震える手で掴んだもの
2035年5月5日 午後8時48分
薄暗い廃ビルの一室。
埃の積もった床に、錆びた机。
粗末な照明が、周囲を鈍く照らしている。
そこに集う懐古主義者の構成員たちは、興奮と高揚を隠しきれずにいた。
「……これが、完成したマジックキャンセラーだ」
リーダー格の男が誇らしげに銀色のケースを開き、その中に収められた機器を、皆に見せた。
「これがあれば、戦略級魔術師だろうと恐れるに足らん。力を封じれば、ただの小娘にすぎない!」
「緋澄眞琴――奴を打ち倒すことで、我々の正義は証明される!」
男たちは口々に叫ぶ。
拳を振り上げ、顔を紅潮させる。
まるで、勝利を目前にした兵士たちのように。
だが、その喧騒を誰よりも静かに眺める存在がいた。
赤い中華ドレスに身を包んだ女――《禁絶》。
他の懐古主義者たちとは異なる、鮮やかな色彩。
無機質な顔立ち。感情を感じさせない瞳。
《禁絶》は、騒ぐ者たちを一瞥すると、ふと、思考を巡らせた。
(――彼らは何も理解していない)
マジックキャンセラー。
確かにそれは強力な兵器だった。
だが、問題はそこではない。
重要なのは、その存在が世に知れ渡ること。
もしも社会が、
「魔術師の力は絶対ではない」
「無力化できる手段が存在する」
と知れば――
魔術師たちへの幻想は崩れる。
力を持つ者を恐れ、従ってきた人々は、次にこう考えるだろう。
『彼らは危険だ』
『管理すべきだ』
『できれば排除すべきだ』と。
特に――戦略級と呼ばれる存在たちは、社会にとって脅威とみなされる。
圧倒的な力は、賞賛ではなく、恐怖を生むのだ。
緋澄眞琴が討たれれば、それは理想的。
だが、たとえ討たれなくとも――
存在そのものが「制御不能な兵器」と認識されればそれで十分だった。
(成功しても、失敗しても、我々が得をする)
《禁絶》の無感情な顔に、かすかに冷たい笑みが浮かんだ。
彼女の視線の先では、懐古主義者の構成員たちが勝利を疑わず、声を荒げていた。
(――無邪気なものだ)
彼らは、自分たちの手で未来を切り開こうとしていると信じている。
だが、その道筋すら、既に誰かの掌の上にあることに気付かずに。
静かに、《禁絶》は赤い中華ドレスの裾を整えた。
そして、何も云わずにその場に溶け込んでいく。
作戦開始の時は、すぐそこまで迫っていた。
2023年5月5日 午後9時2分
冷たい風が、裏路地を吹き抜ける。
遊上は、壁にもたれかかったまま動けずにいた。
心の奥底に巣くった無力感と絶望が、体を鉛のように重くしている。
「――随分と暗い顔をしているね」
不意に、軽薄な声が頭上から降ってきた。
遊上がびくりと身を震わせる。
慌てて顔を上げると、そこには――
派手な柄シャツに短パンという場違いな格好の中年男が、にやにやと笑いながら立っていた。
天乃鵲。
どこから現れたのかもわからない。
まるで、最初からそこにいたかのような自然さだった。
「……誰?」
思わず声が震える。
だが、鵲は肩をすくめるだけだった。
「まあ、通りすがりの親切なおじさん……ってことにしておこうか」
そう言いながら、
鵲は遊上の顔をじっと見た。
ぞわり、と背筋を這う感覚。
(見られてる――中身まで、全部)
遊上は、心の中をまるごと剥き出しにされるような錯覚に、思わず身を強張らせた。
「君、眞琴お姉ちゃんを助けたいんだろう? でも、自分じゃどうにもできないって、思ってる」
鵲は、まるで昨日から遊上の頭の中にいたかのように、軽く、無邪気に言葉を重ねた。
「このままだと、お姉ちゃんが死ぬかもしれない。でも動けば、自分が死ぬかもしれない。――さて、どうする?」
遊上は、言葉を失った。
呼吸すらうまくできない。
ただ、恐怖と混乱で、心がひたすら揺さぶられていた。
彼はなぜそんなことを知っているのか。本当に心の中まで読めるのではないか。そのような疑惑が遊上の頭の中を過る。
鵲は、そんな遊上の様子を楽しむように微笑んだあと、わずかにトーンを落とした。
「君の協力が欲しい」
その一言は、耳元で囁かれる悪魔の声のようだった。
遊上は、かろうじて震える声を絞り出す。
「……何を、すればいいの?」
鵲は、ことさらお道化た仕草で手を打った。
「簡単なことさ」
くるりと手首を回しながら、言葉を続ける。
「ちょっと見た目をいじるだけで、君はお姉さんそっくりになる」
にやりと笑い、指を立てる。
「一卵性双生児の、いいところであり悪いところでもある。つまり――」
声が、わずかに弾んだ。
「――囮だよ」
遊上は、息を呑んだ。
恐怖が、喉を締め付ける。
だが、それでも――
(……それで、お姉ちゃんを救えるなら)
膝が震える。
心臓が痛いほど打ち鳴る。
それでも、遊上は頷いた。
「……わかった。やる」
その声はかすれていたが、確かな意志を帯びていた。
鵲は、そんな彼女を見て、心底楽しそうに笑った。
「いい返事だ」
夜の闇に、二つの影が静かに溶けていく。
その先に待つものを、遊上は、まだ知らない。




