"魔術師殺し"と呼ばれた魔眼
2036年6月6日 午後8時37分
「どういうことじゃ、主殿」
「最初から、おかしい、と、そう、思ってた」
天乃は、激痛に耐えながらエリザベートに語り掛け、周囲の闇に目を凝らす。一見、静まり返ったマンションの屋上だが、そこには確かな「悪意」が潜んでいた。
「何がじゃ?」
「オマエが、オレに妹がいると、打ち明けようとした、タイミングだ。オマエはいってたな。デュラム、セモリナ粉を、こねているとき、思い出したって。……多分、分量を、間違ったんじゃ、ないか?」
「そうじゃ。最初はなぜか主殿の分しか作ろうとしておらなんだ。そのあと、妹御のことを思い出して、量を増やして二人分作ったのじゃ」
「そう、食事は二人分、あった。オマエは食べないという。なら、もう一人……分は? がはっ!」
そこまで言いながら、天乃はせり上がる血を堪えきれず再度吐血する。アスファルトに黒ずんだ赤が広がる。《虚言の戒め》という偽りの術式がもたらしたダメージは、確実に彼の内臓を蝕んでいた。
「主殿、これ以上の出血は拙いぞ。命にかかわる」
「わかってる。……だが、敵も、必死なはずなんだ。この屋上の、どこか、少なくとも、このマンションの、どこかには、必ず、いる」
「敵?」
「敵の魔術は、おそらく、知覚と、記憶に介入する術式だ」
「なんじゃそれ?」
エリザベートは不可解そうに首を傾げる。
「つまり、オマエの記憶に介入し、オレの妹、という虚像を作り出した。そして、《虚言の戒め》などという、存在しない術式を作り出したんだ。オレのこのダメージは、存っ、在しない術式を、知覚しているから生じるものだ」
「つまり、思い込みじゃと?」
「平たく言うと、そうだ。……脳が『攻撃を受けた』と誤認し、肉体に損傷をフィードバックさせている」
天乃は、目を皿のようにして周囲の空気の揺らぎや些細な違和感を探そうとする。
「そして、いま、敵は追い詰められている。オレ達に、自身を知覚させないようにしているんだ」
「しかし、妹御が存在せんじゃと? わっちには俄かに信じがたいのじゃが」
「もちろん、根拠は、それだけじゃない」
「あぁ、わかった。もう喋らんでよいぞ。わっちが主殿の考えを読む」
「そういえば、そんなことができたな。もっと、早い段階で、やってくれよ」
「――ふむ、なるほどな。筋は通っとる。主殿には見えんかったのか、妹御の保有する魔力が。それで実体ではないと踏んだか。なるほどの、それで『虚像』か。ん? そういえば、もう妹御の顔も思い出せんの。これは驚いた」
エリザベートは天乃の思考の断片を拾い上げ、次々と事実を繋ぎ合わせていく。
「そして、屋上付近から魔力を感知したと。じゃが、それだけでは敵の魔術の正体にまでは辿り着かんじゃろ? ふむ、そこはあくまでも推測か。じゃが、概ね正解っぽいの。部屋に妹御の生活用品がなかったこと――って、わっちが飯を作っとる間に論文読みながらゴミ箱の内容物や風呂の中まで見ておったのか!? そして、敵のゲームに乗って時間を稼いだ、と。あの段階では明らかに術中じゃったからの。時間はこちらの味方じゃったというわけか。このとき、屋上からの魔力反応の感知とわっちの用意した食事の数を確認しとったのか。なるほどのぅ」
エリザベートは感心したように頷き、その瞳に冷徹な戦士の光を宿す。
「まぁ、兎に角、これらから推測できること、妹御はそもそも存在しない――すなわち、わっちの記憶が改竄されておるということか。同時に、見えない妹御をわっちらに同時に見せていたということは、知覚にも作用する、と。現在は、わっちらの知覚を操作して姿を見えなくしとるというわけじゃな。うむ、主殿。どうやら、わっちの方が適任じゃぞ、この敵を探すのは。ちょいと、耳を塞いでおれ」
そう言ってエリザベートは深く、深く、肺の腑に思い切り息を吸い込む。
「わっ!!」
エリザベートはその息をすべて叩きつけるように、周囲に鼓膜を震わせるほどの大声を響かせた。
「うぐっ……」
耳を塞いでいた天乃も、至近距離からの物理的な衝撃を伴う大音量に顔を顰める。だが、その甲斐はあったようである。エリザベートの視線が鋭く右斜め方向へと固定される。
「主殿。二時方向――距離八メートル付近に目に見えん障害物じゃ。凹凸の具合から、ニンゲンじゃな、これは」
英莉は、『漆黒の翼』の副次的な効果によって、周囲の音波に干渉する能力を得ている。今回は、音の反響を利用して周囲の状況を把握する反響定位を、魔力によって高精度に再現したのである。
「とり、押さえろ。エリザベート!」
「了解じゃ」
エリザベートが影と見紛う速度で目標箇所に肉薄する。そして、喉があると思われる空間めがけて容赦のない掌底を撃ち込んだ。掌には確かな肉の感触。そのまま片手で首を掴み上げると、有無を言わさず地面に頭から叩きつけるように押し倒した。
その瞬間、天乃たちの視界を覆っていた霧が晴れるように、景色が正常に戻っていく。
エリザベートが取り押さえていたのは、一人の少女だった。
少女は白目を剥き、完全に気絶していた。術者の意識が途絶え、魔術の制御が崩壊したことで、光学的な迷彩が解けたのだ。
「さて、こいつの目的は何だろうな」
「主殿よ、よく見よ。こやつ、さっきの妹御にそっくりじゃぞ。とはいえ、よく思い出せんので、多分じゃが」
「そうか」
「あっ、ちなみに主殿に妹御はおらん。こやつが気絶したちょい後に思い出した。やはり、記憶を弄る系というのは間違いなさそうじゃ」
「ん? ……待て、そいつをよく見せろ」
天乃は、苦しい息の下で少女に近寄り、その顔を覗き込み、眼を凝らす。
「――違う。いや、そういうことか!?」
「ん?」
エリザベートは怪訝な顔をするが、即座に天乃の思考を読み取り、驚愕に目を見開いた。
「おぉ、魔術の性質……魔力の色が違うとな。つまり、敵は二人おるということか。知覚を操作する者と、記憶を操作する者の二人。はて? こっちは、どっちじゃろうな?」
「おそらく、知覚だ。さっきまであったオレに対する術式的な拘束感が完全に消えている」
「じゃが、わっちの記憶が少し戻ったのは?」
「ちょっと後だっただろ? つまり、それは術者が一人だと思わせるためのカモフラージュ、あるいは時間差をつけた保険なのだろうさ」
「なるほどのぉ。相変わらず、“魔術師殺し”じゃな、その魔眼は」
「“魔術師殺し”?」
「その魔眼を主殿はそう呼んでおった。どんな仕掛けもたいてい一目で看破してしまうからの。魔術師にとっては手の内をすべて晒しながらの戦いを強いられる。これ以上の嫌がらせはないじゃろ?」
「そう、だな。……さて、問題は、残る記憶操作の方を追うかだな」
「正直、わっちとしては追いたいが、これを放置するのもなぁ、という感じじゃ」
「――いや、そうも言ってられないぞ」
天乃がエリザベートを見る目は、確実にある異変を捉えていた。
「ん? マジか。それは、拙いの。まさか、わっちの記憶が今この瞬間も操作されとるとは」
「内容まではわからないが、何らかの記憶操作を受けている。それに――」
「確かにそうじゃな。なぜこやつら、あんな面倒なことをしたのじゃ?知覚と記憶を操れるのなら、不意打ちでもっと有効な攻撃手段があったじゃろうに」
天乃の懸念を読み取り、エリザベートは先回りして疑問をぶつける。しかし、その答えは最悪の形で示されることとなった。
「考えても埒が明かないな。とりあえず、記憶操作のパスを追うぞ」
「じゃがのう、どうやって追うのじゃ?」
「オマエにかけられている術式の痕跡と、術者とのパスを直接視る」
「もはや何でもありじゃな、その眼。――主殿! 躱せ!」
エリザベートの叫びと同時に、天乃は反射的に背後へ跳んだ。直後、さきほどまで彼がいた空間を凄まじい轟音と共に衝撃波が突き抜ける。
それは、エリザベートの細い腕が振るわれた音だった。
「――どうやら、記憶操作もできるってだけで、それが本質じゃないってわけか」
「冷静に分析してる場合じゃないぞ、主殿! 頼むから、わっちから可能な限り離れてくれ。わっちも……もう、そこそこの手加減しかできんぞ!」
エリザベートの声は悲鳴に近かった。彼女の意思に反し、その肉体は殺戮の道具として最適化されつつある。だが、天乃はあくまで冷徹に、突き放すように返した。
「馬鹿を言うな。空も飛べるオマエから逃げ切れるわけないだろう?だいたい、オレの内臓はさっきの《虚言の戒め》のせいでボロボロだっての。万全の状態でも怪しいってのに、逃げてどうするよ」
「じゃが――!」
エリザベートの表情が悲痛に歪む。自分の手が、最も守るべき主を壊そうとしている。
「――オマエが操られてるってのはわかった。仮に、オレを殺すようなことがあっても気にするな。もちろん、ただで殺されてやるつもりはない。せいぜい足掻いてやるさ」
「足掻く、じゃと?」
「だから、オマエも足掻け。限界までな」
天乃は口元の血を拭い、不敵に笑う。死の淵にありながら、その瞳にはエリザベートを射抜くような強い光が宿っていた。
エリザベートは体の自由が奪われ、意識が闇に沈みかける中で、その無謀な笑みに一筋の希望を見出した。
「くくく、かかかっ、いうてくれる。わっちとしたことが、少々不安になってしまったぞ?この落とし前は……きっちりつけてくれるのじゃろうな、主殿?」
「どうかな。オレがオマエの主に相応しいか、見極め――」
天乃が言葉を紡げたのは、そこまでだった。
次の瞬間、弾かれたように動いたエリザベートの右腕が、深々と天乃の腹部を貫いていた。
肉を断つ嫌な感触。エリザベートは、操られるがまま内臓をかき回すように手首を回し、鮮血と共に突き刺していた腕を引き抜いた。
天乃は声もなく膝をつき、そのまま力なくうつぶせに倒れ伏す。
月光の下、屋上に立ち尽くしていたのは、赤黒い返り血を全身に浴びた、金髪の少女だった。




