崩れゆく信仰
2035年5月5日午前9時52分
浅木特区外、本州某所。
薄暗いアジトの一室で、遊上は無言で端末に向かっていた。
拠点が、一つ崩壊した。
それが、朝の連絡で知らされた内容だった。
(……昨日、何があったんだろう)
まだ詳細は知らされていない。
ただ、拠点防衛がすべて破られ、壊滅したという事実だけは確かだった。
上層部から命じられたのは、「回収された破損データの修復」だった。
崩壊現場から持ち帰ったサーバーの破片。
破損したディスク。
それらを、可能な限り復元しろという。
(また、面倒な……)
遊上は小さく息を吐く。
指先がキーボードを滑り、復元ツールが動き始める。
バグだらけのファイル群が、断片的に蘇る。
破損率は高い。
それでも、わずかに残ったデータを拾い上げる。
無心で作業を続けていた、そのとき――ふと、ひとつのファイルに目が留まった。
『襲撃計画・緋澄眞琴』
そう記されていた。
(……え?)
思わず手が止まる。
震える指で、ファイルを開く。
そこには、昨夜の標的が、緋澄眞琴――
あの、幼い頃、確かに共に過ごした姉妹の名が刻まれていた。
(お姉……ちゃん……?)
幼い日の記憶が、胸をよぎる。
まだ何も知らず、ただ無邪気に笑い合っていた頃の眩しい日々。
それが、今――組織の手によって、消されようとしていた。
(……どういう、こと?)
画面に映る指示書には、こうあった。
『緋澄眞琴――現代魔術社会の象徴。これを排除することで、旧き世界への回帰を印象づける』
(違う……)
胸の奥で、何かが軋んだ。
懐古主義者が掲げていた理想。
魔術に頼らない、人間本来の生き方を取り戻すという理念。
それに、確かに遊上は共感していた。
救われた気がしていた。
魔術さえなければ大好きな姉と一緒にいられたのにという思いもあった。
けれど。
(本当に、これが……わたしたちのやるべきこと?)
目の前の事実が、容赦なく突きつける。
理想のために、関係のない人間を消す。
しかも――
(お姉ちゃんを……)
遊上は、唇を噛みしめた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、どうしようもない、深い深い失望が、胸を満たしていた。
カタリ、とキーボードを叩く指が震える。
それでも、作業を止めることはできなかった。
命じられた通り、データを復元しなければならない。
この組織に背くことが、今の自分には許されないことを、痛いほど理解していたから。
この組織以外の居場所は自分で捨ててしまった。
(……でも、わたしは……)
心の奥で、何かが、確かに、ひび割れた。
初めて。
遊上真理の中で、
懐古主義者という存在に対する疑念と、
そして――自らの居場所に対する不安が、静かに芽生えた。
2035年5月5日午前11時2分
アジトの空気は、どこか重たかった。
かつては、同じ理想を掲げる者たちの集まりだと信じていた。
だが――
(……違う)
遊上は、ひとり静かに端末を閉じながら思った。
拠点の崩壊を受け、組織内では「次の手」をどう打つかで慌ただしくなっていた。
次なる襲撃計画。
目標リスト。
破壊すべき対象の精査。
交わされる会話は、どれも冷酷だった。
「緋澄の件は失敗したが、まだ他にも標的はいる」
「目立つ魔術師を潰していけばいい。数を撃てば象徴も崩れる」
そんな声が、壁一枚隔てた向こうから漏れ聞こえる。
遊上は、手を止めたまま動けなかった。
(これが……わたしたちの、やるべきこと?)
理想を信じた。
魔術に頼らない世界を夢見た。
けれど、ここで語られるのは、ただの破壊だ。
誰を潰すか。
どうすれば効果的に混乱させられるか。
そればかりを競うような言葉。
(……お姉ちゃんを、そんな風に……)
指先が、わずかに震えた。
誰にも見られないように、そっと拳を握り込む。
「――おい、遊上」
不意に背後から声がかかる。
振り返れば、同じ懐古主義者の一人――目つきの鋭い、若い男だった。
「お前、データの復旧作業、進んでるか?」
「あ……はい」
遊上は即座に答える。
冷静に、何事もないように。
「だったらさっさとまとめとけ。上層部が新しいターゲット探してるからな。手間取るなよ」
吐き捨てるような口調で言い捨てると、男は去っていった。
残された遊上は、静かに、自分の胸に問う。
(……わたしは、ここにいていいの?)
誰も、疑問を持たない。
誰も、立ち止まらない。
正しいと思っていたものが、目の前でどんどん色褪せていく。
(こんなの……)
違う。違うはずだった。
姉を、無差別に標的にするような世界を、遊上は望んでいない。
遊上は、知らず、膝の上で指を強く握りしめていた。
ただ、顔には出さない。
まだ、出してはいけない。
今ここで異を唱えれば、自分もまた、消される側に回ることを知っているから。
(……でも)
小さな違和感が、胸の中で確かに広がっていく。
決して、消えはしない。
静かに、確かに、遊上の中で――
何かが、壊れ始めていた。
2035年5月5日午前14時25分
乾いた風が、アジトの薄汚れた窓を鳴らしていた。
遊上は、端末に向かいながら、
機械的にデータベースの監視ログを眺めていた。
(……また、意味のない仕事)
上層部から下ろされたのは、「有力魔術師の行動パターンを洗い出せ」という曖昧な命令だった。
(破壊するために?)
考えたくなかった。
ただ、指示通りに動かないと、自分の立場が危うくなる。
そう思いながら、スクリーンをスクロールしていた、そのとき――
『緋澄眞琴 行動記録』
その名前が目に飛び込んできた。
心臓が跳ねた。
手が、止まる。
(……お姉ちゃん)
迷いながら、遊上はファイルを開いた。
そこには、昨日までの緋澄眞琴の動向が記されていた。
主な行動範囲。
誰とも接触していないこと。
浅木区への移動予定がないこと。
ただそれだけの、
簡単な報告だった。
(……無事、なんだ)
ほっと胸をなでおろした瞬間、自分でも知らなかったほど深い安堵が、心に満ちた。
けれど同時に。
(わたしは……どうするの?)
このまま、見て見ぬふりをして、また誰かの指示で姉が傷つくのを、黙って許すのか。
(それだけは、嫌だ)
拳が、震えた。
頭では理解している。
組織に逆らえば、自分が危うい。
それどころか、消されるかもしれない。
それでも――
(お姉ちゃんだけは)
守りたかった。
何もできなくてもいい。
せめて、何か、わたしにできることは――
遊上は、端末のログを慎重に、しかし確実に編集した。
緋澄眞琴に関する行動記録の一部を、誰にも気づかれないように、静かに改竄する。
ほんのわずか。
誤差のような、微細なズレ。
けれどそれが、誰かの判断を遅らせるかもしれない。
ほんの一秒。
たったそれだけでも、姉が逃げ延びる可能性があるなら。
それだけを願って。
(――ごめんね。)
心の中で、小さく呟いた。
(お姉ちゃん。わたしは、まだ、あなたの隣に行けるほど、強くない。
でも――いつか、きっと。)
静かに、
しかし確かに、遊上の心は変わり始めていた。




