《案山子》――憎悪を集約する機構
2036年6月6日 午後8時51分
(危なかったが、何とかなったか。予想以上だったな、天乃慎。これで記憶を失った直後だというのだから驚かされる。だが、とにかく、ここにはもう用済みだ。《誘導記憶操作》を解除して撤収するとしよう)
マンションの屋上へと続く重い鉄扉の裏側。そこに潜んでいた中年の痩身の男は、天乃が力なく倒れたのを網膜に焼き付け、目的の完遂を確信した。男は速やかにその場を立ち去ろうと、迷いなく踵を返す。
だが、階段を一段下りた直後のことだった。扉が内側から吹き飛ぶような凄まじい衝撃音とともに、背後から形容しがたい剛力が男の首を掴みあげた。
「何っ!?」
次の瞬間、男の視界から地面が消え、奇妙な浮遊感が全身を包む。首を掴んだ細い手に、階段下まで強引に投げ飛ばされたのだ。
「がっ!!」
踊り場に叩きつけられた男は、受け身をとる暇さえ与えられず、うつ伏せに倒れ込む。肺から空気が漏れ、意識が混濁する。男が必死に起き上がろうとするより早く、上階から音もなく跳んできた華奢な体がその背に乗り、電光石火の早業で腕の関節を極め、完璧に封殺した。
「ぐああぁっ!!」
「ようもやってくれたのぅ。わっちは今ちぃと機嫌が悪い。取り押さえろとの命令じゃからこうしておるが、本当なら……その喉笛、今すぐにでも噛み切って殺してしまいたいところじゃ」
男の自由を奪っていたのは、エリザベートだった。端正な顔立ちは激情を反映しており、その全身からは物理的な圧力を伴うほどの怒気が立ち上っている。
(まずい! 早く《誘導記憶操作》を使わなければ……しかし、この密着した状況では……。とりあえず、10秒。それだけでいい。まずは、この拘束を解かねば)
「足掻くなよ、小僧。魔術を使おうと少しでも魔力を練ってみろ。その瞬間に、わっちが貴様の意識を刈り取る。わっちは力加減が下手じゃからな。もしかしたら二度と意識を取り戻さんかもしれんぞ?」
「おいおい、それじゃあ困るんだよ。そいつがどこの奴で、どうしてオレを殺そうとしたのか、たっぷりと訊かなきゃなんないんだからな」
頭上から響いたのは、死んだはずの男――天乃慎の、平時と変わらぬ冷徹な声であった。
(バカな。確かに、この少女の腕を使って、その腹部を深々と貫いたはずだ!!)
「おぉ、主殿よ。腹具合はどうじゃ? わっちはちゃんと操られながらも、主殿の指示通りに動いたぞ?」
「ん? あぁ、多分問題なく再生されている。お前の『破壊したものを再生する』という、その無茶苦茶な能力でな」
(破壊したものを再生する能力!? なんだそれは、聞いたこともない!!)
エリザベートの拳が天乃の腹部を貫いたあの瞬間、彼女は自らの意志で能力を並列起動させていた。破壊と同時に再生を行う。つまり、天乃がそれまで受けていた《虚言の戒め》による深刻な内臓損傷ごと、貫通傷という劇薬を用いて「上書き」し、治療していたのだ。
その神業に近い指示は、天乃が「脳内で思考を共有する」という方法でエリザベートに伝えたものだった。天乃は、エリザベートを操る術式が完全に自我を封殺するものではないと見抜いていた。彼女が自らの意志で会話を続けられていた事実から、術式の「穴」を推測し、己の命をチップに賭けに出たのである。
その後、天乃はエリザベートを縛る記憶操作の魔力のパスを逆流して術者の位置を特定し、この追い詰めた「現場」を創り出したのだ。
「さて、と」
天乃はゆっくりと階段の踊り場まで下りてくると、泥を舐めるように伏している男の髪を無造作に引っ掴み、その顔を無理やり上げさせた。
「やっぱり、見覚えはないな。エリザベートはどうだ?」
「さぁの? ニンゲンの顔なぞどれも同じに見える。見ておってもすぐに忘れておるわ。なにせ、わっちはお主らより遥かに長く生きているのでな」
(くそっ、最悪の展開だ。だが、本人が射程内に入ってきたのなら話は別だ。これはチャンスだ。ここで、こいつを始末すればいいだけの話だ)
天乃は掴んでいた髪を放すと、未だに瞳の奥で光を失っていない男に静かに忠告した。
「ちなみに、やめておけよ? オレには他人の魔力の流れが嫌でも視えてしまう。アンタが何者であれ、既に大体のタネが割れた魔術じゃあ、このオレを殺せない。具体的に言うと、アンタの魔術は発動までに致命的な時間がかかる。そして、記憶を操るのも人を操るのも、そこに使用した時間に比例する性質のものだ。ただし、人を操れるのはいずれにしても短時間。……そうだろ? だから、屋上で気絶してる女の子を使ってオレを攻撃したとき、アンタはいきなり敵対関係から入らざるを得なかった。暗殺を完遂するつもりなら、もっと時間をかけて友好関係を築いた方が確実だったはずなのにな」
「――“魔術師殺し”、か。大層な二つ名じゃないか。それは、さぞ多くの恨みも買っていることだろうな。この俺のような刺客を、幾人も送られるくらいには……。ぐっ!」
ギギギ、と骨が軋む音が鳴る。エリザベートが拘束の圧を強めた音だった。
「小僧、うぬは訊かれたことにだけ答えればよい。それ以外の囀りは、その舌ごと引き抜いてくれるぞ」
エリザベートは冷酷に告げるが、天乃は顔色一つ変えず、淡々と尋問を継続した。
「刺客、と言ったな? アンタの雇い主は誰だ?」
「さぁな。俺のような現場要員にはそこまでの事情は知らされない。だから、俺から情報を引き出すのは無駄だ。諦めるんだな」
「現場要員――つまり、組織的に荒事を請け負う団体の構成員か」
「……」
「図星って感じか。まぁ、いいや。そういった組織についてはおいおい調べればいいことだ。ただ、一つだけどうしても解せないことがある。アンタの術式の特性上、もっと直接的な幻覚を見せて一気に攻め落とす方が効率的だったはずだ。なぜ、《虚言の戒め》なんていう、発動条件が相手の言動に依存した不確定な術式を選択したんだ?」
「…………」
「おい、答えてよいと言っている。黙秘は許可していないぞ?」
深刻な沈黙を守る男に対し、エリザベートがさらに男の腕を限界まで曲げていく。
「――がぁ、くそっ、どういうことだ!? 《虚言の戒め》だと!? なんだそれは。お前を攻撃した術式は、紛れもなく《空気弾》のはずだ。何を訳のわからないことを言っている!!」
「エリザベート、こいつを気絶させろ! 急いで屋上に戻るぞ!!」
「ん? お、おぉ。了解じゃ。てい」
可愛らしい掛け声とは裏腹に、エリザベートの放った鋭い手刀は一瞬のうちに男の頸動脈を捉え、意識を刈り取った。
「念のため、じゃな。これで当分は起きまい」
「急げ、エリザベート」
「……ちぃとだけ、待ってくれ。けじめはつけておきたいのでの」
エリザベートは、跨っていた男を見下ろし、牙を見せてニカッと笑った。
「――わかった。ほら、行くぞ」
天乃は即座に踵を返し、階段を駆け上がっていく。
エリザベートは、無惨に凹んでボロボロになっていた屋上の扉を、その番いごと蹴り飛ばした。天乃が追いつくより早く屋上へと飛び出す。天乃がそこに辿り着いた瞬間、破壊された扉はフィルムを逆再生するように歪みが消え、元の完全な形へと修復されていった。
「すごーい。さすが、先輩の使い魔。何が起こってるのかサッパリわかりませんねー。っていうか、さっきのも結構痛かったですよー。ちゃんと頭を防御してたのに、一瞬意識が飛んじゃいましたー」
月光に照らされた屋上の中心。そこに立っていたのは、学ランをだらしなく着崩した一人の少年だった。さきほどの少女の姿は、影も形もない。
「なるほど、五感の認識を狂わせる術式か。確かに、見た目を偽れるなら、性別も自在か。その姿も本当かどうかわからないわけだな。……本当にそこにいるかすらも」
「やだなー。先輩には視えてるんでしょ? 僕の魔力の流れが。それはどのように見えているか、僕には想像もつかない。だから、偽りようがないわけですよー。ここにいるのは、間違いなく僕ですよ」
「主殿。わっちの眼が見えている位置に彼奴が居るのなら、今すぐ取り押さえるぞ?」
エリザベートは飢えた獣のような気勢を放ち、少年に向かって凄んで見せる。
「まったく、先輩の脳筋使い魔ちゃんには困ったものですねー。ちょっとした余興に、僕の力、少しだけお見せしましょうかー?」
少年が軽やかに手を天乃たちに向かって翳した。
直後、エリザベートの瞳から理性が消え、彼女は全く明後日の方向へと跳びかかった。虚空に向かって腕を振るい、屋上のコンクリートを派手に破壊する。
「おりゃあ!」
その後もエリザベートは、何かに取り憑かれたように見えない何かを追いかけ、拳や脚を振るい続ける。その度に、屋上は「破壊」と「再生」が狂ったように繰り返され、異様な光景を現出させていた。
「止めろ、エリザベート! それは幻覚だ!」
天乃の叫びも、彼女には届かない。
「無駄ですよ、先輩。彼女にはあなたの声が聞こえていません。いや、正確には、間違った指示が聞こえているというべきですかねー」
(どうする? いや、奴は言ったな。奴自身にわからないものは偽れないと。なら、オレの考えを直接読み取れるというエリザベート独自の感覚までは、奴には把握できていないはずだ)
「彼女はちょっと邪魔なので、一旦退場してもらいましょーか」
少年が指を鳴らすと、エリザベートは急激にその場を方向転換した。そして、屋上の縁へ向かって、飛び降りようと深く足を屈める。どうやら、敵が屋上から身を投げた姿を幻視させられているようだ。
天乃は、そんな彼女の深層意識に届くよう、心の中で強く念じた。
(敵は、七時方向。距離五~八メートル!)
「その指示を待っとった!!」
エリザベートは飛び降りる寸前の姿勢から、天乃の思考指示通りの方向へ、爆発的な勢いで跳躍した。もともと、常人には不可視の速度で移動する彼女の、物理法則を無視した急転換である。少年は当然、反応すらできない。
しかし、天乃の放った大雑把な指示だけでは、少年の急所を捉えるには至らなかった。エリザベートは少年の鼻先まで一瞬で詰め寄ったが、そこからピタリと動きを止めてしまう。
「次じゃ! どっちにおる!」
「なんで……こいつ、僕の場所が、正確にわかってるみたいに……っ!」
(四時方向、距離一メートル!)
「そこかぁ!!」
エリザベートの振るう剛腕が、背後に逃れようとした少年の首を正確無比に捉えた。彼女はそのまま少年の首を掴んだまま、叩きつけるように後頭部から屋上の床へと引き倒した。
「があああ――っ!」
「おお、まだ意識があるか。思ったよりタフじゃの。んじゃ、もう一発いっとくか? わっちは脳筋じゃからな。それくらいしか、解決策が思いつかんのじゃ」
エリザベートは、未だ実体を認識できていない空虚な場所へ、嗜虐の笑みを向ける。
天乃の目には、少年が後頭部に魔力を集中させてガードを固めた様子がはっきりと視えていた。そして、魔力の質を急速に変化させ、次なる術式を編み出す姿も。
「ぐううう――っ」
「ん? 掴んでおる感覚が消えていく? 馬鹿が! 力加減を誤って首を落としても知らんぞ! 主殿、彼奴はまだここにおるか?」
「いや、いない。消えた」
周囲に天乃の「声」が響き渡る。だが、天乃本人は一言も口を開いていない。
(まだそこにいるぞ。それは最後の悪足掻きだ)
天乃は思考を飛ばし、エリザベートへ正解を伝える。
「なるほどのぉ、もうおらんのか。では、主殿よ。少々この……『何もいない空間』を、全力で握ってみてもよいか?」
エリザベートが浮かべる笑みは、庭の虫を無邪気に潰して回る子供のように、残酷で純粋なものだった。
「やめておけ。それよりも、奴は移動しているぞ。いま、屋上の縁から下へ降りようとしている。急いで追え!」
虚空から、天乃の偽りの指示が響く。
「えー。もういいじゃろ? 逃げる奴なんて大したことないんじゃ。それより、わっちはこの手が掴んでいた奴の首の感触を、もっとじっくり思い出したいのじゃよぉ。なにせ、わっちは野蛮な脳筋じゃからなぁ。くかかかかか!」
エリザベートが虚空からの指示に対し、わざとらしい乾いた笑いを返す。
(意外と気にしてたのか、それ……。大丈夫だよ、お前はちょっと猪突猛進で何事も力で解決しようとする傾向はあるが、その中に老獪さもちゃんと持ち合わせているさ)
「いやぁ、主殿はわっちのことをちゃんとわかっとるのぉ。そこまで言うなら、仕方ない。この『声』の失礼な発言は、一旦保留にしてやろう」
「……コイツ、案外ちょろいな」
エリザベートは天乃の本心の言葉に機嫌を良くしたのか、先ほどまでの刺々しい態度を幾分か和らげた。そして、感覚の消えかかっている自分の手をさらに強く絞めるようにしつつ、その手元に向かって冷たく言い放った。
「おい、その魔術を解け。もうわっちにはそんなもの効かん。さもないと、本気で握り潰すぞ? この手をな」
「わー、待った、待った。わかりましたよー、降参です」
エリザベートが取り押さえている少年の姿が、陽炎のように現れる。少年は完全に観念したように、両手をひらひらと上げた。
「まったく、ちょっとした余興のつもりが、マジで命を落とすところでしたよ。というわけで、いい加減この拘束を解いてくださいよ、先輩」
少年は悪びれる様子もなく、天乃に向かって解放を要求してきた。
「主殿よ、この厚かましさは……こやつ、もしかしたら、とんでもない大物かもしれんぞ」
「あぁ、オレも少しばかり感心したところだ」
「なんですかー? ちょっとしたおふざけがあったことは認めますけどー、今日は僕に感謝してほしいくらいですよー?」
少年は相変わらずへらへらと笑っており、今の命のやり取りなどなかったかのように緊張感に欠ける。
「感謝だと?」
「そうですよー? 僕は今日、八面六臂の大活躍だったんですから。まず、今朝でしたかね。アーサー・リードの張った結界に水無月風華を誘導したのは僕でーす。なぜか僕の魔術を防御せずに、途中からは自分から結界の中を目指すように進んでいましたがね。それでも、最初のきっかけを与えたのは僕ですよ、はい」
「なんだと?」
(防御をしなかったのは、恐らく『虚空の旋律』のせいだな。アレは水無月が危機に陥ることを本能的に望んでいるからな……)
エリザベートに押さえ付けられている少年は、誇らしげに続ける。
「それだけじゃないですよー? あの『殺し屋』に気付かれないように、一瞬だけ僕が加勢しました。これは相当難易度が高かったですねー。でも、先輩、放っといたら今頃死んでたじゃないですかー?」
「――確かに、一回だけ、そんな不自然な瞬間があった気がするな」
天乃は、『殺し屋』の攻撃が不自然に逸れた瞬間を思い返す。
「そして、今回。なんかまた、先輩にちょっかい出そうとしていた雑魚がいたんで。操られていた女の子――あ、名前は藤咲夏南ちゃんっていうんですけどね。その子と入れ替わって、先輩にいろいろとちょっかいを出させてもらったわけですよ。まぁ、これは『挨拶』を兼ねてって感じですけど」
「――お前、何者だ?」
天乃の、真実を射抜くような問いに、少年は淀みない笑みを湛えて答えた。
「僕のことは、そーですね、案山子とでも呼んでください。あなたの『後輩』にして『後継機』、そして――『後方支援』を担当していますよ、先輩」




