《禁絶の世界》――認識を越えて
2035年5月5日 午後11時26分
《禁絶》は血に濡れた肩を押さえながら、静かに息を吸った。
その瞳には、もはや冷静さも高圧的な余裕もない。
代わりに――純粋な、憎悪と敵意だけが宿っていた。
「……いいでしょう」
呟き、《禁絶》は足元に魔力を集中させた。
天乃の”魔眼”がそれを捉える。
(何か、来るッ!)
次元が違う。
今までとは――格が違う。
《禁絶》は、静かに、しかし確かに詠唱を開始した。
声に乗る、彼女の歪んだ心象が開示される。
「‶ああ忌々しい。どうして私を縛る鎖を貴方は許すのか〟」
「‶ああ妬ましい。どうして貴方は私より先に進むのか〟」
「‶ああ鬱陶しい。どうして世界は私の思い通りにならないのか〟」
「‶幾星霜を超えて栄えたものを私が禁じ私が絶やす〟」
「‶これが私の見る世界〟」
「‶嵌合成立――《禁絶の世界》〟」
《禁絶》の詠唱が終わり、空間が歪む。
《禁絶の世界》。
存在そのものを根絶しようとする異常な現実改変が、音もなく展開された。
[lqeyD5s3,933329]
天乃の‶魔眼〟は、あくまでも魔力を視るためのものであり、空間の異変そのものを視ることはできない。
だが、《認識変換》を発動するその瞬間、対象たる術式の構造に関する情報が副次的に脳へと流れ込む。
《認識変換》とは、文字通り「対象の認識を変換する術式」である。
ゆえに、その対象が魔術である場合――
それがどのような「認識」で、すなわちどのような「構造」で成立しているかを、天乃には瞬時に理解することができるのだ。
そうでなければ、そもそも何をどのように変換するのかという判断ができない。
つまり、彼の《認識変換》には、変換対象の構造的把握があらかじめ前提として組み込まれているのだ。
(……なるほどな)
天乃は即座に《禁絶の世界》の構造を把握する。
《禁絶》の意思――「根絶したい」という欲求と、対象の「生き残りたい」という意思。それらが歪に合致した瞬間に、対象は存在ごと消されるという生命そのものへの攻撃術式だった。
これらの意思の合致が詠唱によって擬制されているのである。
これらの組み合わせは恐るべき必中の即死技となって天乃らに降りかかる。
しかし――それは、あくまで《禁絶》の展開した「世界の認識」にすぎない。
天乃は、迷わず《認識変換》を行使した。
《禁絶の世界》の認識を変換する。
「《禁絶》が根絶したい存在を消す」という認識を「自ら根絶されたいと願う者を消す」という認識へと対象をすり替える。
無理やりに、力ずくで世界を書き換えた衝撃に、空間が軋み、悲鳴を上げた。
だが、《禁絶》はその違和感に気づけない。
彼女は、自らの術式が完璧だと信じていた。
結果――天乃たちは、全員生き残った。
誰一人、「死にたい」とは願わなかったからである。
だからこそ、この世界に根絶される者は存在しなかった。
《禁絶の世界》は、静かに、しかし確実に、崩壊した。
《禁絶の世界》の唯一の欠点。
それは持続時間が非常に短いことである。
効果こそ派手で範囲もそこそこ広いが、それは領域内の全ての生命を根絶するという世界の理に反した禁術である。
したがって、《禁絶の世界》は、この世界の修正力を乗り越えることができず、即座に修正され、消滅するのである。
そして、再展開するためには充分なクールタイムが必要となる。
《禁絶》の顔に、明確な焦りが浮かぶ。
肩の傷、再展開不能となった切り札の術式、そして、近づきつつある警備隊の増援。
(……これ以上、ここでは戦えないわね)
《禁絶》も、即座に判断した。
彼女は、懐から小型の煙幕弾を取り出して地面に叩きつける。
天乃らの視界が、真白に塗り潰される。
同時に――天乃の‶魔眼〟は、わずかに異質な魔力の揺らぎを捉えていた。
通常の転移術式とは違う、説明のつかない逃走経路が開く。
(……何だ?)
だが、そこまでだった。
詳細までは視えない。
天乃が一歩踏み込むより早く、《禁絶》の気配は霧散した。
彼女は、確かにこの場から消えた。
それだけが、厳然たる事実だった。
浅木特区警備隊の増援部隊が、路地の向こうに姿を現す。
天乃は、静かに呼吸を整えながら、仲間たち――間森と緋澄の無事を確かめる。
(……なんとか勝ったか)
確かに、そう云える成果だった。




