静謐のなかで
2035年5月5日午後6時22分
待機室に静かな沈黙が落ちた。
天乃は、目の前の少女――緋澄眞琴を見据える。
緋澄もまた、天乃の顔をじっと見つめ返していた。
その視線には、確かな戸惑いがあった。
(……気づいたか)
天乃は内心で、静かにそう思う。
数日前――緋澄が懐古主義者からの襲撃を受けたあの夜、物陰から《認識変換》を使い、彼女を間接的に支援した。
直接名乗ったわけでも、顔をはっきり見せたわけでもない。
それでも。
魔力の感触か。
あるいは、微かな記憶の残滓か。
少女の本能が、天乃を引き寄せていた。
やがて、緋澄がそっと口を開いた。
「……あなた、もしかして――あのとき……?」
天乃は、何も表情を変えず、ただ視線だけを緋澄に向けた。
そして、淡々と答える。
「――さぁな」
それだけ。
肯定でも否定でもない。
天乃は、何も語らなかった。
緋澄は、わずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
追及すれば、この場の均衡が崩れると、本能的に悟ったのかもしれない。
天乃は、彼女の反応を見て、小さく、しかし確かに思う。
(……強いな)
誰も信用できない状況で、
それでも緋澄は冷静に状況を受け入れている。
敵の矢面に立たされながらも、
屈しない意志を持っている。
その姿に、
天乃はわずかな敬意すら感じていた。
「――そろそろ移動だ」
通信端末に入った指令を確認し、天乃は短く告げる。
緋澄は何も言わず、静かに立ち上がった。
間森が軽い調子で肩をすくめる。
「さぁ、出発と行こうか」
誰も、過去に踏み込もうとはしなかった。
ただ今は、目前の任務に集中するだけ。
警護対象――緋澄眞琴を守り抜くために。
天乃は、冷ややかに燃える決意を胸に待機室を後にした。
2035年5月5日午後10時1分
警備隊の仮設拠点――簡素な宿舎の一角で、緋澄は机に向かっていた。
宿題用の問題集を広げ、ペンを走らせている。
護衛の合間。
こういう時間にも手を抜かないあたり、彼女の律儀さが伺える。
天乃は部屋の隅、窓際に立ち、外を警戒しながら眺めていた。
間森は軽く仮眠を取っている。
静かな時間が流れる。
しかし、緋澄はあるページで手を止めた。
「……」
ペン先が宙に浮いたまま、じっと問題文を見つめている。
そして、ちらりと天乃の方に目を向けた。
「……ねえ」
天乃は振り返らず、わずかに顔だけ向けた。
「何だ」
「この問題……ちょっとわかんない」
緋澄は不機嫌そうに問題集を指さした。
国語の記述問題。
『次の文章を読んで、作者の心情を答えなさい。』
天乃は、一瞥しただけで理解する。
「――出題者の意図を読め」
緋澄が瞬きをした。
「……え?」
天乃は、特に説明を加えずに続ける。
「本当に作者が何を思ったかなんて関係ない。問題を作った奴が、どう答えてほしいかを考えて書け。そうすれば点数になる」
淡々とした口調。
だが、そこには迷いがなかった。
緋澄はしばらくぽかんとした後、少しだけ頬を引きつらせながら苦笑した。
「……そんなものなの?」
「ああ。学校教育なんてそんなもんだ」
天乃は、そう言って再び窓の外に視線を戻す。
緋澄は小さくため息をつきながら、ペンを握り直した。
「……わかった」
そう答え、また静かに問題集に向き直る。
天乃は、彼女がまっすぐに宿題に取り組む背中をふと横目で見た。
(……迷いがないな)
多少なりとも、不条理な現実に触れながら、それでも立ち止まらず、なすべきことに向かう。
そんな人間は、思っているよりずっと少ない。
天乃は、再び外へと視線を戻した。
部屋には、宿題に向かうペンの音と外の世界へ向けられる静かな警戒心だけが、交錯していた。




