合理の獣と敵対者
2035年5月5日 午後11時54分
鵲の言葉に、間森が、警戒を滲ませて口を開いた。
「……魔術の魔導書化なんて、そう簡単にできるものじゃないだろう?」
至極当然の疑念だった。
だが、鵲はあっさりと肩をすくめていう。
「君の云うとおりさ。魔導書の作成なんてものは、魔術の極致だ。毀棄されぬ構造、才能の継承、そして己の魔術を抽出する技法。どれも一朝一夕には至らない。普通なら、ね」
鵲は口元を吊り上げ、にやりと笑った。
「でも、僕に限っては例外だ」
間森が目を細める。
鵲は続けた。
「僕は魔術師だけど、ほとんど魔術を使わない。理由? 単純だ。僕の魔術は、使い勝手が悪い。効果は極端、燃費も最悪。……だけど、こういう時には向いてる」
そう云って、鵲は両腕を広げた。
「じゃあ、始めようか。痛みはない。すぐに終わるさ」
そして、静かに詠唱を始めた。
「‶――貴方に与えられた概念は、貴方を創った者の願いである〟」
「‶我は常世すべての願いを踏み躙る者〟」
「‶為すべきことを果たせぬ無常を、呪うがいい――〟」
その声は、次第に異質な重みを帯びていく。
「‶没入開始――《概念抽出》〟」
詠唱が終わった瞬間、
鵲の手が、眩い光に包まれた。
彼は何も見ていない。ただその手を振るうだけ。
それだけで――
緋澄の身体から、永遠に魔術が失われた。
抵抗も、痛みも、苦しみもない。
ただ、静かに、取り返しのつかない喪失だけが残った。
鵲は、抽出した魔術を掌の中に収めると、用意していた荊の意匠をあしらったブレスレットへとそれを流し込んだ。
金属が淡く震え、内部に新たな魔力の核を抱え込む。
「――ほら、これで完成だ」
荊のブレスレットを軽く掲げながら、鵲は云った。
「これは魔導書 《荊の女王》。今からは――」
鵲の視線が、静かに遊上へ向く。
「これを持つ者が、緋澄眞琴。持たぬ者が、遊上真理だ」
宣告のような声音だった。
世界が、決定的に変わった。不可逆の形で。
静寂の中で――
遊上が、ふと天乃の顔を見た。
今さらながら、はっきりと気づいた。
この男は二日前、自分の任務を台無しにした張本人だ。
あの時は、悔しさと怒りしかなかった。
だが、今なら分かる。
――あれは、助けだった。
あの情報が懐古主義者に渡っていたなら、自分も、緋澄も、救われなかったかもしれない。
遊上は、恐る恐る口を開いた。
「……あのとき、仕事を邪魔されたって思ってたけど。今は……助けられたんだって、思ってる。あの情報を渡さずに済んだから」
天乃は、わずかに眉を動かしただけで、すぐに視線を逸らした。
「礼を言われる筋合いはない。ただの仕事だ」
突き放すような声音。
その冷淡さに怯んだ遊上の前へ、緋澄が一歩出た。
「……そういう云い方はないでしょう」
静かだが、強く響く声だった。
だが、天乃は即座に応じる。
「事実だ」
その冷たさに、緋澄の目が苛立ちに揺れる。
真正面から、言葉を放つ。
「あなたには感謝しているわ。でも――そういうドライすぎるところは嫌いよ」
緋澄は、まっすぐに天乃を見据えた。
天乃は一瞬、彼女を見返し、すぐに返す。
「好かれる必要もない」
嘘のない、冷徹な声だった。
空気が張りつめる。
微妙な緊張が、場を満たしていく。
遊上が慌てて手を伸ばし、姉を制そうとする。
「ま、まぁまぁ……お姉ちゃん、落ち着いて……!」
だが、緋澄は止まらない。
「だったら――あなたと私の間に、貸し借りもないということね?」
天乃は即答した。
「ああ、そうなるな。オレは仕事をしただけだ。オマエがそれに感謝する必要もない」
その言葉に、鵲が肩をすくめながら口を挟んだ。
「はっはぁ、天乃君は相変わらず『合理の獣』だねぇ。『考える葦』も真っ青だ」
芝居がかったその声音は、おそらくパスカルの『パンセ』を意識したものだった。
だが――
緋澄の目には、もはや一切の躊躇がなかった。
「だったら――もう感謝はしない」
低く、しかし確かな声で言い放つ。
「猫を被るのも、やめにする。貴方は私の『敵』よ。――天乃慎」
その瞳には、複雑な感情が滲んでいた。
恩人への感謝も、怒りも、寂しさも――すべてを抱えたまま。
それでも緋澄は、宣言した。
天乃は、それを黙って受け止めた。
そして、わずかに笑みを見せ――
「いいだろう」
そう答えた。
そこにあったのは、決定的な敵対ではなかった。
互いを認め合った、対等な立場への変化。
戦友にも似た、奇妙な距離感が、確かに二人の間に生まれていた。




