操った上で、互いの術式を一時的に交換していたんですがねー」
「《案山子》ってのは、記憶を操った上でその対象の行動を操作できる術式、ということでいいのか?」
「そーですねー。概ねその理解でいいですー」
「術式の交換は、それとはまったく別の魔術だな。術式交換の条件は――相手に質問し、それに三回嘘を吐かせること、というところか」
「さぁー、どーでしょーかねー?」
《案山子》は惚けるように手を組み、そっぽを向く。
「そう考えれば、あの変な質問にも説明がつく。オマエが接触してきた理由とやらも、そこにあるんじゃないのか?」
「まったく、先輩には隠し事ができませんねー。そーですねー。もーだいたい察しているよーですが、本題に移りましょー」
《案山子》は、本物の木製案山子のように不自然に両手を広げ、お道化るような動作を交えながら、決定的な告白を始めた。
「本題なんですがー。まぁ、ちょっとお恥ずかしい話なんですがねー。……実は、僕、殺されちゃいましてねー。せっかく先輩を護衛するという大任を得たわけですが、初日に殺されるとはねー。いやー、本当にお恥ずかしい」
「……その答えは、さすがに想定外だ」
「そうじゃな、何をわけわからん事を云うておる。うぬは今、ここにこうして実体を持って生きておるではないか?」
エリザベートは《案山子》の胸のあたりを軽く小突く。手は空を斬ることも、すり抜けることもなく、生身の肉体に当たった「ドン」という鈍い音を響かせた。
「まぁ、そーなんですよねー。これは多分そういった『現象』なんだと思うんですがー。とにかく、僕は殺されていましてー。というのも、僕自身、僕の死体を見てるんですよー。あれはもーだめでしたねー、はい」
「幻術じゃないのか? それこそ、さっきの五感を操る術式のようなもので見せられただけという可能性はないのか?」
「なるほどー、確かに僕には先輩みたいな眼があるわけじゃないですからねー。騙されている可能性もなくはないですねー。ですがねー、はっきりとわかるもんなんですよ。自分が死んでいるかどうかっていうのはね」
「死ぬことに関しては、わっちのほうが経験豊富なわけじゃが……まぁ、うぬの云うことはわからんくはない。命を失う瞬間の感覚というやつは形容しがたいものじゃ。じゃからといって、その感覚の信用性がどれほどのものかという話じゃがなぁ」
「そーですねー。まぁ、今は僕がすでに死んでいる、またはこれからすぐに消えるという前提で話を聞いてください。多分、時間がないのでねー。重要なことは、今日ここに来た目的と、誰が僕を殺したのかということです」
吹き抜ける冷たい夜風の音が静寂の屋上に響く中、《案山子》は広げていた両手を下ろし、重力に逆らわない動作でその場に腰を下ろすと、淡々と自身の死の気配を語り始める。
「僕が僕の死体を見たのは、今日の午後6時ころですね。だいたい、先輩方がこのマンションに帰ってきたちょっと後くらいです。とりあえずやることのなかった僕は夕食をとっていました。まー、携帯食なので、先輩の夕食の手作りパスタとは比較できないですがねー。あ、でも結局まだ食べてませんでしたね。ははは」
軽口を叩きながらも、彼の語る時系列は精密だった。
「で、その途中ですかねー、見覚えのない女の子が先輩たちのマンションに入っていくのが見えました。僕はここの住人の顔は全て記憶しているので、すぐに部外者だとわかりましたー。オートロックのエントランスを通っていた時点で、僕は夕食を中断して、その女の子を観察しました。名前は藤咲夏南ちゃんですー。彼女は、自分の家だと思って先輩の部屋に入ろうとしていたみたいですねー」
《案山子》は淡々と、屋上で起きた「偽物の妹」の舞台裏を説明していく。
「ですから、僕が先輩の家のドアの前で《案山子》を使って、藤咲ちゃんを操って持ち物検査をしました。彼女の中には二液混合型のちょっとした化学兵器が入っておりましてねー。偽造のカードキーまで持っていた。でも、記憶を弄っているうちに、彼女自身も誰かに誘導されてきた被害者だと判明したんです。先輩の部屋で自爆テロを引き起こす『爆弾』にされる予定だったみたいですねー。かわいそーだったので、一時間くらいの記憶を消してお家に帰ってもらいましたー」
少年の語る「善行」は、どこか機械的で感情が欠落していた。
「まぁー、こんな手口を使う連中なんて碌な奴らじゃないんでー、ぶっころそーかなー、と思っていたときですー。……僕の死体が降ってきたのは」
その言葉が出た瞬間、屋上の空気が一変した。
「初めは何なのかわからなかったんですがねー。屋上の方から何かが下に落ちていくのが目の端に見えたんですよー。大きさが人間大だったので、誰かが飛び降り自殺でもしたのかなー、程度に考えていました。急いで下に降りて、死体を確認しましたー。……いやー、今でもはっきり思い出せますねー。それは間違いなく僕でした。頭から落ちたのか、顔はぐちゃぐちゃでほとんどわかりませんでしたが、僕でした」
天乃は黙って聞いている。少年の話が真実なら、今ここにいる存在は一体何なのか。
「もちろん、初めは幻覚系を疑いましたがねー。でも、なんていうんですかねー。その死体には、圧倒的な『現実味』があった。あぁ、僕はここでこんなふうに死ぬんだー、って、素直に飲み込めました。それからすぐ後くらいですねー。先輩の部屋の様子を双眼鏡を使って見ている怪しい男――さっきの痩身の男を見つけたのは。三キロくらい離れてましたが、僕は僕の死体を隠してから、そいつのところに行って、まー、一戦交えることになったんですが」
そこから、術式を交換して屋上の「茶番」を演出し、天乃に近づいた経緯を話す《案山子》。彼の目的は、天乃慎を守るための「力」を譲渡することにあった。
「僕が死ぬ以上、先輩を守る壁は正真正銘この使い魔ちゃんだけになる可能性が高いですー。今日一日検証しましたが、他に護衛する者はいない。使い魔ちゃん一人では不安じゃないですか。あなたが搦め手に弱いのは、今回の一件ではっきりわかったと思いますしー?」
「ぐ……」
反論を試みようとしたエリザベートだが、術中に落ちた事実は重く、言葉に詰まる。
「そこで僕が考えたのは術式の交換です。術式を交換したあと僕が死亡した場合でも、交換は成立し続ける。僕の《案山子》を先輩にあげよーと思いまして。実際、先代からそーやって僕は受け継いでますしねー。見たところ、先輩はまだ自分の本来の魔術を使える状態ではない。だったら、使える《案山子》のほーが役に立つかなーと思った次第です。で? どーです? 今からでも遅くないので、交換しません? 先輩の術式と、僕の《案山子》。それが、僕の今回の目的ですー」
《案山子》は、天乃に最後の手を差し出す。
正直、天乃はこの《案山子》という少年の行動原理を測りかねていた。自分が死ぬから護衛対象に武器を与えておこうという、あまりにも歪んだ自己犠牲。そのための手段として、なぜこれほどまでに迂遠な、信頼を損なうような方法を用いたのか。
結局、天乃はその差し出された手を取ることはできなかった。
「そーですか。割といー案だと思ったのですが」
「すまんな。今はまだ、自分の内側にあるものを手放すわけにはいかないんだ」
「いえー、なんとなく、先輩は断るんじゃないかと思ってましたー。だから、あんな迂遠な方法をとったわけですしー?」
《案山子》は拒絶されても、気分を害することもなくへらへらと笑うのみだった。まるで、断られることすらも予定調和であるかのように。
「本当に、それだけなのか?」
「といーますと?」
《案山子》が、きょとんとした無垢な顔で天乃を見やる。
「いや……考え過ぎか」
天乃は、胸の奥に澱のように溜まる違和感を覚えながらも、この件は保留とした。
「さて、話が一段落したところで、もう一つの話をしましょー。つまり、――誰が僕を殺すのか、です」
わずかな冷気が月の光を受けて白く揺らぐ中、《案山子》は、すべての核心へと踏み込んでいく。彼は、その薄ら笑いを顔に張り付かせたまま、自らに引導を渡す存在の名を告げた。
「その答えは、おそらく、――この世界です」




